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あーし、バレンシアまたは花の妖精を名乗る人物の物語

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 否定的な意味合いで使われることの多い言葉に<旅の恥は掻き捨て>がある。自分を誰も知らない場所でなら、何をしても大丈夫なので好き勝手なことをしよう……という意味だと思われているが、その通り、実に正しいことを言っている。羞恥心に負けて自分を抑え込むのは恥ずかしいことだ。もっと、もっと、もっと己をさらけ出すべきなのだ。剥き出しの自我に陽光を、ときに寒風を、またある時は熱湯を浴びせろ。その刺激が、人を大きくする。公衆の面前で、満座の席上で、自分を見せつけろ。逮捕されそうになったら、すぐ逃げろ。
 概ね上記のような発言をしていたら手を上げる者がいた。垢抜けない中年女だった。地味な顔で小太り、そしてツインテールが異彩を放ち、只者ではない雰囲気も、あるにはある。女は勝手に話し始めた。マイクの要らない野太い声だった。
「前世あーし、現世あーし、来世あーし。この三つのあーしがいて、それぞれ名前が違うんでげすが、今の自分の名を語るのは控えさせてもらいますです。あーしはバレンシア・オレンジの産地で生まれましたんでバレンシアと呼ばれていました。ああっと、そう呼ばれていたのは前世あーし、転生前のあーしです」
 文字起こしされた発言を読むと分からなくもないが、彼女が話し始めたときは混乱した。彼女の話し方は呂律が回っていないのに早口だったので聞き取りにくかったし、おまけにこちらの困惑などお構いなし、説明抜きで固有名詞を繰り出してくるコミュニケーション戦のインファイターだった。
「アーシャとアーチャーはアッシャー家公認の恋人同士だったんだけど転生前の前世あーしは二人の仲を妬んでアーチボルト家に取り入ってアッシャー家に圧力をかけて二人を別れさせようとしたんでげすよ、ところが怒ったアーチャーが前世あーしに弓矢を射かけてアーシャが転生の呪いをかけたものだから現世あーしに転生したんですけど、これっておかしいですよね」
 アルファポリス主催の異世界転生者向け講習会だというのに、なろう系小説にありがちな長ったらしくて粗筋の代用と化した刺激に乏しいタイトルみたいなセリフになってしまっているが、それは私の責任ではない。アルファポリスそのものが、なろうのエピゴーネンだからだ(おいおい)。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて何とやら、という都々逸は前世になかったのかな? 都々逸のある文化圏ではなかったのかもしれないが、念のためにお尋ねしておくよ」
 これが皮肉であると理解できるかどうか……彼女の返答次第で私の回答は変わってくる。質問の内容が分からないのなら、それに応じた答えしかできない。
「ごめんなさーい。ドイツには行ったことがありません。でも、その隣のオランダにはチューリップ・バブルの頃に行きましたです」
 彼女に知性の欠片はあるようだ。私は心の中で安堵の溜息を洩らした。
 チューリップ・バブルの崩壊による経済恐慌ついては経済学者の間で意見が分かれているようだが、異世界のバブル宇宙は破れておらず、その多元性が無限である限り存在は否定されない。バレンシア・オレンジの誕生がチューリップ・バブルの時代より後年であることも同様だ。だからといってジャガイモ警察を揶揄するのは愚かしい。ある宇宙のある時代の、とある土地においては、ジャガイモが存在しなかったのは事実なのだ。ありとあらゆる可能性を否定できない、それが異世界の本質だ。
 だから私は、あーし即ち転生前はバレンシアと呼ばれていた中年女の話を否定せず、傾聴……したいところではあるものの、訳が分からないので質問する。
「アーシャが転生の呪いをかけたので、この異世界に転生した。そして死後は来世へ行くことが決まっている、ということかな?」
「如何にもタコにも」
「そういった輪廻のサイクルに不満があると?」
「だって、あーしとアーシャは来世では絶対一緒になろうねって約束したのに、あーしだけこの異世界に飛ばされて、しかも次の来世は何だか分からない何かに生まれ変わるって決まっているですげすよ。それって酷くねって話っすよ」
「……未来は完全に決まっているわけではないよ。生まれ変わった先が何処で、自分が何になっているのかなんて、誰にも分からない」
 中年女は首を横に振った。
「転生の呪いの恐ろしさを、講師の先生がご存じないとはねえ。何だかガッカリっすよ」
 大袈裟に溜息を吐くところがわざとらしくて腹立たしい。文句があるならとっとと出てけ! と言いたいところをぐっとこらえて下手に出る。
「興味深い事例のようですね。詳しいお話を伺いたいです」
 言葉遣いを改めて尋ねると、あーし御大は機嫌よく話し始めた。
 御大将あーし様は鼻の陽性だったそうだ。間違えた。これでは末期の梅毒患者だ(待て待て)。花の妖精である。梅ではないよ(しつこいな)。バレンシア・オレンジの産地で生まれ冬の間は土に埋もれた球根の中でぬくぬくと眠る怠惰な毎日を送っていたあーしは、春が間近なある日、球根ごと船に積み込まれた。気が付くと、そこはオランダだった。風車と木靴とチューリップでお馴染みのオランダは、その当時の世界で最も繁栄した経済大国だったそうだ。ビジネスだけでなく文化芸術分野でも他国をリードし特に絵画は制作過程が先進的だった。個人のアトリエよりもむしろ資本家が経営する工房で生産される工芸品と化していたのだそうだ。その制作システムは分業制となっており高品質の作品を大量に生産可能とし、そこで生まれた絵画は後の時代に強い影響を与えた――と、あーしは語っていたが無限に存在する異世界の中には、そういう歴史を有するオランダがある、ということだけであって、これを覚えたところで読者が存在している異世界の歴史の試験勉強のためには何の役にも立たないと忠告しておこう。
 とりあえず話の背景となっているのは、あーしがいたオランダは資本主義経済の先進地域であり、そこには美術の産業化に目覚めた商人階級がいて、そういった連中が芸術作品を作る工房を数多く運営していて、そういった工房の経営者の中にアッシャー家があり、そのお抱え女流画家がアーシャだった、ということらしい。春の訪れと共に目覚めたあーしは、あちこち飛び回って花々を咲かせた(それが花の妖精の主な仕事らしい)。そんなとき、咲きほころぶ花々をうっとりと見つめる美女アーシャを一目見て、あーし様は恋に落ちた。アーシャこそが自分の花粉を受粉すべき唯一の女だと確信したのだ――あーしは女なのか男なのか、よく分からない読者は多くいることだろう。あーしが言うには両性具有らしい。確かめる気になれないので、鵜飲みにするしかあるまい。さてアーシャの鼻粘膜から彼女の体内に入り込んだあーしは、内側から洗脳を開始した。手始めにアーシャの脳細胞を調べ上げ、彼女の最も好みのタイプに成りすまして、夢の中に現れたのだ。アーシャは痩身で女性的な外見の男性を好んでいたので、そういった形になり、夢の中で愛を囁いた。
 気高い芸術家の魂は霊的な存在に高い親和性を持つようだ。優れた画家のアーシャが夢の中に幾度も現れる理想の男性(あーしが自らをバレンシア・オレンジの産地で生まれたと紹介したものだから、アーシャはあーしをバレンシアと呼ぶようになっていた)へ急速に傾斜していったのは無理からぬこと。ニンフのように優美な姿と化したバレンシアことあーしは愛の言葉を絶え間なく囁く。そうなると人は夢と現実の区別がつかなくなってしまうものらしい。二人でバレンシア・オレンジの産地へ行き、そこで結婚式を挙げようといった戯言まで真に受けるようになる始末。そればかりか、来世そして次の来世も一緒にいようと約束するありさまである。あーしことバレンシアはほくそ笑んだ。後は実体化してアーシャに種付けするだけだ。
 その間にも、アーシャの現実世界での時は流れ、問題が発生する。まだ見ぬ恋人と夢の中で幾度も逢瀬を重ねるうちに、本業がおろそかになってしまったのだ。それに苦情を申し立てたのがオランダの有力な貴族アーチボルト家だった。
 うら若き女流画家アーシャの名声を聞いてアーチボルト家はオランダ議会のエントランスホール真正面に飾る特大の絵画をアッシャー家に注文していた。納期までに注文品が納められないので、アーチボルト家の家令アーチャーが様子を見に工房へやってきた。そこでアーシャとアーチャーの二人が顔を合わせてしまったのが、あーし最大の誤算だった。アーチャーは、あーしことバレンシアと瓜二つだったのだ。アーシャは運命の男性と自分が巡り合ったと確信した。猛烈なアプローチを開始する。無論アーチャーはアーシャと夢で逢ったとか言われても困惑するだけだ。相手にするなよ! とアーシャの体内から殺気の入ったガンを飛ばしていたあーし様だったが、華奢な体つきでもオランダ独立戦争の英雄として知られる武闘派のアーチャーには効力が乏しく、いつしかアーシャとアーチャーは恋仲になってしまった。二人の仲を引き裂きたいあーしはアーチャーの雇い主アーチボルト家の当主アーチボルト・マクリッシュ・コーチャン氏の鼻腔から脳内に入り込み、あることないこと吹き込んだ。アーチャーは仕事の邪魔をしているからアーシャは注文の絵を描かない――この段階では、これは事実と化していた――等の夢の中の讒言を信じるほどコーチャン氏は愚劣ではなかったけれど、前金を払った以上は納品を求めるのが普通なので、アッシャー家に圧力を掛けたし、アーチャーには恋人の仕事を進ませるよう促した。
 その一方で、絵画工房のアッシャー家は新たなるビジネスチャンスの到来を感じていた。アーシャは恋人のアーチャーを題材とした官能的な男性美の絵画を大量に描くようになっていたのだが、これが国内外で異常な評判を呼び、注文が殺到していたのである。とはいえアーチボルト家から依頼を受けたオランダ議会正面の絵画を放置させておくわけにはいかない。創作意欲が霧散しないよう注意しつつ、アーシャに仕事を急がせる。
 こういった状況で、あーしは何をしていたかというと、恋敵アーチャーの体内に入り込み、その肉体を攻撃していた。アーチャーを殺し、その死後に現れて、今度こそアーシャをものにしようというのだ。愛の世界で官能に酔いしれる二人への怒りで頭がどうにかなりそうだったあーしは、なかなか死なないアーチャーに業を煮やし、禁じ手を発動させる。まずは魔力で地盤沈下を起こし、アッシャー家の屋敷を崩壊させた。次いであーしの匿名の密告で、アーチボルト家は他国への贈賄が発覚してしまう。重要参考人として議会で証言したコーチャン氏の権威は失墜、その手足となって動いたアーチャーは牢獄へ収監される恐れが出てきた。高跳びを試みるアーチャーとアーシャに、魔物へ実体化した花の妖精あーしが襲い掛かった――のに、返り討ちにあった無念は如何ばかりか。あーしの正体を知った恋敵アーチャーに弓矢で射られ、大好きなアーシャには異世界へ転生するよう呪われ、さらに来世の来世で何だか分からない何かに転生して絶対に姿を現すな! と罵られた自分って、可哀想すぎるっしょ……というのがあーしの話だった。
 その通りですね、と私は言った。なおも何かを言おうとするあーしに司会が「まだ講習会が続きますので、この話はここまでをさせていただきます」と告げて、無理やり話を打ち切った。
 私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
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