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第一章 愛は食べられない
諦めないということ
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黒い瘴気をまとった魔物の大群が、寂れた街を襲っていた。更にその向こう側から、自分たちの住処である小屋よりも巨大な魔物がこちらに向かってくるのが見える。歩くたびに地面に足が食い込み、大きく振動する。
魔物に襲われて、内臓が飛び出し、体の部位を失った死体があちこちに転がっているのに、その魔物は避けることなく、視線を向けることもなく、そこに何もないかのように、踏み潰しながら猛スピードで前進してくる。
何ごとかと小屋から出てくる子供たちに、ファーシルは叫んだ。
「早く逃げて!」
瞬間、ファーシルに影が落ちた。頭上を一頭の魔物がやすやすと飛び越え、子供の一人を襲った。ころん、と胴体から引き剥がされた頭部がファーシルの足元に転がってきたのは、ほんの一瞬のできごとだった。
幼い眸が、きょとんとファーシルを見上げている。
何が起こったのか分からず、数秒の沈黙の後、子供たちが悲鳴を上げた。
魔物がどんどん子供たちを襲い始める。ファーシルが加勢するまでの、ほんの一秒にも満たない時間で、魔物に抗う子供たちは満身創痍になっていた。自分たちの安全地帯であった小屋はあっという間に瓦礫と化し、逃げていく子供たちの足音を聞きながら、ファーシルは深く息を吐いた。
「……なんで、こんなに大量に?」
真っ二つにした魔物を見下ろし、呆然と呟く。しかし、考えている暇はない。理解が追いつかないまま、魔物たちの追撃を防ぐことに徹した。
狼のような見目の魔物が、鋭い牙に粘っこい涎を纏わせて襲いかかる。構えた瞬間、背後から「あ、あ、あああ!」と怒号のような叫びが耳を劈いた。
自分を狙う魔物の襲撃を待たずに振り返った先には、地面に倒れたニコに鳥型の魔物が覆い被さっていた。ニコを捕食しようとする上下の大きな嘴を掴み、なんとか持ち堪えている。
「おいっ! 助けろよ!」
ニコが血眼になってファーシルに訴えかける。
ファーシルを捉える眸には、生きることへの渇望と、焦りと、他者を犠牲にする傲慢さが混沌としている。
ニコの後ろで瓦礫となった小屋を一瞥する。
ここに連れてこられたとき、いちばん最初に話しかけてきたのがニコだった。
名前を聞かれて、ファーシル、と呼んでくれて嬉しかった。家族にさえ、その名前で呼ばれたことはなかったから。ニコの声や眸には、純粋な興味と友好さを感じた。嫌悪を含まず接してくれて、本当に嬉しかったのだ。
しかし、魔物に襲われて命を乞うニコは、出会ったころの面影がない。
命の危機に面しているのだから、当たり前なのかもしれない。けれど、それだけではないことを知っている。
ファーシルが魔物討伐で成績を上げ、マルクと親しくなるにつれ、ニコとの距離は遠くなっていった。
ニコにだって、ファーシルに突進してくる狼のような魔物が見えているはずだ。それでも、ファーシルに命令口調で助けを求めている。ファーシルのことを、仲間と認めていないからだ。
それでも。
ファーシルは構えていた短剣を、ニコを襲う魔物の頭に向かって思いきり投げた。それは目掛けた場所に命中し、ほどなくして魔物はニコの上で動かなくなる。
「う、ぐっ」
安堵と失望を半分ずつ心に抱えて、一瞬、動きが鈍った。
油断した。
そのたった一瞬で、狼のような耳がファーシルの首筋を撫でている。肩に食い込む牙の感触に、ファーシルは呻いた。魔物の腹部を蹴り上げると、牙が離れていく。容赦なく溢れる血に、懐に入れているアルヴァからの手紙が汚れるのではないかと心配になった。
外套の下から、もう一つ忍ばせていた短剣を取り、再び襲ってくる狼の魔物を切り裂いた。それでも魔物たちはまだまだ尽きない。
「ニコ、逃げられる?」
傷つくのが怖くて、視線は正面を向いたまま、背後にいるニコに問いかける。
ニコはファーシルの問いかけには答えず、よたよたと立ち上がり、その場を去ろうとした。
しかし。
「俺も一緒に戦う」
と、マルクが短剣に滴る討伐した魔物の血を払いながら言う。
「本気かよ。マルク、逃げるぞ」
「ファーシルを置いて逃げられるかよ」
ニコが反対するも、マルクは視界一面に広がる魔物たちに好戦的な視線を向けた。
「おい! マルク、騎士になるんだろ! こんなところで命を無駄にするなよ!」
「ここで逃げる奴が騎士を目指せるかよ」
言い合いをする二人を尻目に、ファーシルは魔物の集団に向かって駆け出した。マルクが「おい!」とファーシルに待ったをかける声がしたが、構わずに魔物の中に飛び込む。そして、短剣を振り回し、突き立て、殺戮する。魔物に噛まれた肩が痛んだが、庇ってなんていられなかった。
「マルク、ニコと逃げて。俺と残る必要なんてないよ」
「はあ? この量はお前一人じゃ対処できないだろ」
「二人いても厳しいよ。それなら犠牲は一人のほうがいいでしょ」
「お前、死ぬつもりなわけ」
そのマルクの声は、静かな怒りを煮やしていた。どうして怒っているのか分からなくて、ファーシルは小首を傾げる。
「ニコはマルクのことを大切に思ってるし、マルクは騎士になりたいんでしょ。未来で救う何万人もの命がマルクを必要としてるよ」
「俺はそんなこと聞いてない」
「そういう話だよ。俺には、俺を必要とする人がいないから」
だから、犠牲を出すなら自分だけでいい。
「は……」
「でも大丈夫だよ」
ファーシルは、懐に忍ばせている手紙を、外套の上からそっと撫でた。
「諦めないって決めてるの」
言うと、ファーシルが魔物たちにまっすぐ向けた短剣の先が、太陽光に反射して光った。
まるで、それが合図であるかのように魔物たちが躍り出てくる。ファーシルは一歩も動かずに、襲いくる魔物を短剣ひとつで切り裂き、仕留めていく。
背後で、二つの足音が遠ざかっていく。
それでいい。
ファーシルは地面に転がる、市民や小屋の仲間たちの遺体を見やり、ぐっと短剣を強く握りしめた。
絶対にニコとマルクにだけは危害を加えさせない。せめて二人が安全な場所に逃げ切るまでは時間を稼がなければ。
ファーシルは視界いっぱいに広がる魔物たちに、ひたすら短剣を突き立てる。
厚い皮を何度も叩き、鋭い牙を折り、刃物のような爪を身に受けて、どれだけ攻撃しても、どれだけ怪我を負っても、ファーシルは立ち続けた。
呼吸が荒い。心臓が痛い。全身がもう動けないと悲鳴を上げている。それでも無理やり筋肉を動かし、まるで蟲のように湧く魔物を殺していく。
どれくらいの時間、血に塗れながら動き続けただろう。
気がつくと、辺りには魔物や人間の死骸だらけで、生きているのはファーシル一人だけになっていた。建物は瓦礫に、地面は血の海と化している。崩壊した街で、ファーシルはぽつんと佇んでいた。
もしかしたら、アルヴァからの手紙は血液に濡れて読めなくなってしまったかもしれない。
がくり、と膝から力が抜けた。血だまりに座り込み、跳ねた血が頬に滴る。
諦めないと決めていた。アルヴァが諦める必要なんてないと言ってくれたからだ。事実、マルクとニコを守ることができてよかったと思う。
なのに、心にぽっかりと穴が空いている。
マルクがいない。ニコがいない。もちろん、アルヴァだっていない。
小屋は瓦礫となった。所詮ここも、ファーシルの居場所ではなかったのだ。ディアロス皇国だろうが、アルパズール帝国だろうが、結局ファーシルはひとりなのだ。手に入ったと思ったものは全て幻想で、ひとりぼっちに、戻ってしまうのだ。
諦めないって決めた。決めた、けど。
諦めないって、すごく疲れる。
そのとき、今朝よりも大きな振動がした。
心臓が激しく拍動する。神経がびりびりと痺れる感覚がある。筋肉の繊維が千切れてしまいそうだ。尋常でないほど重圧を押し上げるようにして、ファーシルは視線を上げた。
魔の森のほうから、たった一頭の巨大な魔物が接近してきていた。
まるで動物のサイをドラゴンにしたような容姿をしている。これまで相手にしてきたどの魔物よりも大きい。
嘘だろ、と思う。
緩んでいた気を引き締めて、短剣を構えるが、何故か立ち上がることができなかった。ファーシルの幼い体はとうに限界を迎えている。撓んだ糸を元に戻すことができない。限界を遥かに超えて魔物を殲滅したのだ。心臓が破裂してしまいそうなくらい、ファーシルの体は悲鳴を上げている。
それでも、立たなければ。斃さなければ。
そう思うのに、気持ちばかりが急いて、体が言うことを聞かない。
ファーシルが身動き取れない体に苦戦している間にも、魔物は近づいてくる。
一歩、一歩、ファーシルとの距離が縮まっていく。
歩くたびに地面が揺れ、ひびが入る。立派な尾が空を切る音がする。凄まじい巨体なのに、ちっとも呼吸の音が聞こえてこない。
ふと、ファーシルの頭上から影が落ちた。
見上げると、魔物の鼻先から伸びた角がファーシルの心臓を狙っていた。
間一髪で体を後ろに倒して攻撃を躱すが、確実に不利な体勢だ。案の定、地面に倒れて逃げ場を失ったファーシルを、魔物が踏みつけようとしてくる。
こんな巨体に踏まれたら、一瞬で内臓もろとも体が潰れる。どうするべきか考える余地もなく、ファーシルを狙う足を瞬きもせず見ていると、突然、その足に短剣が刺さった。と、魔物が動きがぴたりと止まり、グルル、こちらを威嚇してくる。
「大丈夫か、ファーシル」
信じられない声が聞こえてきて、視線だけで振り返る。
そこには、ニコと共に逃げたはずのマルクが立っていた。
「マルク、どうして……」
驚きのあまり、声がつっかえて、上手く出てこない。
「ニコを安全な場所まで逃がしてきた。既に貧困街の外にまでちらほら魔物が出没してたぞ」
「……そのまま逃げてよ。なんで戻ってきたの」
「加勢するためだ。すぐに戻るつもりだったけど、手こずっちまって……。遅れて悪かった」
と言っても、ほとんどお前一人で片づけたみたいだけど。
そうつけ加えたマルクの表情は、信じられない、とでも言いたげだった。
「でも、俺もう動けない。あの魔物は、ひとりじゃ倒せないよ」
「一筋縄ではいかなそうだよな」
「逃げて」
「無理だよ」
即答すると、マルクが再び短剣を魔物に突き立てようとする。
向かい合うマルクと魔物を見据え、ファーシルは悲痛の声で訴えた。
「お願い、逃げてよ」
マルクはファーシルのお願いを無視して、魔物に挑む。
「逃げてったら」
ファーシルは動きそうにない自分の体に鞭を打ち、どうにか上半身を起こした。立ち上がろうとするが、足はうんともすんとも反応しない。
瞬間、豪快な風が吹いた。魔物の尾が勢いよく空気を裂いたのだ。その風が、マルクの腕を深く切った。
「やめて、やだ」
マルクでは、この魔物に勝てっこない。
魔物が動くたびに、マルクの傷が一つ、二つと増えていく。ファーシルは瞬きも忘れて、マルクの戦闘を見つめることしかできない。乾いた眸から、涙が湧いてくる。
「やだ、お願い、やだって」
もはや、ファーシルのお願いは何の意味も持たない。
始まってしまった戦闘を止めることもできないし、マルクの傷を治すこともできない。ただ、懇願して、胸の中で暴れ回る感情をどうにか逃がそうとしているだけだ。
「お願い、お願いだから……」
ぼろぼろに痛めつけられるマルクを、ただ泣きながら見ているしかできない自分が、憎くてたまらない。どうして動かないんだ。どうして。
瞬間、マルクの右腕が血飛沫を散らしながら、空中に舞った。
そして、マルクがファーシルを振り返り、悔しそうに笑う。その後ろから、鋭利な牙が迫っていた。弧を描いた唇が「ごめん」と形どった刹那。
「うそ」
マルクの上半身が、魔物の口の中におさまった。ぶちぶちぶち、と内臓が千切れ、がり、ぼり、と骨が砕ける音がする。
腰から上を失ったマルクの半身が、その場に崩れた。
頭の中が真っ白になる。何が起こったのか分からない。しかし、思考とは裏腹に、心は顕著に反応している。絶望が溢れて、ファーシルを構成するもの全てが、苦しさで締めつけられているようだ。
マルクを捕食した魔物は、次はお前の番だと言わんばかりに、ファーシルに近寄ってくる。
もう、疲れた。
懐に忍ばせたお守りの効力が切れたように、ファーシルの心の中に諦めが漂う。
自分のために戻ってきてくれたマルクを先に逝かせて、自分だけ諦めないなんて、そんな道を選べるはずがない。
魔物の巨大な足がファーシルに迫ってくる。
生きる気力を失った眸で、魔物を見上げた。
と、マルクを殺した牙が、勢いよくファーシルを狙う。
せっかく、アルヴァ殿下がファーシルに「諦めなくていい世界」を与えてくれたのに、それを自分の無力さが台なしにしてしまった。
そう思い、静かに死を受け入れたのに。
突然、魔物が佇む地面が、ボコッと盛り上がった。下から土を押し上げたのは、樹木の太い根っこだった。それは自由自在に吹き荒ぶ風のように動き、魔物の巨体に絡みついた。あっという間に魔物の動きを封じ込めてしまう。
そして、その木の根は徐々に魔物の皮膚を締め上げ、めりめりと食い込んでいく。
ふと、魔物の後ろで、誰かがぐっと拳を握る気配があった。
瞬間、木の根が魔物の中身まで容赦なく食い込み、まるで破裂したかのように、勢いよく魔物の血飛沫が上がった。
ファーシルは魔物の血の雨に降られながら、何段にも裂かれた魔物の塊肉の向こうに、人影を見た。一際美しく、目を引く男だった。
アルヴァと同じくらい高貴な匂いがする。けれど、アルヴァよりも大人びた顔をしていた。
男はにこにこと胡散臭い笑顔を携えて、ファーシルに近寄ってくる。
そこで、自分は助かったのだと自覚し、涙が溢れた。安心したわけじゃない。嬉しかったわけじゃない。悲しかった。やるせなかった。疲れた。生きていたくないと、確かに思ってしまったのに。
まるで現実逃避するかのように、意識が遠のいていく。
「助けて……」
哀願した瞬間、高貴な匂いが強くなった。
◇ ◇ ◇
「助けてって、助けたのに何言ってるんですかね」
美しい男の付き添いが、呆れたように口を開く。
鮮血のように紅い眸と、雪のように白い肌。珍しい容姿の少年を抱きとめた美しい男は、じっと腕の中にある幼い顔を見つめた。
そして、にやりとほくそ笑む。
「これ、持って帰ろうか」
魔物に襲われて、内臓が飛び出し、体の部位を失った死体があちこちに転がっているのに、その魔物は避けることなく、視線を向けることもなく、そこに何もないかのように、踏み潰しながら猛スピードで前進してくる。
何ごとかと小屋から出てくる子供たちに、ファーシルは叫んだ。
「早く逃げて!」
瞬間、ファーシルに影が落ちた。頭上を一頭の魔物がやすやすと飛び越え、子供の一人を襲った。ころん、と胴体から引き剥がされた頭部がファーシルの足元に転がってきたのは、ほんの一瞬のできごとだった。
幼い眸が、きょとんとファーシルを見上げている。
何が起こったのか分からず、数秒の沈黙の後、子供たちが悲鳴を上げた。
魔物がどんどん子供たちを襲い始める。ファーシルが加勢するまでの、ほんの一秒にも満たない時間で、魔物に抗う子供たちは満身創痍になっていた。自分たちの安全地帯であった小屋はあっという間に瓦礫と化し、逃げていく子供たちの足音を聞きながら、ファーシルは深く息を吐いた。
「……なんで、こんなに大量に?」
真っ二つにした魔物を見下ろし、呆然と呟く。しかし、考えている暇はない。理解が追いつかないまま、魔物たちの追撃を防ぐことに徹した。
狼のような見目の魔物が、鋭い牙に粘っこい涎を纏わせて襲いかかる。構えた瞬間、背後から「あ、あ、あああ!」と怒号のような叫びが耳を劈いた。
自分を狙う魔物の襲撃を待たずに振り返った先には、地面に倒れたニコに鳥型の魔物が覆い被さっていた。ニコを捕食しようとする上下の大きな嘴を掴み、なんとか持ち堪えている。
「おいっ! 助けろよ!」
ニコが血眼になってファーシルに訴えかける。
ファーシルを捉える眸には、生きることへの渇望と、焦りと、他者を犠牲にする傲慢さが混沌としている。
ニコの後ろで瓦礫となった小屋を一瞥する。
ここに連れてこられたとき、いちばん最初に話しかけてきたのがニコだった。
名前を聞かれて、ファーシル、と呼んでくれて嬉しかった。家族にさえ、その名前で呼ばれたことはなかったから。ニコの声や眸には、純粋な興味と友好さを感じた。嫌悪を含まず接してくれて、本当に嬉しかったのだ。
しかし、魔物に襲われて命を乞うニコは、出会ったころの面影がない。
命の危機に面しているのだから、当たり前なのかもしれない。けれど、それだけではないことを知っている。
ファーシルが魔物討伐で成績を上げ、マルクと親しくなるにつれ、ニコとの距離は遠くなっていった。
ニコにだって、ファーシルに突進してくる狼のような魔物が見えているはずだ。それでも、ファーシルに命令口調で助けを求めている。ファーシルのことを、仲間と認めていないからだ。
それでも。
ファーシルは構えていた短剣を、ニコを襲う魔物の頭に向かって思いきり投げた。それは目掛けた場所に命中し、ほどなくして魔物はニコの上で動かなくなる。
「う、ぐっ」
安堵と失望を半分ずつ心に抱えて、一瞬、動きが鈍った。
油断した。
そのたった一瞬で、狼のような耳がファーシルの首筋を撫でている。肩に食い込む牙の感触に、ファーシルは呻いた。魔物の腹部を蹴り上げると、牙が離れていく。容赦なく溢れる血に、懐に入れているアルヴァからの手紙が汚れるのではないかと心配になった。
外套の下から、もう一つ忍ばせていた短剣を取り、再び襲ってくる狼の魔物を切り裂いた。それでも魔物たちはまだまだ尽きない。
「ニコ、逃げられる?」
傷つくのが怖くて、視線は正面を向いたまま、背後にいるニコに問いかける。
ニコはファーシルの問いかけには答えず、よたよたと立ち上がり、その場を去ろうとした。
しかし。
「俺も一緒に戦う」
と、マルクが短剣に滴る討伐した魔物の血を払いながら言う。
「本気かよ。マルク、逃げるぞ」
「ファーシルを置いて逃げられるかよ」
ニコが反対するも、マルクは視界一面に広がる魔物たちに好戦的な視線を向けた。
「おい! マルク、騎士になるんだろ! こんなところで命を無駄にするなよ!」
「ここで逃げる奴が騎士を目指せるかよ」
言い合いをする二人を尻目に、ファーシルは魔物の集団に向かって駆け出した。マルクが「おい!」とファーシルに待ったをかける声がしたが、構わずに魔物の中に飛び込む。そして、短剣を振り回し、突き立て、殺戮する。魔物に噛まれた肩が痛んだが、庇ってなんていられなかった。
「マルク、ニコと逃げて。俺と残る必要なんてないよ」
「はあ? この量はお前一人じゃ対処できないだろ」
「二人いても厳しいよ。それなら犠牲は一人のほうがいいでしょ」
「お前、死ぬつもりなわけ」
そのマルクの声は、静かな怒りを煮やしていた。どうして怒っているのか分からなくて、ファーシルは小首を傾げる。
「ニコはマルクのことを大切に思ってるし、マルクは騎士になりたいんでしょ。未来で救う何万人もの命がマルクを必要としてるよ」
「俺はそんなこと聞いてない」
「そういう話だよ。俺には、俺を必要とする人がいないから」
だから、犠牲を出すなら自分だけでいい。
「は……」
「でも大丈夫だよ」
ファーシルは、懐に忍ばせている手紙を、外套の上からそっと撫でた。
「諦めないって決めてるの」
言うと、ファーシルが魔物たちにまっすぐ向けた短剣の先が、太陽光に反射して光った。
まるで、それが合図であるかのように魔物たちが躍り出てくる。ファーシルは一歩も動かずに、襲いくる魔物を短剣ひとつで切り裂き、仕留めていく。
背後で、二つの足音が遠ざかっていく。
それでいい。
ファーシルは地面に転がる、市民や小屋の仲間たちの遺体を見やり、ぐっと短剣を強く握りしめた。
絶対にニコとマルクにだけは危害を加えさせない。せめて二人が安全な場所に逃げ切るまでは時間を稼がなければ。
ファーシルは視界いっぱいに広がる魔物たちに、ひたすら短剣を突き立てる。
厚い皮を何度も叩き、鋭い牙を折り、刃物のような爪を身に受けて、どれだけ攻撃しても、どれだけ怪我を負っても、ファーシルは立ち続けた。
呼吸が荒い。心臓が痛い。全身がもう動けないと悲鳴を上げている。それでも無理やり筋肉を動かし、まるで蟲のように湧く魔物を殺していく。
どれくらいの時間、血に塗れながら動き続けただろう。
気がつくと、辺りには魔物や人間の死骸だらけで、生きているのはファーシル一人だけになっていた。建物は瓦礫に、地面は血の海と化している。崩壊した街で、ファーシルはぽつんと佇んでいた。
もしかしたら、アルヴァからの手紙は血液に濡れて読めなくなってしまったかもしれない。
がくり、と膝から力が抜けた。血だまりに座り込み、跳ねた血が頬に滴る。
諦めないと決めていた。アルヴァが諦める必要なんてないと言ってくれたからだ。事実、マルクとニコを守ることができてよかったと思う。
なのに、心にぽっかりと穴が空いている。
マルクがいない。ニコがいない。もちろん、アルヴァだっていない。
小屋は瓦礫となった。所詮ここも、ファーシルの居場所ではなかったのだ。ディアロス皇国だろうが、アルパズール帝国だろうが、結局ファーシルはひとりなのだ。手に入ったと思ったものは全て幻想で、ひとりぼっちに、戻ってしまうのだ。
諦めないって決めた。決めた、けど。
諦めないって、すごく疲れる。
そのとき、今朝よりも大きな振動がした。
心臓が激しく拍動する。神経がびりびりと痺れる感覚がある。筋肉の繊維が千切れてしまいそうだ。尋常でないほど重圧を押し上げるようにして、ファーシルは視線を上げた。
魔の森のほうから、たった一頭の巨大な魔物が接近してきていた。
まるで動物のサイをドラゴンにしたような容姿をしている。これまで相手にしてきたどの魔物よりも大きい。
嘘だろ、と思う。
緩んでいた気を引き締めて、短剣を構えるが、何故か立ち上がることができなかった。ファーシルの幼い体はとうに限界を迎えている。撓んだ糸を元に戻すことができない。限界を遥かに超えて魔物を殲滅したのだ。心臓が破裂してしまいそうなくらい、ファーシルの体は悲鳴を上げている。
それでも、立たなければ。斃さなければ。
そう思うのに、気持ちばかりが急いて、体が言うことを聞かない。
ファーシルが身動き取れない体に苦戦している間にも、魔物は近づいてくる。
一歩、一歩、ファーシルとの距離が縮まっていく。
歩くたびに地面が揺れ、ひびが入る。立派な尾が空を切る音がする。凄まじい巨体なのに、ちっとも呼吸の音が聞こえてこない。
ふと、ファーシルの頭上から影が落ちた。
見上げると、魔物の鼻先から伸びた角がファーシルの心臓を狙っていた。
間一髪で体を後ろに倒して攻撃を躱すが、確実に不利な体勢だ。案の定、地面に倒れて逃げ場を失ったファーシルを、魔物が踏みつけようとしてくる。
こんな巨体に踏まれたら、一瞬で内臓もろとも体が潰れる。どうするべきか考える余地もなく、ファーシルを狙う足を瞬きもせず見ていると、突然、その足に短剣が刺さった。と、魔物が動きがぴたりと止まり、グルル、こちらを威嚇してくる。
「大丈夫か、ファーシル」
信じられない声が聞こえてきて、視線だけで振り返る。
そこには、ニコと共に逃げたはずのマルクが立っていた。
「マルク、どうして……」
驚きのあまり、声がつっかえて、上手く出てこない。
「ニコを安全な場所まで逃がしてきた。既に貧困街の外にまでちらほら魔物が出没してたぞ」
「……そのまま逃げてよ。なんで戻ってきたの」
「加勢するためだ。すぐに戻るつもりだったけど、手こずっちまって……。遅れて悪かった」
と言っても、ほとんどお前一人で片づけたみたいだけど。
そうつけ加えたマルクの表情は、信じられない、とでも言いたげだった。
「でも、俺もう動けない。あの魔物は、ひとりじゃ倒せないよ」
「一筋縄ではいかなそうだよな」
「逃げて」
「無理だよ」
即答すると、マルクが再び短剣を魔物に突き立てようとする。
向かい合うマルクと魔物を見据え、ファーシルは悲痛の声で訴えた。
「お願い、逃げてよ」
マルクはファーシルのお願いを無視して、魔物に挑む。
「逃げてったら」
ファーシルは動きそうにない自分の体に鞭を打ち、どうにか上半身を起こした。立ち上がろうとするが、足はうんともすんとも反応しない。
瞬間、豪快な風が吹いた。魔物の尾が勢いよく空気を裂いたのだ。その風が、マルクの腕を深く切った。
「やめて、やだ」
マルクでは、この魔物に勝てっこない。
魔物が動くたびに、マルクの傷が一つ、二つと増えていく。ファーシルは瞬きも忘れて、マルクの戦闘を見つめることしかできない。乾いた眸から、涙が湧いてくる。
「やだ、お願い、やだって」
もはや、ファーシルのお願いは何の意味も持たない。
始まってしまった戦闘を止めることもできないし、マルクの傷を治すこともできない。ただ、懇願して、胸の中で暴れ回る感情をどうにか逃がそうとしているだけだ。
「お願い、お願いだから……」
ぼろぼろに痛めつけられるマルクを、ただ泣きながら見ているしかできない自分が、憎くてたまらない。どうして動かないんだ。どうして。
瞬間、マルクの右腕が血飛沫を散らしながら、空中に舞った。
そして、マルクがファーシルを振り返り、悔しそうに笑う。その後ろから、鋭利な牙が迫っていた。弧を描いた唇が「ごめん」と形どった刹那。
「うそ」
マルクの上半身が、魔物の口の中におさまった。ぶちぶちぶち、と内臓が千切れ、がり、ぼり、と骨が砕ける音がする。
腰から上を失ったマルクの半身が、その場に崩れた。
頭の中が真っ白になる。何が起こったのか分からない。しかし、思考とは裏腹に、心は顕著に反応している。絶望が溢れて、ファーシルを構成するもの全てが、苦しさで締めつけられているようだ。
マルクを捕食した魔物は、次はお前の番だと言わんばかりに、ファーシルに近寄ってくる。
もう、疲れた。
懐に忍ばせたお守りの効力が切れたように、ファーシルの心の中に諦めが漂う。
自分のために戻ってきてくれたマルクを先に逝かせて、自分だけ諦めないなんて、そんな道を選べるはずがない。
魔物の巨大な足がファーシルに迫ってくる。
生きる気力を失った眸で、魔物を見上げた。
と、マルクを殺した牙が、勢いよくファーシルを狙う。
せっかく、アルヴァ殿下がファーシルに「諦めなくていい世界」を与えてくれたのに、それを自分の無力さが台なしにしてしまった。
そう思い、静かに死を受け入れたのに。
突然、魔物が佇む地面が、ボコッと盛り上がった。下から土を押し上げたのは、樹木の太い根っこだった。それは自由自在に吹き荒ぶ風のように動き、魔物の巨体に絡みついた。あっという間に魔物の動きを封じ込めてしまう。
そして、その木の根は徐々に魔物の皮膚を締め上げ、めりめりと食い込んでいく。
ふと、魔物の後ろで、誰かがぐっと拳を握る気配があった。
瞬間、木の根が魔物の中身まで容赦なく食い込み、まるで破裂したかのように、勢いよく魔物の血飛沫が上がった。
ファーシルは魔物の血の雨に降られながら、何段にも裂かれた魔物の塊肉の向こうに、人影を見た。一際美しく、目を引く男だった。
アルヴァと同じくらい高貴な匂いがする。けれど、アルヴァよりも大人びた顔をしていた。
男はにこにこと胡散臭い笑顔を携えて、ファーシルに近寄ってくる。
そこで、自分は助かったのだと自覚し、涙が溢れた。安心したわけじゃない。嬉しかったわけじゃない。悲しかった。やるせなかった。疲れた。生きていたくないと、確かに思ってしまったのに。
まるで現実逃避するかのように、意識が遠のいていく。
「助けて……」
哀願した瞬間、高貴な匂いが強くなった。
◇ ◇ ◇
「助けてって、助けたのに何言ってるんですかね」
美しい男の付き添いが、呆れたように口を開く。
鮮血のように紅い眸と、雪のように白い肌。珍しい容姿の少年を抱きとめた美しい男は、じっと腕の中にある幼い顔を見つめた。
そして、にやりとほくそ笑む。
「これ、持って帰ろうか」
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高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
春を拒む【完結】
璃々丸
BL
日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。
「ケイト君を解放してあげてください!」
大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。
ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。
環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』
そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。
オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。
不定期更新になります。
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
届かない「ただいま」
AzureHaru
BL
いつも通りの変わらない日常のはずだった。
「行ってきます。」と言って出て行った貴方。1日が終わる頃に「ただいま。」と「おかえり。」を笑顔で交わすはずだった。でも、その言葉はもう貴方には届かない。
これは「優しさが奪った日常」の物語。
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