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Ⅰ.スターディア
第11話 末っ子王子と黒髪の騎士①
しおりを挟む振り向くことが出来なかった。
宵闇の中、近づいてくる足音がする。
若い騎士がうろたえているのがわかる。
「殿下」
「下がれ」
──王子は怒っている。
白馬が何かを感じ取ったかのように、体を震わせた。
すぐ後ろに近づく気配。
じわりと背に汗がにじむ。
ここで逃げても、相手の方が絶対早い。すぐに追いつかれる。
その時、白馬が向きを変えた。
シェンバー王子に向かって前脚を跳ねあげる。
ひるんだ王子の足が止まった。
「殿下、危ない!」
若い騎士が、白馬の前に身を投げ出した。
「お下がりください!」
騎士は王子を庇うように、前を塞ぐ。
「何を言う! そこをどけ!!」
ぼくは、その隙に走った。
白馬に向かって叫ぶ。
「おいで!」
白馬が再び向きを変えて走り出す。
シェンバー王子は目の前の若い騎士を突き飛ばした。
白馬に必死で飛び乗れば、王子の手がぼくの外套の裾を掴む。
「くっ!!」
外套を力一杯引っ張られて、バランスを崩しそうになる。
馬の前脚がわずかに上がった。まずい。
ぼくは息苦しさに喘ぎながら右手で手綱をもち、左手で首にある留め金を引きちぎった。
外套がはがれ、体が一気に軽くなる。
同時に、後ろで大きく人が倒れる音が聞こえた。
「王子!!」
若い騎士の声が聞こえる。
橋がわずかに揺れた。
「はし⋯⋯って」
むせそうになるのを必死でこらえながら、馬に囁く。
ぴくんと馬の耳が揺れる。
白馬は走りだした。
怒声と、騒めき。
それも耳にしたのは一瞬だった。
ぼくは白馬と共に、まっしぐらにフィスタの森の暗闇に飛び込んだ。
乳母は言った。
逃げるが肝心、決して後ろを振り向かないこと。
よろしいですか、イルマ様。
人として出来る限りの力を尽くされたなら。
あとは野となれ、山となれ、です。
ルチア。
言われたことは、しっかり守ったよ。
☆★☆
──衝撃だった。
橋の上に無様に転がる自分の姿など、この人生の中で考えたこともない。
傍らの騎士の手を振り払って起き上がっても、自分の身に起きたことが信じられない。
相手は騎士ですらない。細身でひ弱でごくごく平凡な風情の王子だ。
シェンバー王子は、己の手を見た。
その手の中にあったのは、留め金のとんだ外套のみ。
そして、左肩には倒れた時に打った鈍い痛みが残る。
目の前にはフィスタの黒森。
夜と森が混然一体となって深い闇を広げている。
遠吠えがかすかに聞こえるのは、何の獣だろうか。
あと少しで捕らえたはずの相手は闇に紛れ、もうどこにも見えない。
「⋯⋯馬を持て」
側にいた騎士が、仰天して声を上げる。
「恐れながら、申し上げます! フィスタの黒森は広大にして危険であります。夜に森に入る者はおりません」
「あいつは⋯⋯行ったではないか」
「え⋯⋯、ええ。彼の者は、生家がフィスタにあると申しておりました。どうしても今夜行かねばならぬと」
「ああ、そうだろうな⋯⋯」
森を抜けて、その先に。
彼の帰りを待ち詫びている者たちがいるはずだ。
シェンバーの瞳は、まるで黒森そのものを映したような色だった。
森を睨み据える姿に、駆けつけた騎士たちは事情もわからぬまま黙り込む。
「王子⋯⋯申し訳ございません。どんな責めもこの身にお受け致します」
若い騎士は跪いて頭を垂れた。
「⋯⋯よい。辺境伯の城に戻る」
「はっ!」
「必ず⋯⋯」
王子の口から洩れた小さな呟きは、闇の中に溶けて消えた。
★☆★
目覚めた時は、黒森の中だった。
ふかふかの草の上に寝転がっている。
空が明るく白んでいる。黒森に朝が来たのだろう。
ぼくは起き上がって、ぶるりと震えた。
シャツに上着のみで寝ていたせいか。ぞくぞくと寒気が這いあがってくる。
「いたっ! ⋯⋯あ、外套」
脳裏に昨夜の光景がよみがえった。
無理やり留め金を引きちぎった時に傷つけたのだろう。
左手の爪が割れて、血が滲んでいる。
あの時、橋が揺れた。人が倒れる音も聞こえた。
「シェンバー王子。大丈夫だったかな⋯⋯」
広場で果実を拾ってくれたあの若い騎士も、咎められなければいいのだが。
自分を捕らえようとした者たちを心配して、どうするんだ。
そう思うけれど気になってしまう。
これはもう、性分としか言いようがない。
それにしても、ここはどこだろう。
立ち上がって辺りを見回すと、馬は近くにあった泉で水を飲んでいた。
ぼくが近づけば、黒い瞳でじっと見つめてくる。
「ああ、お前がここまで連れてきてくれたんだね」
闇に包まれた森をひたすら走り、柔らかい草のある場所まで運んだ。そして、眠るぼくの傍らで休んでは、暖を与えてくれた。
「ありがとう。お前のおかげで助かったよ」
馬の睡眠時間は短い。傍にいてくれなかったら凍えていた。
感謝をこめて鼻づらを撫でると、白馬は目を細めて鼻をすり寄せてきた。
泉には、滾々と清水が湧き出ている。
鬱蒼とした森の中で、まるでここだけが開けたかのように、頭上から日が差し込んでいた。
ここは女神の加護のある泉だ。
ぼくは跪いて指を組み、祈りを捧げた。女神への祈りの言葉を詠唱する。
その言葉を受け取るかのように、泉の水が朝日を受けてきらきらと輝いた。
食べ物はなかったが、水がある。腰につけていた皮袋に泉の水を汲み入れた。
水さえあれば、なんとか森を抜けられるだろう。
街道に戻るのが一番早いが、一瞬不安がよぎった。
スターディアからの追手は、ここまでくるだろうか。ぼくが黒森に逃げ込んだのは、もうわかっている。
だが、ここはフィスタだ。
行き来が自由だとは言え、隣国の領地でその国の王子を捕らえることは許されない。
ぼくは、白馬に話しかけた。
「案ずるより産むがやすし、って言うよね。いざとなったら、お前の耳が危険を察知してくれると信じてるよ」
ぼくは馬に跨り、街道を見つけて走り始めた。
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