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8.アナンの獣 ②
しおりを挟むアナンが獣を食い入るように見つめている間、僅かに腕を掴む力が緩んだ。振り切って走ろうとした瞬間、がっ! と体を思いきり掴まれた。
「逃がすかッ!」
「え⋯⋯ええええっ!」
いつの間にか、アナンの手下が錠を外し、扉を開けている。アナンは渾身の力を込めて、僕を扉の中に投げ込んだ。一瞬、自分の体が浮いたと思ったら、すぐに石の床に叩きつけられた。うつ伏せのまま痛みで動けずにいれば、扉が閉まる音がする。続いてガチャン、と錠が下りた。
柵に体当たりしていた音が止まった。大きな獣が近づく気配がする。
⋯⋯怖い、怖い、怖い。
毛むくじゃらの毛の一部が体に触れて、ぞわぞわと体に寒気が走った。ふんふん、と匂いを嗅がれている。大きな牙が背中に近づいてくる。
⋯⋯嫌だ、怖い、こわいいいいい!!
獣の動きが止まった。
あまりの恐怖に、僕はおかしくなっていたのだろう。体の痛みを堪えて後ろを振り返った。
赤い空洞が、あった。
目の前には、大きく開かれた口と輝く牙。
──⋯⋯ああ、終わった⋯⋯。
石の床は冷たくて埃っぽかった。そのはずなのに、なぜだろう。今はもう、暖かい気がする。そして、体中ぬるぬるしているのは、血なんだろうか。実は獣に食べられて、もう痛みすら曖昧になっているんだろうか。
「⋯⋯死んでないぞ。傷ついてもいない」
近くで、ばかやろうの声がする。何を言ってるんだ、お前が僕をあの獣に食わせたんだろう。
「おい、しっかりしろと言っても無理だとは思うがな。お前、起き上がれるなら目を開けて、よく見ろ。自分がどこにいるのかを」
アナンの声がうるさい。怒鳴りつけたくなって、目を開けた。あれ、目が開く。何か黒いものが前を覆っている。手を伸ばして掴めば、毛だった。よく見れば、手も足も、体中をすっぽりと黒い毛でくるまれていた。指で毛をいじっていると、ぐるるる、と唸るような声がする。べろり、と肩を何かが舐めた。
「へ? え⋯⋯うわあああああ!!!!」
驚いて半身を起こせば、大きな舌が僕の顔を舐めた。べろべろべろべろと、何度も舐められてあっという間に体中、よだれでべたべたになる。
「安心しろ、お前は気に入られたようだ。やはり使い出があったな」
「何が? 何が安心なの? これ、何!」
僕は、毛むくじゃらの獣に全身を抱え込まれていた。柵の向こうでは、アナンが黙ったまま頷いている。
「だからあ! これ、何なんだよ!!」
◇◇
「ダート様! 止めてください!」
「⋯⋯止められるものなら、とっくに止めている。サジュ、魔導士はまだか! とにかく、ありったけの男たちを連れてこい! このままでは、最上階の柱が消える!」
僕が獣に包まれている間、カランカンは嵐に包まれていたそうだ。嵐は嵐でも、まがうことなき人災だ。災厄の名はオリヴィと言う。
カランカンの最上階は、物という物を壊され、剣で切り裂かれていた。最上階だけで済んでいるのは、館主のダートによって、オリーを外に出さないようにしているからだ。ダートは足抜けを恐れたわけではない。正気を失くしかけているオリーが周りを害するのを恐れたのだ。
『⋯⋯ラウェルが、いない』
僕たちが連れ去られた時、オリーがそう呟いたのだと言う。
付人のロウが語った話が、後になって僕の元まで届いた。
⋯⋯オリヴィ様は、すぐに立ち上がって、部屋を飛び出て行かれました。私たちがお止めする暇もありませんでした。後を追いかけたら、誰も教えないのに、ラウェル様とシフが向かった納屋に立っておられました。
男たちが賊を追って走り回る中、オリーは、一人で納屋に立っていた。床には、僕が作った薬の瓶や籠が転がっていた。その一つ一つを拾って籠の中に収めたという。
僕の大好きな蒼空の瞳は怒りに震え、全てを焼き尽くすような青白い炎を宿していたそうだ。
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