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殉死の悪習を止めさせた男に関する物語

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 命より大事なものは無いという人がいる。それは本当だろうか? それというのは<命より大事なものは無い>の部分であって『命より大事なものは無いという人がいる』の文章全体を指していないつもりだが、講演の草稿を書いているとき、不安を抱いた。講演を聞く聴衆は指示代名詞を分かっているのだろうか? 分かるだろう! と絶対の確信を抱けないのが異世界転生者向け講習会での講演の難しさだ。元の世界では何者だったのか予想が付かない。まともな国語教育を受けていたのか、それすら分からないから厄介なのだ。ちなみに今『それすら分からない』と書いた中の指示代名詞「それ」は「まともな国語教育を受けていたのか」を示している……と書いておきながら、心配になってきた。それで、本当に正しいのだろうか? 左記の文の『それで、本当に正しいのだろうか』の「それ」は何を指示しているのか、と問われたら、何と答えれば良いのか。書いている本人も『それで、本当に正しいのだろうか』の「それ」が示すものを明確にできないのは、どうしたことか! ううむ、書いている自分の国語能力も怪しくなってきた。面倒だ、次行ってみよう! で済ませたくなる。それで済まして良いのか? 良いのだ。そう割り切ってしまえれば、どんなに楽か。でも考えているうちに、分かったような部分がある。指示代名詞は基本、前の言葉に掛かる。「後のそれ」と書いてあったとしても、この「それ」は前に存在する……はずである。知らん。やはり、分からない。それでも<命より大事なものは無い>という命題の答えは分かる。命より大事なものは在る。それは異世界だ。異世界無くして異世界への転生者はありえない。そして異世界が無ければ異世界転生者向け講習会は成り立たない。そうなると私に講演料が入らない。→→ここで笑い。そんな草稿を書いていて、思った。<命より大事なものは無い>は正しくない。<自分の命より大事なものは無い>が正解。他人の命ぃ? どうでもいいのだ、そんなものは!
 そんなことを講習会で言ったら大ブーイングだろうなあ……と講演の草案を書いているときに考えたことを今、男性質問者の話を聞きながら思い出した。
「私は、この異世界に来る前は、野見宿禰のみのすくねと名乗っていました。日本という国号を有する皇国に生まれ育ち、当時の支配者に仕えておりました」
 若い頃の彼は腕自慢の猛者で怖いもの知らずだったという。当麻蹶速たいまのけはやなる剛の者との一対一の勝負で相手を蹴り殺した武勇伝は後々までの語り草となったらしい。そんな彼も、永遠に若くはいられない。他の連中と同じく、次第に老いていく。そして、いつしか彼は死について深く考えるようになった。
「昔は死ぬことなんて全然怖くありませんでした。いつだって全開バリバリです。どんな戦いだって平気、だからこそ勝てたんだと思います。それは一種の平常心ですからね。ですが、体にガタが来るようになると、そうもいかなくなって」
 平常心を(っ)てすれば死の恐怖を克服できるかと思いきや、心頭滅却すれば火もまた涼しの高みには達せず、老いと病と死に対する不安が頭から離れない。眠れぬ夜を過ごすうち、彼は若き日の死闘にまで思い及んだ。
「私が戦った当麻蹶速は、ベテランの試合巧者でした。もう若くありませんでしたが、ペース配分が上手くて、戦いを長引かせて、こっちが疲れてくるのを待つ作戦だったようです。その裏をかいて、ラッシュをかけて倒しました。そう、私は勝ったんです。でも、年を取るにつれて、試合には勝ったのに勝負に負けてしまったような気がしてきたんです」
 かつて野見宿禰という最強の戦士だった男は、疲れた顔で咳を一つした。
「失礼。当麻蹶速は大和の国の最高の力士として、その絶頂期に戦いの場で死にました。一方、その後を継いだ私は、その後も勝利を重ねましたが、いつの間にか老いて、格闘技をする体ではなくなっていました。これは戦う男として恥ずべきことです。鍛えて鍛えて、鍛え抜いた体を失った私に、何が残されているというのでしょうか。何もありません。無残な老害がいるだけです」
 男は再び咳をした。また謝って、話を続ける。
「それ以上、醜態をさらし続けることは、私には耐えられませんでした。ですから死のうと思ったのです。しかし普通の死は私の誇りが許しませんでした。栄誉ある死こそ、私にふさわしいと思いました」
 まもなく宮廷を悲劇が襲った。支配者の妻が亡くなったのである。有力者や、その肉親が亡くなると殉死が普通に行われる時代だったので、その準備が整えられた。その支配者自身は殉死を好ましく思っていなかったが、長く続いた風習を変えることを好まぬ保守派が殉死の継続を強く主張したので、政局運営の関係上、彼ら保守派の意見に従わざると得なかった。
 殉死の風習を変えないからこそ国家は安泰であり続けるのだ……という主張に科学的根拠は無いに等しいが、因習とは常にそういったものである。意見する者は国体を揺るがす反社会的勢力として排除されるのが筋というものなので、誰も表立って反対はしない。死ぬのが自分でさえなければ良いのだ。
 そんな中でただ一人、野見宿禰は殉死に反対した。その理由を以下に挙げる。
①亡くなられたお妃様は、とてもお優しく、そして気高く、死を恐れるようなお方ではありませんでした。死出の旅路に共は無用とおっしゃられるに違いありません。
②殉死によって有用な人材を失うのは国家の安定を揺るがしかねません。それこそ、お妃様が望まれることではないでしょう。
③かつて、この島国に暮らしていた先住民は土偶という聖なる人形を死者と共に埋葬したと聞き及んでおります。現代においては焼き物の技術が発達しておりますので、土偶より精巧な像が作れると思います。これを以(っ)て殉死者の代わりにすべきかと存じ上げます。
 当時の支配者は野見宿禰の進言を取り上げた。守旧派は反対したが「そんなに殉死を望むなら、お前たち全員が殉死せよ」と主人に言われたのか、最終的には殉死の停止に同意した。かくして殉死の悪習は終わり、代わりに埴輪はにわと呼ばれる踊る人形が死者の魂に安らぎを与えるようになったのである――が、それはこの際どうでもいい。
「私は喜びました。これで私に、私だけに殉死のチャンスが巡ってきたのです。私は自殺を試みました。ですが、死にきれなかったのです。何度も死のうと思いましたが、怖くて死ねなかったのです」
 死ぬに死ねなかった野見宿禰は、やがて病気になって死んだ。死の床で彼は思った。
「自分のエゴで殉死を止めさせたにすぎませんが。でも、私は死にかけながら考えました。これって、結果オーライじゃね。俺もしかして、凄くイイことしたんじゃね……そう思って、死んでいったんです」
 彼はまた咳をした。酷い咳だった。それから口元をハンカチで拭った。私は彼に少し休まれたらいかが、と休憩を勧めた。彼は、もう少しだから、と話を再開した。
「殉死は良くないこと。私のかつての主人は、そう信じていました。私の進言は、主人の意を汲んでのものにすぎませんでしたから、殉死に良いも悪いも無いと思っていました。要は、自分だけの特別な死を迎えられたら良かったのです」
 しかし、この異世界に転生し、またも死の病になって苦しむようになると、殉死に対する考え方が変わったのだという。
「故人への弔意を示すために殉死するのは自然なことです。それを止めようとすることは不自然なのです。いえ、亡くなった者に対してだけではなりません。生きている者に対して、自分の命を捧げる。これは気高い行為です、人間にしかできない、尊い、尊いことです。人に対してだけではないです。例えば思想、例えば国家、例えば宗教、例えば家族同然の動物。金のためなら命を捨てると断言する者だっているでしょう――主に他者の命でしょうが。とにかく命を捧げるべき対象は人それぞれですが、そのどれもが尊い行為であることに変わりありません。しかし、今の時代、殉死は禁じられています。殉死を心から願っているのに法律が許さないのです。これは法改正が必要です。変えなければならないのは、他にもあります。子供でも殉死はできるのに、大人がそうさせない。教育が大切です。何も知らない子供たちに命の大切さを教え、殉死の素晴らしさを伝える。それが異世界に転生した私の義務だと思うのです。ですが、私に、それだけの時間が残されているのか……」
 最後の声はかすれていた。私は講習会場の外のロビーで休まれた方が良いと言った。水分を取り、ゆっくり休んで、それでも体調が戻らないときは、お帰りになった方が宜しいかと思いますと司会が言い、会場の後ろに控えていた係りの者たちに目で合図した。係りの者たちが、前世では野見宿禰だったという男を会場の外へ連れ出した。会場の後ろの扉が開き、静かに閉まる。
 私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
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