私とラジオみたいな人

あおかりむん

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たのしみ【楽しみ】

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たのしみ【楽しみ】さぞや楽しいことだろうという期待感をもって、そのことの実現を待ち望むこと。



 私は旅行というものをしたことがありません。母と暮らしていた時は旅行自体を知りませんでしたし、斎明寺家にいるときも旦那様方の旅行に連れて行っていただこうなんて夢にも思ったことはありませんでした。ただラジオで時折流れてくる観光地のお話を聞きながら、とても素敵な場所がたくさんあるのだなあと想像するくらいで十分でした。私にとっては自分の部屋でラジオを聞いているのが最も心安らぐ時間であって、部屋の外は斎明寺家の皆様に恥をかかせてはいけない、余計なことを言ってはいけないと気を張り続けなければなりません。それが何日も続くのはとても大変なことだと想像に難くありませんでした。だから肇様との旅行の前夜に明け方近くまで胸がどきどきとして寝付けなかったのは何か失敗をしてしまうのではないかと緊張していたせいだと思うのです。当日は早朝に家を出て始発の汽車に乗ることになっていたので、出かける三十分くらい前には支度を済ませて肇様が来るのを玄関で待っていました。二十分前には松田さんが来てくれました。松田さんはよく私の身支度を整えてくれる女の人で、今回の旅行にもついて来てくれます。松田さんと二人で肇様を待っていたのですが、五分前になっても肇様は現れませんでした。汽車というのは乗りそびれたらどうなってしまうのか知らなかったので、どんどん不安になる私に松田さんが『ぼっちゃんを起こしてまいりますね』と言って肇様の部屋の方へ早足で歩いて行きました。その五分後には見事に肇様を連れてきてくれました。肇様はぼさぼさの頭でジャケットもネクタイも帽子も松田さんに持たせて、シャツのボタンを留めながらやってきました。私の顔を見るなり『出発時間は余裕をもって決めてあるから慌てなくても大丈夫だよ』と言いました。私はその開き直りようが信じられず、いつかの時のように一人でさっさと車に乗り込みました。肇様は駅へ向かう車内で身支度を整えながら『男は準備に時間がかからないから。着る服も決めてあったし』とか『帽子をしばらく被っていれば髪もいい感じに落ち着く』とか的外れな弁明をし続けていたので、私は車の窓から明るくなり始めた街並みをずっと見ていました。松田さんは笑っていました。到着した駅はまだ人もまばらでしたが、乗る予定の汽車の近くは多くの人で賑わっていました。私は人がたくさんいる場所をうまく歩けないので大丈夫だろうかと少し緊張していると前を歩く肇様が腕をこちらへ差し出しました。思わず顔を見上げると何も言わずに口元をぐにっと曲げて私を見ていました。少し迷ったのですが、他の人にぶつかってしまう方が良くないと思い腕に掴まらせてもらうことにしました。なんとか汽車に乗り込むことができて、二人ずつ向かい合わせで座る個室にたどり着きました。松田さんの席は別の車両らしく一旦ここで分かれることになりました。全てが初めて見るものですから私は個室や窓の外の乗り場の様子なんかを見るのに夢中になっていました。座席に腰かけて窓の桟に両手を置き額をガラスにつけて乗り場を見下ろしていると、座面がたわんで隣に肇様が座ったのだと気が付きました。てっきり向かいの席に座るものかと思っていたので少し戸惑いました。もう肇様に怒ってはいなかったのですが、どういう態度を取ればいいか分からず私は気付かないふりをして窓の外を眺めて続けました。ですがこのままの空気で何時間も過ごすのはあまりにも気まず過ぎました。私は早く謝ってしまおうと思い何度か肇様を振り返ろうとしたのですが、いざとなると私は悪くないのにと考えてしまってどうにも声が出てきません。普段の私なら人様に嫌な思いをさせたと素直に謝れるのに、肇様相手だとすごく意地の悪い人間になってしまうのです。謝るか謝らないか内心せめぎ合っていると窓の桟を掴んでいた手が何かに包まれました。驚いて視線を向けると大きな手が私の手を覆っていました。状況を飲み込む前に耳のすぐそばで『ごめん』と低い声がしました。『家を出る時の態度は我ながら酷かった。こんなに楽しみにしてくれていたのに水を差すようなことをした。すまない、どうか機嫌を直してくれないか?』と続けました。私は喉から心臓が飛び出るくらいどきどきしてしまって肇様が言った意味を理解するのに数秒かかりました。その間も肇様は私の耳元で謝罪の言葉を重ね続けるので私は半ば混乱したまま頷きました。すると肇様はと大きなため息と一緒に『よかった。あせった』と吐き出し私の腹に両腕を巻き付けました。後ろから抱きつかれて肩に額を押し付けられて私は硬直しました。『心臓すごいけど大丈夫?』と尋ねてくる肇様に息も絶え絶えに離れるようお願いするので精一杯でした。




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