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変な魚

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 夏休みの終わり、僕は釣り竿を持って琵琶湖にやって来た。大きめの釣り針に適当に練り餌を付けて沖へ投げ、置き竿して腰を下ろした。
 溜まっていた宿題が思ったより早く片付き、ちょっとのんびりしようと琵琶湖に来たのだ。湖岸にいて何もしないでボーッとしているより、形だけでも釣りをしている方がより落ち着いた気分になれる。そんな、釣る気のない釣りだった。
 雨が降ってきそうな曇り空で、この時期にしては暑さが苦にならない。風もやや強めに吹いていて気持ちがいい。

たぷん、たぷん・・・

小さな波が足元の石垣に当たって揺れている。
 離れた所で親子が釣りをしているのが見える。小学生だろうか、娘さんが短い竿でブルーギルを釣り上げてはお父さんに写真を撮ってもらっている。お父さんは針を外してリリースするのに忙しそうだ。夏休みにふさわしい微笑ましい光景だと思った。外来種のブルーギルはリリース禁止だなんて事は、今はどうでもいいや。
 カバンからベビーカステラの袋を取り出した。バイト先で売れ残ったものだ。一つぽんと口に入れてから、釣り竿を持ち上げてリールを巻いてみた。餌は流れたのかもう無くなっていた。餌の代わりにベビーカステラをギュッと固めて針に刺してみる。ちょっと笑えた。うん、どうせ釣る気のない釣りなのだ。竿を振るとオモリに連れられてベビーカステラが勢いよくすっ飛んで行った。

とぷとぷんっ

沖の水面に二つの輪が重なりながら広がって消えた。竿を置き、ペットボトルのお茶を飲む。
 学校とかバイトをしている菓子屋とか、自分に関係のある世界から離れ、今は自分の日常とは関係の無い人や物に囲まれている。背後の遊歩道にはジョギングするおじさん。観光客らしき家族連れ。ベンチで一休みするお婆さん。その周りに集まる鳩の群れ。遠くの方に目をやると、港に停泊中の遊覧船、ミシガン号が見える。

リリッ

置き竿していた竿先の鈴が鳴った。
ベビーカステラに魚?
僕は竿を取り、半信半疑でリールを巻いた。重い手応えはあるものの、ズルズルと引きずるような感触だった。
「ゴミかな。水草かも。」
美化活動に協力できるなら結構なことだけど。糸が切れないようにゆっくり引き寄せる。すぐそこまで近づけると、50cm位ありそうなずんぐりとした魚が浮かび上がって来た。

ぷかぁ~

黒くてぶよぶよしていてナマズともコイとも違う、見たこともない魚だった。
「うわ、なんだこれ。」
形は、例えるならでっかいコルネパンにヒレを付けたようだった。太い方の開いた部分が口で、ギザギザした歯がのぞいている、そんな感じ。ちょうちんアンコウみたいに頭から触覚が生えていて、触覚の先には真珠みたいな玉が付いている。
「うわ、なんだこれ。」
無意識にもう一度そう言った。石垣の上に引き上げてその前にかがんだら魚と目が合った。魚は口をゆがめて
「ぺっ」
と針を吐き捨てて言った。
「何てこった。人間に釣られるなんて何万年ぶりだろう。」
「うわ、なんだこれ。」
「お前それ三度目だぞ。」
「・・・」
他の言葉が出てこない。
「まあいい。少年、お前は今から一眠りする。目覚めた時、俺のことは全て忘れている。いいな?」
「え、あ、うん、」
なんだか良く分からない。
「では俺の触覚の先の玉をよく見るんだ。」
「ピカッと光って記憶がすり替わるの?」
「いや、それはどっかの宇宙人が使う装置だ。」
ゆらーり、ゆらーり
玉がゆっくり左右に揺れ始めると、僕は玉から目が離せなくなった。
ゆらーり、ゆらーり
急に眠くなって意識が遠のいていく。かすんできた視界の中で魚が言った。
「ところで、ベビーカステラはまだあるのか?」
僕は答える前に眠ってしまった。そして夢を見た。夢の中には僕がいて琵琶湖を眺めている。夢の中の僕もすぐにウトウト夢を見始めた。その夢の中の僕もやはり琵琶湖を眺めながら眠って夢を見始めた。その夢の中の僕も琵琶湖を眺めながら夢を見て・・・そんなふうにして僕は夢に夢を重ねていった。夢の中の僕は少しずつ歳を取っていき、琵琶湖と周辺の景色も変化していった。無数の眠りと夢を経て、ついに僕はいなくなり、ただただ夢を見ているだけの存在になった。今とは違う、遠い未来の琵琶湖の夢を。

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 家に帰ってからその時見た夢をできるだけ思い出して書いたのがこの物語です。
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