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番外編 夏 夜光(やこう) ヴァンテル視点
②
しおりを挟む夜の闇の中で、ふと目を覚ます。
小さな小さな羽音が聞こえる。耳の奥で何かを伝えるような、かすかな音が。
瞬きをした瞬間に音は消え、目を開ければただ静かな闇が広がっている。
手を伸ばしても隣にいたはずの温もりがどこにもない。背中を冷たい何かが吹き抜けて、息を止めるようにして身を起こす。傍らにあった丈の長い上衣を羽織り、室内をそっと歩き出す。
しんと冷たい空気は、夜明けに向かっていることを知らせていた。
部屋の中に人の気配はなかった。
続き部屋に入ると、窓掛けが少し開けられ、外の景色が見えている。硝子越しに白い月の光だけが静かに降りそそぐ。
窓の側にある長椅子を覗き込めば、体を丸めて眠っているアルベルト様の姿があった。
――貴方は、寝台を抜け出して一人きりで眠っていたのか。
もしかして、これまでに……何度も?
不意に細い体がどこかに消えてしまいそうな気がして、ぎゅっと胸が痛んだ。
この痛みには覚えがある。王宮の居室から連れ去られた日々。探しても探しても見つからない絶望が、ふとしたきっかけで顔を出す。
床に座りこんで、白く小さな顔を眺めた。月明かりに照らされる繊細な美貌は、この世のものとも思えない。銀に近い金の髪は月の光にきらめき、白い肌が人形のように冷たく映る。まるで息をしていないかのようだ。
突然、あってはならない想像が脳裏をよぎった。
「……アルベルト様!」
顔を近づければ、小さな寝息が聞こえて体温が伝わってきた。急速に肩の力が抜け、涙が出そうなほど安心する。
細い指先に口づければピクリと動き、柔らかな唇が開く。
「クリス……?」
「……アルベルト様、どうしてこんなところに? 隣にいらっしゃらないので驚きました」
「兄様が呼んだ」
──兄様?
全身が総毛だった。
胸の中の動揺を押し殺して、そっと言葉を吐き出す。
「……兄君が?」
「うん。アル、おいで、と」
虚ろな瞳は私を捉えてはいない。長い睫毛を震わせて、ほっそりした体を自分の腕で抱え込む。
今はもういない者への言葉を紡ぐ姿は、幼い子どもよりも頼りない。
「『約束の遠乗りに行こう、ブラオンも待っている』兄様が、そう言うんだ」
「……アルベルト様」
「兄様に会いたい」
小さな声だった。かすれるような声は、闇の中に溶けていく。
青白い頬に一粒の真珠のような涙が転がる。
光の無い瞳が窓の外を見ている。
……闇が人の形をとり、亡き者が微笑んで手を差し出す。
そんな幻が見えた。私は幻覚を振り払うように首を振った。
アルベルト様の細い体を抱き上げて長椅子に座り直した。
いつもの穏やかでいながら凛とした姿はなく、幼い子どものように心細げに泣いている。私は目の端に口づけ、涙を塞いだ。
「兄君は亡くなられたのです、アルベルト様。貴方様には私がおります」
「……クリス、兄様は寂しくないか? お前のように側にいてくれる者もいない。一人きりで寂しいから、私を呼んでいるのではないのか?」
「今は、父君や母君もご一緒におられるでしょう。天の花園で安らいでおられるはずです。何もご心配なさることはありません」
ゆっくりと柔らかな髪を梳いていると、だんだんアルベルト様の体から力が抜けていく。
裁きの蜜を得ようとも、いまだに細い体だ。知らぬ間にこんな哀しみを抱いていたことに胸が痛む。
アルベルト様は悲しみを内に抱え込む方だ。それは、私が与えた罪に違いない。
一人で耐えることはないと、貴方の悲しみを私にも分けてほしいと、時間をかけて伝えてきた。それでもまだ足りはしない。
亡き王太子が煉獄にいようが地獄の底にいようが構わない。
この世に悪魔がいるとしたら、あの男だと思っていた。弟王子を手の内に閉じ込め、手段を選ばずに一つの村を滅ぼす。7年もの間、私とアルベルト様が会うことすら許さなかった男。
だが、トベルクにアルベルト様を攫われて気がついた。
私のとった行動は、王太子と何が変わるというのか。食糧庫を焼くのも、トベルクに危害を加えるのも、少しもためらいはしなかった。
偏愛か執着だと人は言うだろう。
私もあの男も、同じなのだ。
──欲しいものは永遠に、ただ一つだけ。
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