アルファポリスの片隅で

電網浮遊都市線アルファポリス行お猿の電車

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 さようなら、あのヒト。そう呟く女の声を、私は確かに聞いた。声の方を見る。通勤客で混雑する駅のホームに、その女が佇んでいた。後ろ姿しか見えない。取り立てて目立つところのない普通の会社員のように思えた。だが、気になる。隣に立っているわけでもないのに、どうして私は彼女の呟きが聞こえたのだろう? それにどうして、私は彼女の呟きだと思ったのだろう?
 私は彼女から目を離せなくなった。もっとも、通勤通学の時間帯なので混雑が酷く、やがて人込みに紛れて女の後頭部や肩の辺りしか見えなくなったので、それを注視し続けたと言い切るのは正しくない! と声高に指摘されたら、そりゃごもっとも! であり当方に反論の余地なしだ。しかし、私は彼女を見つめていた。だから、断言しよう。彼女はホームに立つスーツの男を見て、軽く手を振った。次の瞬間、その男はホームに設置された転落防止用の柵を軽々と乗り越え、ほぼ同時に構内へ滑り込んできた電車に身を投げた。
 検討を重ねている数百のM&Aに関する調査報告書と別れの手紙と薬の効能書きに目を通しつつボイスレコーダーに録音された男の声を聴いていたケイ氏は、最後まで聞き終えると珈琲を飲み干し手紙を再読しながら音声を最初から聞き直した。どちらも意味が分からなかったからだ。一度に多くのことをやりすぎるから訳が分からなくなるのだ、という手厳しいアドバイスは秀才のケイ氏にとっては無用不要のご指導ご鞭撻……のはずだったが、やっぱり二度目も意味不明だった。深呼吸で心を落ち着かせ、手紙を三度、読み返す。やはり納得できないけれども、エヌ氏が自分に伝えたい想いは分かったような気がしなくもない。ボイスレコーダーに残されたエヌ氏の話は相変わらず謎のままだ。内容は概ね上記の如し。何とも奇怪な話だが、怪談の一種と捉えたら了解不能というほどでもない。分からないのはエヌ氏が、ボイスレコーダーを別れを告げる手紙の上に置いていたことである。さよならを告げる手紙と一緒に置くくらいなのだから、大事な話が収録されているかと思いきや、語っているのは鉄道自殺の目撃証言だ。
 自殺を仄めかしているのだろうか? そうだとしたら、放ってはおけない。とても心配なので会って話したい――と素直な気持ちになって伝えられたら良いのだけれど、ケイ氏にも意地とプライドがある。というより、知能優秀で億万長者のケイ氏には、そういった性質が多分にあった。それが彼の味方を減らし、潜在的な敵を無駄に増やしている理由の一つとなっているが、本当に賢い人間なら自我を抑制しなければならないだろう(彼ほど賢くない人間でもやっていることだ)。とはいえ、同情すべき点もある。大富豪であるがゆえに寄って来る者は多いが、擦り寄ってくる人の正体がダニや蚊と変わらないことを鋭敏な彼は察していた。それが彼の孤独を深め、元から歪んでいる自意識をさらに捻じ曲げていた、といえよう。
 しかし彼に助言できる立場にあったとしても、だ。幼少時から人間離れした神童と畏怖され十代前半で世界有数のIT長者となり十六歳の現在は自らが築き上げた巨大財閥を率いる辣腕経営者である天才に対し、謙虚であれと凡人風情が言うのも気が引けてしまうだろう。神に選ばれし者の恍惚と不安は、誰からも選ばれなかった屑には理解不能なのだ。ケイ氏の周囲は結局、心を持たないイエスマン&ウーマンだらけとなる。そんな人形たちの中にあって唯一「奢り高ぶるなかれ」と教え諭した人間がエヌ氏だった。
 そんなエヌ氏と恋愛関係になったことは、必然だったとケイ氏は信じている。同性愛だったことは偶然に過ぎない。先のことは断定できないけれど、この愛がある限り、二人の関係は続いていく……という幸福な蓋然が誤りだったのは想定外だ。自身の頭脳に絶対の自信を持ち、かつエヌ氏との愛は絶対不変だと思い込んでいるケイ氏にとっては、認めたくない過ちである。だが彼は、過ちては改むるに憚ること勿れ、という格言が正しいことを知っていた。ミスを認めなければ次のステップへ進めないのだ。こんな悲劇的な過ちに、どうして自分は気付かなかったのか? 別離を防ぐ方法は何か無かったのか? 今からでもやり直すことは出来ないのか? とケイ氏は自問自答する。
 恋愛の難問は、天才ケイ氏をもってしても、答えを出すまでに時間が掛かりそうである。
 その間、本サイトにおける投稿小説のカテゴリーに関して感じたことを作者が書き連ねる愚をご容赦願いたい。
 恋愛とBLが別のジャンルに分類されているのは、同じ愛情である異性愛と同性愛を分断することで同性愛者を差別しているのみならず、同性愛者という社会的弱者に対する性的搾取に相当するのでは? という疑問が生じた。
 マーケティング戦略の一環であり差別を助長する意図は皆無であるとの抗弁は通用しない。その悪辣な商魂が差別を生み出すのだと叩かれるのが落ちだ。書店で専用スペースを確保するまでに膨張した各種ヘイト本と同じく消費者の要望に応じただけ、と読者に責任を転嫁する厚顔無恥な言い訳は出版・表現の自由を損ねる結果となるだろう。従って供給側がBLを恋愛から隔離している現状の是正が求められる。
 一方、需要の側は恋愛とBLの棲み分けをどう認識しているのか? 同性愛の歴史は古く、それに関係する文化も昔から存在していた。我々の先祖は恋愛とBLの境を緩く捉えていた半面、時と場所によっては禁忌として封じ従わないのなら社会的制裁でもって応じた。同性愛は自然な感情であるという寛容さと、不自然で歪な異常であるという不寛容の二面が昔から存在していたわけだ。さて、現状に話を戻そう。BLが太古から続く同性愛文化の後継者の一つであることに間違いないだろう。ただし、同性愛者の間から自然発生した文化と私は言い切れない。現在のBLの直接の祖先は雑誌『JUNE』と思われるが、その読者層の中心は真の同性愛者よりカルチャーとしての同性愛愛好者ではなかったか、と考えているためである。雑誌『JUNE』を源とする流れは、同性愛の当事者ではなく傍観者がメインストリームだった、と私は認識している。傍観者たちにとって自分たちが立つ岸辺にある恋愛と、向こう岸のBLは最初から分かれていたのだ。そこに差別の意識は乏しい(元々BLを好む人々なのだ)。だからこそ無意識の差別に気付いていないと言えよう。恋愛とBLの同一化を図るには、BLを愛好する読者層の意識改革が必要なのである。
 しかしBLコア層が現代の風潮に合わせて自分たちの意識を改めようと決意するかというと、それは望み薄のような気がしてならない。フィクションと現実の境目は曖昧な人間が少なからずいるクラスタだと根拠を示さず推測するが、この集団にとって恋愛とBLのボーダーレス化に重要な意義があるかというとそんなこと、どうでもいいのである。そこに興味はないのだ。読書中の脳を測定すれば大脳皮質より大脳辺縁系の方が活動は高まっていて、人間らしい高度な精神と知能の働きが期待できない状態にあるようにも思える。
 外部からの働きかけが無ければ出版側は変化しないと思われるので、恋愛とBLのカテゴリーが融合するのは当分先のことになりそうだ。これがBLというジャンルの存亡に関わる大問題に発展しないことを願うばかりである。
 同性であるエヌ氏との恋愛問題に苦悩するケイ氏に話を戻そう。愛に関する悩みを解決できず、それを彼は一時棚上げにした。そして心の傷を癒す一番の薬は仕事、と言わんばかりに買収を検討している企業の資料を読み込む。だが、内容が頭に入ってこない。心の師にして愛人を喪失したケイ氏の嘆きと悲しみは、それほどまでに深かった。書類の棚をデスクに叩きつけて立ち上がりグランドピアノへ向かう。闇の奥から溢れ出て止まぬ激情の命じるままにショパンを弾いて気持ちを落ち着かせる。デスクに戻る。床にまで散らばった書類を拾い集める。買収を検討している博物館の資料が目に入った。そこにエヌ氏が行きたがっていたことを思い出す。
 息苦しくなったケイ氏は新鮮な海風を求めてベランダに出た。赤道直下の大西洋を吹く風は熱気と湿気を含んでおり、空調の効いた屋内の方が涼しくて快適だったけれど、気分転換にはなる。潮の香りを胸いっぱいに吸い込み吐き出したときには考えがまとまっていた。自分にエヌ氏が本当に必要な人間なのか評価検討しよう、と。そのためには、何をするべきなのか……ケイ氏はデッキチェアに腰かけ、水平線の彼方へ広がる南北両半球を眺めながら考え始めた。
 作者だ。ケイ氏が思いを巡らせている間に、私が思い巡らせたことを書く。BLが好まれる点の一つとして愛に打算が無いことはありそうな気がする。異性間の恋愛には、愛情以外の計算が働く。友人たちに見せびらかして自慢できる見た目とか、資産や家柄、あるいは他人には分からない良さがあるっつーか自分に都合の良い相手だから、みたいな要因が存在するわけだ。それでも最終的なポイントとなるのは一般の恋愛小説と同様に実際のBLも愛情だけれど、物語のゴールが異性愛に比べると結婚エンドになりにくいため、生活を安定させる社会経済的な要素の果たす役割はノンケ同士の恋愛小説より相対的に低くなるように思える。それを純愛度が高いと表現しても構わない。もっとも時代が変わったので、同愛愛のカップル間でパートナーの扶養に入る者がいるだろうから、愛情以外のファクターも重要となる一般的な恋愛小説との違いとして打算の有無が挙げられなくなってきたかも、とは思う。しかし結婚はしないけれど無気力で生活能力に乏しいため自活できず愛玩動物に等しいペット型愛人となることでハッピーエンドとなる、みたいな羨ましいったらありゃしない幕切れも、結婚でハッピーエンド! の何とも言い難い圧迫感が無い分、BLの美点と捉えることが可能なのではあるまいか。結婚がすべての幸せではないはずなのに、恋愛したら結婚がセットとなってしまっていることに対しての反論、とまではいかなくとも違和感を表明する場としても、BLは意義深いように思われる。二人が結婚して、めでたしめでたし……で終わる一般向け恋愛小説のアンチテーゼとしても、BLは存在し続ける価値があるのでは、と思った次第である。あ、恋愛とBLを統合せい! という前の発言とは別の意見としてお聞きいただければ幸甚に存じます。
 ところで、ケイ氏の思案はどうなったのだろうか? 幸せの意味を己に問い掛けても答えを得られなかったケイ氏は玉虫色の結論を出した。エヌ氏の面影を追い求める旅に出てみよう。その旅路の果てに、自分の本当の気持ちが見えてくるはずだ――要は自分探しの旅に出ようと決意したということである。超大金持ちだが十六歳の青少年に過ぎないケイ氏は、今まさにモラトリアムの季節を迎えていた。
 愛と青春の旅立ち、予測変換で出てくるほどにメジャーな作品とは何の関係も無いけれど、何かちょっとそれっぽい気分に足の先まで浸りつつ機上の人となったケイ氏は、そのまま帰らぬ人となった。飛行機事故が起こったのだ。ケイ氏が操縦するプライベートジェット機は海上空港を離陸後にエンジントラブルを起こして失速、赤道と本初子午線の交点つまり経度0度にして緯度0度の洋上に同氏が建設中の宇宙エレベーター、通称<ケイ氏の世界塔>に激突した。爆発炎上し、大海原に四散した機体の残骸からケイ氏の遺体が回収された。短くも激しい生き方だったと人々は彼の死を悼んだ。
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