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Ⅳ.道行き
第1話 贄① 【シェンバー王子視点】
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「殿下。お支度は出来ましたか?」
「あと少し」
「荷物は全て積みこみました。子どもたちがお待ちかねですよ」
「わかった。どんな顔が見られるか、楽しみだな」
馬車に一刻ほど揺られれば、町外れに二階建ての建物が見えてくる。
「あ、でんか!」
「いらっしゃい!」
「セツだー! きょうは、レイもきたの?」
わらわらと、子どもたちが集まってくる。
その中に、よろけながらこちらに向かってくる姿が見えた。
「シア、転ぶから走らなくていい。ゆっくり歩くんだ」
こちらの言葉が聞こえていないのか、必死で駆けてくる。
小さな体を抱き上げると、少し重くなった子どもは言った。
「おうじちゃま、いるまちゃまは?」
「まだ⋯⋯旅に出ている。今日も私たちだけだ」
幼い子は、首をかしげて指をしゃぶる。不安な時の癖は変わらない。
子どもたちは、院長のゴートやまとめ役のマウロたちに言われているのか、イルマ王子のことを口にしなくなった。
変わらずに、いつも聞いてくるのはシアだけだ。
「いるまちゃま、いつかえってくるの?」
「⋯⋯いつだろうな」
「ちあ、いるまちゃまとあそびたい」
「代わりに私と遊ぼう。シア、何がしたい?」
しゃがみこんで、幼い子と目を合わせる。以前、彼がそうしていたから。
「シェンバー殿下」
院長のゴートが、シアに本を読んでいる自分のところにやってきた。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます。あちらでお茶を」
青年は、穏やかに微笑みながら挨拶を交わす。
年嵩の子どもたちは、セツとレイと共に食堂で菓子を並べている。包みが開かれるたびに、子どもたちから歓声が上がった。
「みんな、皿は持ったか? 小さい子から順番に並ぶんだ。一つずつ取るんだぞ」
マウロの声に、子どもたちは行儀よく一列に並ぶ。
まとめ役のマウロは大きく成長し、ゴートの助けとなっている。彼に寄り添うエレも、細やかな気遣いで子どもたちを支えていた。
初めて会った時には膝で菓子を食べていたシアは、自分より幼い子の手を引いて列に並ぶ。
「もう膝で食べなくていいのか?」
そう問えば、丸い頬が膨らんだ。
「おうじちゃま、ちあ、いつまでも、ちいたくないのよ」
発音も覚束ない子どもの言葉に、噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
「もうじき、一年経つのですね」
青年の顔にやるせなさが漂う。
ゴートには、イルマ王子の行方がしれないとだけ内密に告げた。
「お二人が揃っておいでになってからというもの、貴族の方々からたくさんのご寄付をいただいております。子どもたちがいずれここを巣立つ時にと、幾何かの備えもできるようになりました。今日もたくさんのお菓子をご持参いただき、なんと御礼を申し上げたらいいのか」
「イルマ殿下がいたら同じことをするだろう。初めて来たのは、この菓子を持ってきた時だったからな」
フィスタには、年に一度、親が子どもの成長を祝って甘い菓子を作る日があるのだと言った。
親が我が子の為に菓子を焼くような、優しい思い出は作ってやれない。せめて一時の慰めになればいいと。
そう言って笑うイルマ王子の言葉を、幾度となく思い出す。
週に一度、ゴートの孤児院に通いながら厨房の料理人たちに頼んだ。子どもたちの為に菓子を焼いてくれないか。イルマ王子の代わりに届けたいのだと。
料理人たちは、すぐに引き受けてくれた。
「殿下、本日はありがとうございました」
「ぼくたち、もっと大きくなったら、皆の為に菓子を作りたいと思います。こんなに美味しい物は無理かもしれないけれど」
マウロとエレが王子の隣にやってきて、頭を下げた。
いつもは後ろに控えているエレが、はにかみながら言った。将来は料理人になりたいと。
テーブルではシアが、手を引いていた子に菓子を食べさせてやっていた。
イルマ殿下、貴方に目の前の子どもたちの笑顔を、成長を見せてやりたい。
急に、そんな思いが込み上げた。
◆◇
あの日の朝。
誰もが忙しなく過ごしていた。
半月暮らした湖畔屋敷での日々に思いを寄せながら、王宮での明日を憂いながら。
荷物を運び、旅程を確かめ、馬や馬車の点検に腐心していた。
だから、変化を目にした者はわずかだった。
イルマ王子が湖へ下っていくのを見た。
小さな、華奢な背中。幼さの残る顔立ちは取り立てて目立つところもないけれど、瞳には理知の光がある。きっぱりとこちらを否定する癖に、無下にも出来ないお人好し。
湖に共に行くのを断られたことにがっかりしている自分を、はっきりと自覚していた。
「仕方ない。⋯⋯追いかけるとしよう」
小さく笑って、ゆっくりと歩き出す。
「⋯⋯何だ?」
眼下に見える湖は、穏やかだった。
色づいた周囲の木々が錦を織り、深い青の湖が満々と水を湛えている。
日輪が最初の光を投げかけ、湖面の色が鮮やかに変わる。
最初は、湖面に映る光が輝いているのだと思った。
湖の中心に少しずつ波が立ち、他とは違うきらめきを見せる。まるで大きな魚が動いているように、水がうねうねと動いている。
湖面に立った波は、見る間に小さな渦を作る。渦の中心から、水が吸い上がるように空中に昇っていく。まるで竜巻のような水の柱だった。
ひときわ大きく飛沫が舞い上がり、水柱は次の瞬間、おぼろげに形を成した。
「あれは⋯⋯」
背後から、湖への小道を猛然と走ってくる者の気配がする。
脇を過ぎる黒髪の男のすぐ後を、急いで追った。
鼓動が早鐘を打つ。
水の柱は見る間に、人の姿を取っていく。
女、だった。
輝く光の線は流れる髪となり、湖にたなびく白銀の衣となる。
光の水が二本の腕となって差し出された。
その先に誰がいるのか。
言われなくても、自分たちにはわかっていた。
湖の空気が変わる、色が変わる。
陽光さえも、燦然と煌めく白銀に変わる。
歓喜。
待ちかねていた。そう、全てが囁く。
水が、光が。
──女神が。
「殿下っっ!!」
細い体が、光る水に包みこまれた瞬間。
叫んだ言葉が、果たしてどちらのものだったのか。
水は光の粒となって砕け散り、湖面に降り注ぐ。
光が細かな波になり、青の湖面は一面の銀に埋まった。
人ひとりをのみこんで、女神の湖は沈黙する。
白銀に染まる湖を見ながら、二人で呆然と立ち尽くしていた。
「あと少し」
「荷物は全て積みこみました。子どもたちがお待ちかねですよ」
「わかった。どんな顔が見られるか、楽しみだな」
馬車に一刻ほど揺られれば、町外れに二階建ての建物が見えてくる。
「あ、でんか!」
「いらっしゃい!」
「セツだー! きょうは、レイもきたの?」
わらわらと、子どもたちが集まってくる。
その中に、よろけながらこちらに向かってくる姿が見えた。
「シア、転ぶから走らなくていい。ゆっくり歩くんだ」
こちらの言葉が聞こえていないのか、必死で駆けてくる。
小さな体を抱き上げると、少し重くなった子どもは言った。
「おうじちゃま、いるまちゃまは?」
「まだ⋯⋯旅に出ている。今日も私たちだけだ」
幼い子は、首をかしげて指をしゃぶる。不安な時の癖は変わらない。
子どもたちは、院長のゴートやまとめ役のマウロたちに言われているのか、イルマ王子のことを口にしなくなった。
変わらずに、いつも聞いてくるのはシアだけだ。
「いるまちゃま、いつかえってくるの?」
「⋯⋯いつだろうな」
「ちあ、いるまちゃまとあそびたい」
「代わりに私と遊ぼう。シア、何がしたい?」
しゃがみこんで、幼い子と目を合わせる。以前、彼がそうしていたから。
「シェンバー殿下」
院長のゴートが、シアに本を読んでいる自分のところにやってきた。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます。あちらでお茶を」
青年は、穏やかに微笑みながら挨拶を交わす。
年嵩の子どもたちは、セツとレイと共に食堂で菓子を並べている。包みが開かれるたびに、子どもたちから歓声が上がった。
「みんな、皿は持ったか? 小さい子から順番に並ぶんだ。一つずつ取るんだぞ」
マウロの声に、子どもたちは行儀よく一列に並ぶ。
まとめ役のマウロは大きく成長し、ゴートの助けとなっている。彼に寄り添うエレも、細やかな気遣いで子どもたちを支えていた。
初めて会った時には膝で菓子を食べていたシアは、自分より幼い子の手を引いて列に並ぶ。
「もう膝で食べなくていいのか?」
そう問えば、丸い頬が膨らんだ。
「おうじちゃま、ちあ、いつまでも、ちいたくないのよ」
発音も覚束ない子どもの言葉に、噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
「もうじき、一年経つのですね」
青年の顔にやるせなさが漂う。
ゴートには、イルマ王子の行方がしれないとだけ内密に告げた。
「お二人が揃っておいでになってからというもの、貴族の方々からたくさんのご寄付をいただいております。子どもたちがいずれここを巣立つ時にと、幾何かの備えもできるようになりました。今日もたくさんのお菓子をご持参いただき、なんと御礼を申し上げたらいいのか」
「イルマ殿下がいたら同じことをするだろう。初めて来たのは、この菓子を持ってきた時だったからな」
フィスタには、年に一度、親が子どもの成長を祝って甘い菓子を作る日があるのだと言った。
親が我が子の為に菓子を焼くような、優しい思い出は作ってやれない。せめて一時の慰めになればいいと。
そう言って笑うイルマ王子の言葉を、幾度となく思い出す。
週に一度、ゴートの孤児院に通いながら厨房の料理人たちに頼んだ。子どもたちの為に菓子を焼いてくれないか。イルマ王子の代わりに届けたいのだと。
料理人たちは、すぐに引き受けてくれた。
「殿下、本日はありがとうございました」
「ぼくたち、もっと大きくなったら、皆の為に菓子を作りたいと思います。こんなに美味しい物は無理かもしれないけれど」
マウロとエレが王子の隣にやってきて、頭を下げた。
いつもは後ろに控えているエレが、はにかみながら言った。将来は料理人になりたいと。
テーブルではシアが、手を引いていた子に菓子を食べさせてやっていた。
イルマ殿下、貴方に目の前の子どもたちの笑顔を、成長を見せてやりたい。
急に、そんな思いが込み上げた。
◆◇
あの日の朝。
誰もが忙しなく過ごしていた。
半月暮らした湖畔屋敷での日々に思いを寄せながら、王宮での明日を憂いながら。
荷物を運び、旅程を確かめ、馬や馬車の点検に腐心していた。
だから、変化を目にした者はわずかだった。
イルマ王子が湖へ下っていくのを見た。
小さな、華奢な背中。幼さの残る顔立ちは取り立てて目立つところもないけれど、瞳には理知の光がある。きっぱりとこちらを否定する癖に、無下にも出来ないお人好し。
湖に共に行くのを断られたことにがっかりしている自分を、はっきりと自覚していた。
「仕方ない。⋯⋯追いかけるとしよう」
小さく笑って、ゆっくりと歩き出す。
「⋯⋯何だ?」
眼下に見える湖は、穏やかだった。
色づいた周囲の木々が錦を織り、深い青の湖が満々と水を湛えている。
日輪が最初の光を投げかけ、湖面の色が鮮やかに変わる。
最初は、湖面に映る光が輝いているのだと思った。
湖の中心に少しずつ波が立ち、他とは違うきらめきを見せる。まるで大きな魚が動いているように、水がうねうねと動いている。
湖面に立った波は、見る間に小さな渦を作る。渦の中心から、水が吸い上がるように空中に昇っていく。まるで竜巻のような水の柱だった。
ひときわ大きく飛沫が舞い上がり、水柱は次の瞬間、おぼろげに形を成した。
「あれは⋯⋯」
背後から、湖への小道を猛然と走ってくる者の気配がする。
脇を過ぎる黒髪の男のすぐ後を、急いで追った。
鼓動が早鐘を打つ。
水の柱は見る間に、人の姿を取っていく。
女、だった。
輝く光の線は流れる髪となり、湖にたなびく白銀の衣となる。
光の水が二本の腕となって差し出された。
その先に誰がいるのか。
言われなくても、自分たちにはわかっていた。
湖の空気が変わる、色が変わる。
陽光さえも、燦然と煌めく白銀に変わる。
歓喜。
待ちかねていた。そう、全てが囁く。
水が、光が。
──女神が。
「殿下っっ!!」
細い体が、光る水に包みこまれた瞬間。
叫んだ言葉が、果たしてどちらのものだったのか。
水は光の粒となって砕け散り、湖面に降り注ぐ。
光が細かな波になり、青の湖面は一面の銀に埋まった。
人ひとりをのみこんで、女神の湖は沈黙する。
白銀に染まる湖を見ながら、二人で呆然と立ち尽くしていた。
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