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Ⅲ.祝福の子
第14話 湖②
しおりを挟む「ぼくは驚いているんです。貴方がフィスタに来て、もうじき2ヶ月になる。スターディアとフィスタでの貴方は、違いすぎる」
仮面をつけたシェンバー王子の表情は読めない。
「⋯⋯女神の坐す地は、居心地が良すぎます。私が必死で付けた仮面も、日に日に意味がなくなっていきます」
王子は自嘲したように笑う。
「これも、『祝福の子』がいるからですか?」
「なぜ、それを」
「山間の村でも、湖の村でも、民が噂している。女神に愛された王子がいて、その子がいるから気候がよく、恵みが多いのだと。ただの迷信にしては、確かに空気が違う。貴方が祝福の子なのですね」
「⋯⋯そう呼ばれています」
王子の瑠璃色の瞳が、静かにぼくを見つめる。ぼくは黙って視線を返した。王子は手に持っていた竪琴を長い指で爪弾き、夜の静寂に美しい旋律が流れていく。
「殿下、今宵は特別な夜です。女神に感謝を捧げましょう。⋯⋯神子の舞を、踊れますか?」
それは、耳に馴染んだ音楽だった。
シェンバー王子が奏でたのは、女神に奉納する舞の楽曲だ。四年に一度の湖上祭では、その年に選ばれた神女たちが女神に舞を捧げる。幼い頃、神女たちに交じって一度だけ共に踊ったことがあった。
ぼくは頷いて立ち上がり、羽織っていた上掛けを脱ぐ。
シェンバー王子は微笑んだ。
「貴方の舞なら、女神は喜んでお受け取りになることでしょう」
月明かりに水面が煌めいている。わずかに湖面が波立つ。
ぼくは、女神の湖に向かって一礼した。シェンバー王子が竪琴を奏で、湖に向かってゆっくりと音が流れていく。
水の精霊の衣装は軽い。軽やかな音に合わせて一歩踏み出せば、白銀の衣装がふわりとひらめく。
湖面にさざ波が立ち、宙の星々の輝きを映したかのように輝いた。
──ああ、なんて気持ちがいいのだろう。
空気の冷たさは少しも感じなかった。
いつのまにか、世界には、ぼくと王子と竪琴の音だけだ。
舞い終わった瞬間、湖の真ん中で大きな波が起こった。湖面の光が細やかに宙に舞い上がる。
ぼくはその時、確かに女神の歓喜の声を聞いた。
「⋯⋯殿下には驚かされてばかりです」
「それは、ぼくも同じだけど」
乱れた息を整えていると、ふわりと肩に上掛けをかけられた。
「あ、ありがとう⋯⋯」
思わず上ずった声が出て、何を戸惑っているんだと自分に問いかける。
「⋯⋯山賊たちをね、探していたんです」
王子がぽつりと漏らす。
「山賊?」
「湖畔屋敷に来る前に、馬車を襲った者たちです。フィスタの騎士団に捕まった者もいますが、逃げた者もいる。彼らがどうしているのか。ずっと気になって行方を追っていました」
「全然、知らなかった⋯⋯」
ふふ、と王子は微笑んだ。
「⋯⋯今日、彼らの頭を務める者と話すことができました。わずかな時間でしたが」
「もしかして、昼間、屋敷にいなかったのは⋯⋯」
シェンバー王子は頷き、ぼくの瞳を真っ直ぐに見た。
山賊たちは、元はスターディアの下級騎士たちだ。国を追われ、他国に身を潜めた者たちの成れの果て。
「彼らは二度と故国には戻れない。フィスタでこれ以上罪を重ねない代わりに、スターディアから追っ手をかけることを止めさせると約束しました。山に潜まずにすめば、他で生計をたてることもできましょう。甘いとお思いになるでしょうが。⋯⋯殿下には、どうかそれでお許しいただけないでしょうか」
王子の瞳には、真摯な色があった。
「どうして、ぼくに赦しを?」
「思いがけず、殿下を危険な目に遭わせてしまいました。これは私の落ち度です。つらい思いをさせてしまって、ずっと申し訳なく思っています」
山賊たちのことを山間の村の長に聞いた時、王子の瞳は揺れていた。
「もう済んだことだと思っていたし、王子は助けに来てくれた。許すも何もないよ。それに、つらいのは⋯⋯ぼくじゃない」
「殿下?」
「王子はずっと、彼らを救いたかったんでしょう? だから⋯⋯もう、いいんだ」
シェンバー王子は目を瞠り、睫毛を震わせた。そして、そっと目を伏せた。
「⋯⋯感謝します、殿下」
人は、簡単には人を救えない。騎士団の中で、及ばぬ力に何度も歯噛みをしたことだろう。
ぼくたちは、それ以上は何も話さなかった。ただ黙って、銀色に輝く湖面を見つめていた。
数日後。
湖畔屋敷での日々を終え、ぼくたちは城に帰ることになった。
屋敷の人々にも、村の人々にも、十分よくしてもらった。あと一刻ほどで出発する。
「皆さん、お支度は出来ましたか?」
シヴィルの確認する声が聞こえる。
「ねえ、シヴィル。最後に、湖で祈りを捧げてきてもいい?」
「構いませんよ、殿下。少々お待ちください、サフィード殿をお呼びします」
「いや、いいよ。サフィードは馬と馬車の様子を近衛たちと確認しているだろう? セツたちも荷物をまとめているし、ユーディトやシヴィルには最後の挨拶に来る人々がいるし。暇なのは、ぼくぐらいだ」
あ、もう一人いた。庭に出ると、湖を眺めるシェンバー王子に会った。
「おや、殿下。どちらへ?」
「湖に祈りを捧げに行ってきます」
「⋯⋯では、私もご一緒に」
ぼくは、首を振った。
「いいえ、今日は一人で行きたいのです」
戸惑う王子に微笑んで言う。そう言えば、最近は王子の誘いを断ったことはなかったな。
「ここに来て、貴方とたくさん話せて良かった。フィスタでの貴方は、スターディアにいらっしゃる時より、ずっと素敵でしたよ」
王子の頬がうっすらと赤くなった。こんな顔を見るのは初めてだ。
黙り込む王子に手を振って、湖への道を一人で下る。
湖は変わらず美しかった。『女神の刺繍』と呼ばれた景色を、しみじみと眺める。
ユーディトと見た、あの日の朝のように。日輪が差し込み湖面に光の波が立つ。
「シェンバー王子に伝えられて良かったな」
ぼくは、誰に言うともなく呟いた。そして、昨夜言い損ねたことを思い出した。
スターディアとの婚姻を承諾した理由は、国の為になるからだけじゃなかった。
「節操無しの王子なら、結婚してもいいかなって思ったんだよ。だって、すぐに、次の人を見つけるでしょう」
跪いて湖を見れば、波が大きくうねっている。
「⋯⋯刻限ですね、女神」
女神への詠唱を始める。
湖面に立った光の波は渦を巻き、竜巻のように大きく水の柱を作る。大きく飛沫が舞い上がり、水柱は次の瞬間、人の形をとった。足元までの長く輝く髪に、湖に広がる白銀の衣。
女神の差し出した腕は光の水となって、ぼくに真っ直ぐに向かってくる。
立ち上がったぼくの全身が、まばゆく光る水に包まれた瞬間。
「殿下っっ!!」
最後に、ぼくを呼ぶ声が聞こえた。
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