泣かないで、悪魔の子

はなげ

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第一章 愛は食べられない

聖女の毒殺未遂事件

 ファーシルはとっさに駆け出すと、ネネッタの手からマリッサへグラスが渡る前に、それを思いきり払いのけた。その拍子に床に落ちたグラスは大きな音を立てて粉々に砕け、グラスに入っていたぶどうジュースはマリッサが纏うドレスの裾を汚してしまった。
 ファーシルを睨むネネッタの視線が禍々しいほどの憎悪で満たされていることを認める。やはり、このぶどう色には毒薬が入っているのだ。
 そう確信したのと同時、横から飛んできた手のひらに勢いよく頬をぶたれた。マリッサに食卓の席を奪われた夜、カーラから平手打ちされたときよりも、ずっと重たくて痛い一撃だった。ファーシルはぶどうジュースの真上に倒れ込む。起き上がろうと床に手をつくと、硝子の破片が手のひらを刺した。
 痛さに眉を顰めたとき、息を荒くしたカーラがこちらを見下ろし、物凄い勢いで息巻いた。

「悪魔の子が聖女様に何をしてるんだ! ぶどうジュースをマリッサのドレスにぶっかけるなんて! どれだけアレンツァの名誉の……マリッサの邪魔をすれば気が済むんだ! 今すぐ土下座しろ! 土下座してマリッサに許しを乞え!」

 カーラがファーシルの頬をぶった手で前髪を掴み上げてくる。彼女の後ろにはディランとエルファンが同じようにファーシルを冷たく睨んでいた。そんな二人の姿が急に歪み、気がつくとファーシルはカーラに頭を押さえつけられ、ぶどうジュースに額を擦りつけていた。

「悪魔の子は謝ることもできないのっ?」
「これ以上、母上の手を煩わせるなよ。さっさとマリッサに謝れ」
「全く、なんでこんな不出来がアレンツァの姓を名乗っているんだか」

 家族から次々と飛び出してくる言葉が、ファーシルのひび割れた心を更に砕いていく。
 家族だけではない。土下座での謝罪を強要されている悪魔の子と、ドレスの裾をぶどう色に染めた聖女。その様子から、周囲の参加者までもが口々にファーシルを非難する。
 なんとか視線だけを持ち上げると、マリッサは今にも泣き出しそうな顔でドレスをぎゅっと握り、ネネッタはファーシルの情けない姿を喜ぶように、ほくそ笑んでいた。
 全身が心臓になったようだ。動悸が激しくて、上手く呼吸ができない。声が出てこなくて何も言えずにいるファーシルに、一同は更に追い立ててくる。
 助けてほしくても、ファーシルを助けてくれる人なんているわけがない。自分でどうにかしなければ。そう思っていると、

「――やめろ」

 静かな、けれど誰よりもよく通る声がその場を制した。
 ふとファーシルの頭を押さえつける力が弱まる。視線を上げると、そこには物凄い剣幕で一同を睥睨するアルヴァが立っていた。

「無抵抗な子供の言い分も聞かず、一方的に集団で責め立てるなんて、国民を導く役目を背負っている身分だというのに、貴族の風上にも置けないな」

 アルヴァの鋭い訓戒に、一同はぴたりとくちを閉じた。
 そして、アルヴァは軽蔑を含んだ視線をカーラに流す。

「アレンツァ公爵夫人、貴女は言われないと分からないのか。――僕の婚約者から、その汚い手をどけろ」
「し、しかし……」
「君に拒否権があると思うのか? これ以上、僕を失望させてくれるなよ」

 アルヴァの鋭さを増した睨みに、カーラは「ひっ」と短く悲鳴を上げて、ファーシルの頭から手をどかした。
 軽くなった頭を持ち上げてアルヴァを見上げると、いつもファーシルに向けられているのと同じ笑顔が返ってきた。先ほどまで、その甘いマスクとは似つかないほどの威圧感を纏っていたのが嘘のようだ。
 味方なんて誰もいないと思っていたのに、まさかアルヴァが助けてくれるなんて思っていなかった。
 ぽけっとしてアルヴァを見つめていると、彼はファーシルの前に片膝をついた。と、驚いたように瞠目し、突然ファーシルの肩を掴むと、額から滴るぶどうジュースに鼻を寄せてきた。

「で、殿下?」
「……これ、毒だね。アンシアの甘い香りがする」

 アルヴァの一言に、再び会場内はざわついた。
 アンシアとは東部の山脈に咲く植物だ。アンシアは毒性が強く、アンシアを生けた花瓶の水を一口飲んだだけで生死を彷徨うほどだと言われている。
 それほど強力な毒を実の娘に盛ろうとしていたのか。その毒をネネッタから受け取った自分の手のひらを見やると、恐怖で指先が細かく震えていた。

「離しなさいよ! 私は聖女の母親よ! 離せったら!」

 ネネッタの抵抗する声にハッとする。彼女は会場に待機していた兵士に取り押さえられながらも、その眸にはまだマリッサへの殺意が息づいていた。
 瞬間、ふわふわと柔らかいタオルが額にあてられる。近くの待女からタオルを受け取ったアルヴァが、ファーシルの顔を濡らすぶどうジュースを拭ってくれた。

「あ、あの、自分でやります」
「これくらいいいよ。それより、君はこれが毒だって分かってたから阻止したんだよね? どうしてこれが毒だと分かったんだい?」
「あ……」

 嫌な予感がして、とっさにネネッタの企みを阻止したはいいけれど、その後のことを全く考えていなかった。全てを正直に話せば、マリッサを殺害する目的の毒薬を受け取ったファーシルだってただでは済まされないだろう。しかし人付き合いの少ないファーシルは、嘘の吐き方さえよく分からない。何より、アルヴァを騙すようなことはしたくなかった。
 意を決して口を開きかけたとき、ファーシルの言葉を遮るようにネネッタが叫んだ。

「そ、そいつに命令されたのよ!」

 そいつ、と言うネネッタはファーシルを睨みつけていた。

「私は脅されていたの! マリッサを殺せって!  さもなければ皇国中に呪いをかけるって! そ、そいつ、悪魔の子だから! 本物の悪魔の子なの! 私、そいつが夜な夜な生きた動物を噛みちぎって食べてるの見たんだから!」

 血眼になってファーシルに罪をなすりつけるネネッタに、ファーシルはぽかんとする。ファーシルが悪魔の子だと裏づける作り話があまりにも稚拙で、どう反応するべきか困ったが、どうやら周囲はそうではなかったらしい。
 一同はファーシルから更に距離を取り、恐怖に歪んだ声でひそひそと話しはじめる。

――やはり悪魔の子なんだわ。
――紅い目も、白い肌も、人間に擬態しても色までは変えられなかったようだな。
――なんであんな化物が殿下の婚約者なのかしら。さっさと身分を剥奪されればいいのに。

 やはり誰もファーシルの声なんて聞いてもくれない。悪魔の子と聖女の母なら、どちらの言うことを信じるかなんて一目瞭然だ。
 憎しみや嫌悪の視線に串刺しにされながら、ファーシルはただ自分に浴びせられる非難を聞くことしかできない。この心にはもう刺す場所なんて残っていないのに、刺さっているナイフを抜いて、傷口を抉るように何度も何度も刺されているみたいだ。
 傷つかないように躱すのも、痛みを感じるのも飽きた。

「これは何の騒ぎだ」

 不穏なざわめきを、野太い声が一閃した。
 見上げると、皇后と皇帝がそれぞれの近衛騎士を引き連れて、こちらに近づいてくるところだった。と、ネネッタが兵士に拘束されたまま、その場に片膝をついた。

「メルキース男爵家のネネッタが、皇帝陛下にご挨拶申し上げます。アレンツァ家の次男――ファーシル・アレンツァが、新たな聖女様に毒を盛ったのです。どうか処罰を!」

 ネネッタの訴えを皮切りに、各方面から「処罰を!」とファーシルの断罪を望む声が飛び交った。
 その場から立ち上がれずにいるファーシルを家族たちは冷たく見下ろし、まるで腐った生肉を食したかのようなおどろおどろしい声で、ファーシルを憎しみに突き落としてくる。

「どうせマリッサの可愛さに嫉妬したとか、くだらない理由だろう」

 確かに愛らしいマリッサに嫉妬した。でも、くだらないなんて言わないでほしい。

「マリッサはお前と比べ物にならないほど価値のある子よ。嫉妬なんて醜いわね」

 その通りだ。悪魔の子と聖女の価値なんて月と鼈より差が開いている。

「そんな無意味なことしても、誰もお前を好きになんかならないのに」

 知ってる。知ってるよ。
 使用人たちのお手伝いをしても、誰からも感謝されなかった。
 寝る間も惜しんで勉強し、家庭教師からのテストで満点とっても、誰も褒めてくれなかった。
 家族の誕生日にはロビーの花をみんなの誕生花に入れ替えたけれど、誰も気づかなかった。
 他にもいろいろある。庭師が休みの日はファーシルが庭園の手入れをしていたこと。家族が風邪をひいて寝込んでいるときは、こっそりファーシルが生姜スープを作っていたこと。洗濯ものにほつれている部分を見つけたら、ファーシルが縫っていたこと。いっぱい、いっぱい。
 しかしそのどれもが無意味だったのだと、知っている。
 だって、どれだけ愛されたくて努力しても、誰からも見向きされなかった。
 だから、誰からも好いてもらえないなんて、自分がいちばん知っているから、わざわざ声に出さないで。

「この者を捕らえよ」

 皇帝の一声で、近くで待機していた兵士たちがファーシルを拘束するべく駆け寄ってくる。
 抵抗する気力さえ起きなくて、もう牢獄行きでいいや、と諦めかけていたのに。ファーシルを庇うようにして、アルヴァが前に立った。

「陛下、考え直して頂きたい。使われていた毒はアンシアです。ファーシルのような幼子がやすやすと手に入れられるものではありません」

 恐らくファーシルを庇ったわけでなく、皇太子として公平性を持ちたいだけなのだろう。それでも、ファーシルにとっては救いだった。嬉しかった。真実が明るみに出れば、ファーシルは無事では済まされないだろうけれど。

「後ろ盾でもいるんだろう。そいつに脅迫でもしたのではないか?」

 アルヴァの諌言を、皇帝は鼻で嗤った。

「公爵家内での彼の処遇を分かっていて仰っているのですか?」
「はて。知らんな」
「息子の婚約者なんですから少しくらい興味あるふりをするべきでは? 第一、公爵家では彼の世話も育てる義務も放棄しています。私は何度も陛下に、信頼できる待女を送るべきだと、せめて婚約者として彼個人に金銭の援助はするべきだと進言したではないですか。それら全て聞き入れなかったのは皇帝陛下、あなたですが」

 ファーシルは驚きで目を瞠った。
 アルヴァが公爵家でのファーシルの処遇を案じて対策を試みていたなんて、寝耳に水の話だ。

「知らんと言っただろう」

 皇帝は実の息子の苛立ちをあしらうように、知らんぷりを決め込んだ。

「だいたい、悪魔の子と呼ばれるくらいだ。人を洗脳する力があってもおかしくない」
「人を洗脳する力があるのなら、こんなまどろっこしいことしないと思いますが」

 アルヴァがファーシルを信じてくれているようで、嬉しくて、それで充分だ。
 ファーシルはアルヴァと皇帝が口論している間にも、耳を澄ませて周囲の声を聞いた。やはりファーシルのことを悪だと決めつけ、ファーシルを庇うような物言いをするアルヴァを疑問視する声がほとんどだ。

――アルヴァ殿下は、本当に悪魔の子に洗脳されているのではないか?

 そんな疑いが右へ左へと浸食していき、それは根拠のない確信へと変わっていく。

――アルヴァ殿下は、悪魔の子に洗脳されているんだ。

 そうファーシルの耳に届いたとたん、アルヴァの衣服の裾をきゅっと摘まんだ。アルヴァのきれいな眸がこちらを振り向く。嬉しい。アルヴァと目が合うたびに、ファーシルの心の傷はひとつずつ塞がれていくようなのだ。
 そうやって、たくさんファーシルを救ってくれたアルヴァのことを悪く言われるのは、自分のことの百倍嫌だった。

「どうしたんだい」
「……俺の部屋のクローゼットに、毒薬が隠してあります」

 ファーシルの告白に、一同はより一層ざわついた。
 目を丸くするアルヴァに、真実を打ち明けた。
 ネネッタに愛情と引き換えにマリッサを殺すよう持ちかけられたこと。最初は断ったけれど、愛されてみたくて、毒薬を受け取ってしまったこと。けれど、どうしてもマリッサを殺す気にはなれなくて、毒薬を使わずにいたこと。さっきネネッタからマリッサを殺さなかったことを責められて、その直後にネネッタがマリッサにグラスを傾けていたから、嫌な予感がしたこと。
 全部話し終えると、皇帝が兵に指示を出した。

「今すぐファーシル・アレンツァとネネッタ・メルキースの部屋を洗いざらい調べてこい」
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