Bloody Rose

紫月音湖(旧HN/月音)

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第2章 にゃんだふるライフ

止まらない涙

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 右も左も分からなかったが、レフィスは無我夢中で森を駆け抜けていた。
 見つかった時に向けられた、あんなにも鋭く冷たい気配を、レフィスは心の底から怖いと思った。今まで何度か一緒に依頼をこなしたが、あんなユリシスは初めて見た。
 ユリシスではないような気がした。

(ユリシスって、一体何者なのよ)

 彼の事を少しでも知りたいと思い決行した尾行は、けれど更に深い謎をレフィスに与えただけだった。
 影のように従うルヴァルドと言う男。
 十年前に反乱が起き、今では凶悪な魔族の住処となっている神魔国ルナティルス。
 そのルナティルスとユリシスとの関係。
 そして、彼らが指す「秘宝」とは。

 逃げながらも、レフィスの頭にはさっき聞いた言葉が延々繰り返される。それらを振り払おうと頭を振ったレフィスが、次の瞬間地面の窪みに足を取られて前方に派手に転がり込んだ。

「うぎゃっ」

 ずさぁっと滑った小さな体が、何か固いものにぶつかって止まる。

「いったぁ……」

 よろりと立ち上がって視界を確保したレフィスの目が、予想もしなかった最悪の事態をはっきりと映し出した。

「ガルルル……」

 生臭い息を吐き出しながらレフィスを見下ろしていたのは、二つ首の鋭い牙を持つ黒い魔犬だった。





 森の遠く、深い所から悲痛な叫びが漏れ聞こえる。
 時々何かにぶつかっては途切れ、そしてまた木霊する悲鳴。それに重なる咆哮は、その音だけで獰猛さが感じられる。
 何回目かの転倒の末、レフィスはついに右足に深い傷を負って、そのまま前に倒れこんでしまった。その好機を逃すまいと、後から追いついた魔犬が口を大きく開けて飛び掛る。

「いやっ!」

 叫んでも、もうレフィスには逃れる術は何一つなかった。
 猫であるがゆえに逃げる事しか出来なかったレフィス。しかし右足が動かなくなってしまえば、もうレフィスには助かる道など残されていない。それでも必死に足掻こうと地面を這ったレフィスの体に、魔物の巨大な影が容赦なく覆い被さった。

「……ユーリっ!」

 最後の悲鳴のように名を呼んで、レフィスが瞳をぎゅっときつく閉じた。
 瞼の裏に、幼い頃の思い出が浮かんでは消えていく。記憶に残る少年の声がレフィスの名を呼ぶより先に、記憶よりもはるかに近い場所で……少年と似たような声がした。

「馬鹿がっ!」

 苛立った声と共に、レフィスの体がふわりと浮いた。そのすぐ後に魔犬の悲鳴が続いて、そして消えていく。いつかと似た情景にレフィスが目を開くと、思っても見ないほど間近に怒ったユリシスの顔があった。

「……ユリシス」

「身を守る術を持たないなら、俺の後なんかつけて来るなっ!」

 あまりの怒号に、レフィスの体が硬直する。魔犬に襲われている時とは別の恐怖が、レフィスの中を満たしていくようだった。

「……ご……ごめんな、さ……」

「好奇心で死ぬつもりか」

 冷たく落とされた言葉に胸を貫かれたようになり、レフィスが一瞬だけ呼吸を止める。怯えて小さく丸めた体を強く抱きしめているユリシスの力に、今のレフィスが気付く事はなかった。

「……だっ、て……ユリシスの事、知りたかったんだもの。聞いても教えてくれないし。……ただ一緒に仕事をする仲間じゃなくて……もっと、皆の事……」

 そこまで言って、口を噤む。続きを口にする事は出来なかった。声を出せば、その震える音に涙までが誘われてしまう。唇を噛む事の出来ない猫のレフィスは、ユリシスにしがみ付いた手に力を込める事で、溢れ出しそうな涙を寸でのところで必死にせき止めた。

「……馬鹿が」

 先程と同じ言葉を、先程とは違う……かすかに優しい声でユリシスが呟いた。

「俺の事が知りたいなら教えてやる。だが今はまだ駄目だ。……時期が来たら、ちゃんと答えてやるから……待っていろ」

 いつになく優しい声音に、レフィスがゆっくりと顔を上げた。少しだけ潤んだ瞳に映ったユリシスの顔が、ゆっくりと歪んでいく。涙のせいかと瞬きを繰り返したレフィスだったが、今度は急激に視界が回転し、気持ちの悪い浮遊感と共にがくんっと前に倒れこんだ。

「……いきなり戻るな」

 自分の下から聞こえた声にはっと目を向けると、同じ目線に紫紺の瞳があった。必死にしがみ付いていた手も人間のそれに戻り、レフィスはユリシスを巻き込んで地面に倒れこんでいる。元に戻っても、レフィスは怯えた猫のようにユリシスの胸にすがり付いていた。

「……戻っ、た」

「らしいな」

 胸にしがみ付くレフィスを避けようともせず、あえて下敷きにされたまま、ユリシスもレフィスに回した腕を解こうとはしない。その熱を感じてか、ユリシスを見上げたレフィスの瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

「あれ……?」

 瞬きで押し留めようとするも、一度堰を切った涙は止まる術を持たず、後から後から零れ落ちていく。レフィスの頬を滑り落ちた雫は、あっという間にユリシスの胸元を熱く湿らせていった。

「変ね、止まらない……。ごめん」

「別に構わない。……気が済むまでこうしてるから、今は泣いてろ」

 その言葉に、レフィスが迷う事はなかった。

「ユリシス……。怖……っ、怖かっ……の。魔法も使えないしっ、逃げるしか出来ないし……本当に死っ……死ぬんじゃないかって……」

「ああ」

 ユリシスは何も言わなかった。ただ黙って、レフィスの体を抱きしめるだけだった。
 けれど、それが何より嬉しかった。

「ごめんなさいっ……」

 嗚咽を堪えながら、何度目かでやっとレフィスがはっきりと言葉を紡ぐ。

「……助けてくれて……ありがとう」

 そう言ったかと思うと、また涙が溢れ出した。

 月明かりの下。
 ユリシスの腕に抱かれながら、レフィスは子供のように声を上げて泣いた。
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