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9 消えたふたり
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そっと扉を開けて教室に入り、すぐさま自分の席に着く。
なるべく誰とも目を合わせず。
挨拶も小声で。
「瑠香ちゃんおはよう!」と大声で挨拶されても、
「おはよ」と蚊の泣くような声で返す。
とにかく気配を消す。
じゃが親友の目はさすがに誤魔化せん。
後ろからツンツンされて振り向くと、顎をしゃくって外に出ようと無言で言ってくる。
誰もいない廊下の隅で大木殿がそっと囁く。
「瑠香ちゃん、っていうか綾姫だよね」
「バ、バレたか」
「すぐ分かったよ。だって化粧が違うから」
見慣れぬ化粧道具のあれこれ、どう使うものやら。
「不覚じゃ。せいぜい似せたつもりであったが」
「で、ずっと綾姫なの?」
「それがそうなのじゃ」
「いつから?」
「昨日家に戻って、それからじゃ」
「瑠香ちゃん、戻って来ないんだ?」
妾は黙って頷いた。思わず目に涙が滲む。
「ねえ、綾姫、いったい瑠香ちゃんに何をしたの?」
何をしたかと? とくに何も……。いや、したといえば、とんでもないことを仕出かしてしまったのか。
「そ、それは……別にこれといって……」
「ほんとに?」
昨日の夕刻から今朝方の夜明けに至るまで、ただひたすらに鷹之丞様と抱きあい、睦みあい、仲睦まじう「愛を確かめあって」おった訳じゃが、詳細については触れぬのがたしなみというものよ。
その時から樫飯殿が一度も現れぬ。声もせず、霊の気配すら。
鷹之丞様に尋ねると田中殿も同様とのお答え。
これでは満願成就はしても、成仏してあの二人に体を返すことが叶わぬ。
ほとほと困り果てた我ら。
樫飯田中の両人に迷惑を掛けるわけにも参らず、とりあえず高校生のなりを整え整えして、学校にまかりこした次第じゃ。
妾の話を聞くうち、大木殿は感極まった様子であった。
「ということは、綾姫は思いを遂げたんだね」
直接に問われると答えづらい。
じゃが、白を切って誤魔化すには、大木殿の眼差しは真剣すぎた。
なるべく小さな仕草でこくりと頷くと、大木殿はその長い腕でそっと我が身を包み込み、耳元で「よかったね綾姫」と囁いた。
大木殿は我が頬に伝う涙を指で拭って微笑み、
「にしても瑠香ちゃん戻ってこないのは困ったなー」
「そうなのじゃ。妾は一体どうすれば」
「とりあえずこの件、なっぴには伝えるから。いいよね?」
異存のあろうはずもなかった。
授業の間、樫飯殿に迷惑を掛けてはならじと、勝手が分からぬながら板書を帳面に書き写し続けた。
時折後ろを見て、鷹之丞さまと目を合わせる。鷹之丞様も首を横に振るばかり。田中殿も戻らぬ様子。
権藤殿と目が合うと、祝福するらしく親指を立てて見せた。妾は気弱に微笑み返すのが精一杯。
そして妾は、清志丸(高橋殿)がじっとこちらを見ていることにも気づいた。
案の定、昼休みに呼び出された。
人気のない弓道場の裏の空き地。
「綾姫殿」と呼びかける清志丸(高橋殿)。何かに勘付いている。
「清志丸、久しいではないか」
「しょせんワシは脇役じゃ。そんなに出番はないわ」
「そがあに卑下せずとも」
「ワシのことはええ。綾姫殿、そなたの思いは無事に遂げられたのじゃな」
「鷹之丞とのことかえ」頬が熱くなる「さような不躾な質問、おなごに向かって失礼であろう」
「満願成就したのじゃな」畳み掛ける清志丸。
妾はそっと目を伏せた。
「それはめでたい。ワシは安心したわい」
妾はハッとした。
「おぬしらが涅槃に入る時もそう遠くはあるまいて」
急速に清志丸の気配が薄くなっていく。
「では、一足先に去ぬるぞ」
「清志丸!」
清志丸の魂が涅槃へと昇っていく。
してみれば清志丸がこの世に残した思いとは、この綾を不憫に思う気持ちであったのか。
文字通り魂が抜けたように突っ立っている高橋殿に声を掛ける。
「高橋殿。高橋くん!」
ペチペチと頬を叩くと、ハッと気がついた。
「あれ、いま清志丸が」
「清志丸はたったいま成仏なされた」
「そうなのか」と高橋殿「綾姫のほうは? まだおるん?」
「それが困ったことになっておっての」
* * *
ワシは荒れ果てた野原を彷徨うておった。
荒野のあちらこちらに甲冑を身に着けた仲間の無残な屍が転がっている。
ああ、なんと酷い。
みんな殺されてしまったのか。
生き延びている者はどこにもいなかった。
死屍累々たる野原の山際に女が倒れている。綾姫、いや樫飯殿じゃ。和装ではなく、末法の世の水夫服とかいう蘭服を纏っておる。
不吉な予感に駆られながら、ワシは樫飯殿に駆け寄り抱き起こす。死んでおる。その死顔は尊いまでに、凄絶なまでに美しい。
狂おしい思いに囚われながら骸を抱いていると、人影が日光を遮った。
「鷹之丞」
声の主は清志丸。見上げると、太刀を構え、怒りの形相でワシを睨んでいる。
「おぬし、いま綾姫殿の骸を汚さんとしていたであろう」
「いや、わしは決してそのような」
清志丸に言い返す間も、わが脳裏ではこのワシが綾姫の骸を抱きしめ抱きしめ口吸いを繰り返しておった。
「往生際が悪いわ。この鬼畜にも劣る卑劣漢め」
「き、清志丸何をする」
「おぬしは、おのれの卑劣な欲望をワシに投影し、ワシを貶め、五百年の間おのれを偽って来たのじゃ」
そ、そんな馬鹿なことがあろうか。わしはただひたすらに姫を辱めた輩に……ワシこそが筋金入りの変態野郎だったというのか。
「じゃが、それももうおしまいじゃ。覚悟せよ鷹之丞」
清志丸が高々と振り上げた太刀をわしの首めがけて振り落とす。
「ぎゃああああああ!」
叫びながら目覚めたわしは思わず首を触って確かめた。首はまだつながっておった。危ういところであった。
佐々木殿が板書の手を止めて振り返り、
「大丈夫ですか田中くん。夢でうなされて大声で叫んで起きるとは。オレの授業中に!」
佐々木殿の嫌味など屁でもないが、あの夢はかなりの打撃であった。
しかも今の大声で学級中の注目を集めてしまった。不覚。なるべく目立たぬよう過ごすつもりが。
それでもなんとか田中殿になりすましたままで放課後を迎えた。
ワシと綾姫は連れ立って廊下のどんづまりに身を潜め、密談をする。
「さきほど清志丸が」と綾姫。
「ワ、ワシを殺しに来ると言うておったのじゃな」背を冷や汗が伝う。
「へ? 何を申しますやら。清志丸殿は無事成仏なされたのじゃ」
「じょ、成仏。……消えたのか」思わず気が抜けてへなへなとなるワシ。
「我らも、近々成仏できるであろう、と言い残してのう」
「それが真であればよいが。しかし田中殿樫飯殿が戻らぬことには」
「ほんに。どうしたらあの二人を呼び戻せるものやら」
綾姫は人差し指を細い顎に当てて斜め上を見あげ、考え事の仕草。喋り方はちょっと古風なれど、仕草や化粧など、樫飯殿に瓜二つじゃ。長い黒髪がサラリと揺れ、甘い体臭が匂う。くらくらとするようなこの香りは、いったい何の香をたいておるのか。これぞ香の中の香ぞ。
ワシはむらむらと欲望が蘇るのを覚えながら、夜通しの綾姫との交歓の様を脳裏に浮かべておった。
ワシの想念は艶めいたほうへほうへと流れてゆき、他のことは考えられなくなり、人目さえなければ今すぐにでも目の前の艷やかな唇に吸い付きたいところを、危うく思いとどまっておる始末。
「そういえば昨夜、我らが夜通し励んでおる最中に、」
「唐突にそのような艶めいたお話は」綾姫が頬を赤らめる。怒ったように赤い頬を膨らませるのがかえって可憐じゃ。
「そなたが天空の高みまで昇りつめんとしておる時、脳裏の暗がりに田中殿の意識が潜んでいる気配を感じたのじゃが」
それを聞いた綾姫も何か思い出した様子。
「そういわれてみれば妾も」そわそわと人目を気にしながら「もう無理じゃというその時、頭の隅に樫飯殿の気配があったようにも……」
やはり樫飯殿も同様であったのか。
それにしても恥ずかしさのせいか、いかにも挙動不審な様子の綾姫。なにか隠し事でもあるのであろうか。
「でも、あの時はとにかく我を忘れておりましたゆえ、樫飯殿に戻ってくるよう声を掛けることなど、思いつきもしませなんだ」
「ワシもじゃ。いいところで田中殿のことなど構ってはいられぬ」
綾姫は潤んだ瞳でワシを見つめながら、
「まことにそうでございました」
昨夜の激しい営みを思い出し、心が高ぶってきたのであろう。
田中殿の若い肉体は四六時中激しい情欲に溢れ、その高ぶりに苛まれておる。男女の違いはあれど、樫飯殿の妖艶なる肉体のうちに燃える炎もまた同じであろう。われらはまっこと好都合な男女に憑依したものじゃ。摩訶不思議なる運命の導き。
綾姫の瞳を見つめながら顔を近づける「綾……」
「鷹之丞……」吐息混じりの濡れた声。濡れているのは声ばかりではなかろう。白い肌を薄桃色に染め、もじもじもじもじと身をくねらせる綾姫。
もはや一刻の辛抱もならず、人目もはばからずに口吸いをしようとしたその時。
「おーい、瑠香ちゃーん、田中くーん」
権藤殿の場違いに明るい声が廊下に響き、われらの高ぶりは哀れ宙吊りになってしもうた。
大木殿、権藤殿、高橋殿が寄ってきた。
「聞いだぞ鷹之丞」と言いながら権藤殿はバシバシとワシの肩を叩いた。
そして小声で「うまいことやりやがって、羨ましいぞ、このこのー」とワシの脇腹を指で突付いた。
「いやはや、盛大な祝福、痛み入るばかり」
権藤殿は綾姫の背中もパンと叩き「さすが綾姫、積極派ぁ」と冷やかした。
「そのようなことは……その……」
綾姫はあまりにあけすけな論評に困惑している様子。
大木殿は何故か泣きそうな表情で、
「あたしの瑠香ちゃん、鷹之丞に取られた」
と呟いた。あたしのとは一体どういう……
「いやいや、某決して樫飯殿を奪った訳では」
「分かってる、けど割り切れない。だって体は瑠香ちゃんでしょ」
憑依し、体を間借りしている霊の身としては、反論のしようがない。そこを突かれると弱い。
それに、ワシが昨日お相手したのは綾姫に相違ないはずじゃが、ふと樫飯殿を抱いているかのような思いに囚われることも正直あったのじゃ。
その時、樫飯殿の意識は実はかなり戻ってきていたのではあるまいか。
それを思うと、相思相愛の綾姫と愛を交わした事とは次元の異なる、あまりに妖艶、あまりに凄絶な、破廉恥極まる興奮が腸の底で煮えくり返ってワシを翻弄する。ワシもまた田中殿のことを笑えぬ筋金入りの変態鬼畜野郎じゃ。
「で、田中と瑠香ちゃん、戻ってこないんだって?」と権藤殿が話を立て直す。
「そうなのじゃ」
「どうするつもり」権藤殿の声に棘がある。
「まさか鷹之丞、その体が気に入って、田中くんが戻るのを邪魔してる訳じゃないよね」
「滅相もない。そのような疑いは心外じゃ。のう、綾姫」
綾姫もこっくりと頷いた「滅相もござりませぬ」
「ワシらは、かたじけなくも若い体を借りて五百年の思いを遂げることが出来たのじゃ。この上は重ね重ね篤く御礼申し上げて、この若き体を御返上つかまつる所存じゃ」
「でも帰ってこない。返そうにも返せない、と」
権藤殿は怒った表情のまま深い溜め息をついた。
「で、どうする? 何か考えがあるの?」
ワシは考え考え言葉を発した。
「確かなことは、田中殿も樫飯殿もまったく消えたわけではないということじゃ」
「気配はあるの?」
「ある。だが暗がりの奥に潜んでおる。どうにかしてそこから連れ戻さねば。だが、田中殿らの気持ちもあることゆえ、すぐにとは参らぬやもしれぬ」
「帰って来たがってないってこと?」
「正直分からぬ。だが、いつまでもこのままとは行くまいて」
「我らとて、樫飯殿らに戻っていただけぬと、成仏もなりませぬ」と綾姫。
「どうしたらいいのかな」と三人三様に困り果てている。
「少々ワシらに時間をいただけぬか」とワシは低姿勢で申し出る。
「時間? まあ、うちらが許すも許さないもないけどね」と権藤。
「家に戻って自室で座禅でも組んでみれば、田中殿の心が見えるかもしれぬ……じゃが、さしあたっては綾姫を家まで送りどけると致す」
そう言ってわしが綾姫の手を取ると、三人はワシらを交互に眺めた。
「送り狼だ」「送り狼だ」「送り狼だ」と三人が口々に。
「ち、違う違う。ちゃんと送り届けるまでのこと」
「じゃあうちらも付いていこう」と大木殿。それは困る。
「そんな野暮をいうもんじゃないよ」と権藤殿。
「じゃあ、ごゆっくり~」と高橋殿。
矢も盾もたまらず二人は樫飯殿の屋敷へと家路を急いだ。
今晩も樫飯殿の家族は家には戻らぬことが分かっておる。
ご家族は「追っかけ」とかいう仕事に従事しておるそうで、いまは遠方の地へと遠征中とのこと。受験生の瑠香殿だけが留守番を命じられているという。遠征とは、合戦でもあるのであろうか。
ともあれ今宵も誰にも邪魔立てされず、夜があけるまで思うさま互いの体を貪り合える。それを思うと胸が荒々しく高ぶるのじゃ。
綾姫とて同じ思いであろう。
綾姫のほうから握ってきた手はじっとりと汗に濡れておった。
なるべく誰とも目を合わせず。
挨拶も小声で。
「瑠香ちゃんおはよう!」と大声で挨拶されても、
「おはよ」と蚊の泣くような声で返す。
とにかく気配を消す。
じゃが親友の目はさすがに誤魔化せん。
後ろからツンツンされて振り向くと、顎をしゃくって外に出ようと無言で言ってくる。
誰もいない廊下の隅で大木殿がそっと囁く。
「瑠香ちゃん、っていうか綾姫だよね」
「バ、バレたか」
「すぐ分かったよ。だって化粧が違うから」
見慣れぬ化粧道具のあれこれ、どう使うものやら。
「不覚じゃ。せいぜい似せたつもりであったが」
「で、ずっと綾姫なの?」
「それがそうなのじゃ」
「いつから?」
「昨日家に戻って、それからじゃ」
「瑠香ちゃん、戻って来ないんだ?」
妾は黙って頷いた。思わず目に涙が滲む。
「ねえ、綾姫、いったい瑠香ちゃんに何をしたの?」
何をしたかと? とくに何も……。いや、したといえば、とんでもないことを仕出かしてしまったのか。
「そ、それは……別にこれといって……」
「ほんとに?」
昨日の夕刻から今朝方の夜明けに至るまで、ただひたすらに鷹之丞様と抱きあい、睦みあい、仲睦まじう「愛を確かめあって」おった訳じゃが、詳細については触れぬのがたしなみというものよ。
その時から樫飯殿が一度も現れぬ。声もせず、霊の気配すら。
鷹之丞様に尋ねると田中殿も同様とのお答え。
これでは満願成就はしても、成仏してあの二人に体を返すことが叶わぬ。
ほとほと困り果てた我ら。
樫飯田中の両人に迷惑を掛けるわけにも参らず、とりあえず高校生のなりを整え整えして、学校にまかりこした次第じゃ。
妾の話を聞くうち、大木殿は感極まった様子であった。
「ということは、綾姫は思いを遂げたんだね」
直接に問われると答えづらい。
じゃが、白を切って誤魔化すには、大木殿の眼差しは真剣すぎた。
なるべく小さな仕草でこくりと頷くと、大木殿はその長い腕でそっと我が身を包み込み、耳元で「よかったね綾姫」と囁いた。
大木殿は我が頬に伝う涙を指で拭って微笑み、
「にしても瑠香ちゃん戻ってこないのは困ったなー」
「そうなのじゃ。妾は一体どうすれば」
「とりあえずこの件、なっぴには伝えるから。いいよね?」
異存のあろうはずもなかった。
授業の間、樫飯殿に迷惑を掛けてはならじと、勝手が分からぬながら板書を帳面に書き写し続けた。
時折後ろを見て、鷹之丞さまと目を合わせる。鷹之丞様も首を横に振るばかり。田中殿も戻らぬ様子。
権藤殿と目が合うと、祝福するらしく親指を立てて見せた。妾は気弱に微笑み返すのが精一杯。
そして妾は、清志丸(高橋殿)がじっとこちらを見ていることにも気づいた。
案の定、昼休みに呼び出された。
人気のない弓道場の裏の空き地。
「綾姫殿」と呼びかける清志丸(高橋殿)。何かに勘付いている。
「清志丸、久しいではないか」
「しょせんワシは脇役じゃ。そんなに出番はないわ」
「そがあに卑下せずとも」
「ワシのことはええ。綾姫殿、そなたの思いは無事に遂げられたのじゃな」
「鷹之丞とのことかえ」頬が熱くなる「さような不躾な質問、おなごに向かって失礼であろう」
「満願成就したのじゃな」畳み掛ける清志丸。
妾はそっと目を伏せた。
「それはめでたい。ワシは安心したわい」
妾はハッとした。
「おぬしらが涅槃に入る時もそう遠くはあるまいて」
急速に清志丸の気配が薄くなっていく。
「では、一足先に去ぬるぞ」
「清志丸!」
清志丸の魂が涅槃へと昇っていく。
してみれば清志丸がこの世に残した思いとは、この綾を不憫に思う気持ちであったのか。
文字通り魂が抜けたように突っ立っている高橋殿に声を掛ける。
「高橋殿。高橋くん!」
ペチペチと頬を叩くと、ハッと気がついた。
「あれ、いま清志丸が」
「清志丸はたったいま成仏なされた」
「そうなのか」と高橋殿「綾姫のほうは? まだおるん?」
「それが困ったことになっておっての」
* * *
ワシは荒れ果てた野原を彷徨うておった。
荒野のあちらこちらに甲冑を身に着けた仲間の無残な屍が転がっている。
ああ、なんと酷い。
みんな殺されてしまったのか。
生き延びている者はどこにもいなかった。
死屍累々たる野原の山際に女が倒れている。綾姫、いや樫飯殿じゃ。和装ではなく、末法の世の水夫服とかいう蘭服を纏っておる。
不吉な予感に駆られながら、ワシは樫飯殿に駆け寄り抱き起こす。死んでおる。その死顔は尊いまでに、凄絶なまでに美しい。
狂おしい思いに囚われながら骸を抱いていると、人影が日光を遮った。
「鷹之丞」
声の主は清志丸。見上げると、太刀を構え、怒りの形相でワシを睨んでいる。
「おぬし、いま綾姫殿の骸を汚さんとしていたであろう」
「いや、わしは決してそのような」
清志丸に言い返す間も、わが脳裏ではこのワシが綾姫の骸を抱きしめ抱きしめ口吸いを繰り返しておった。
「往生際が悪いわ。この鬼畜にも劣る卑劣漢め」
「き、清志丸何をする」
「おぬしは、おのれの卑劣な欲望をワシに投影し、ワシを貶め、五百年の間おのれを偽って来たのじゃ」
そ、そんな馬鹿なことがあろうか。わしはただひたすらに姫を辱めた輩に……ワシこそが筋金入りの変態野郎だったというのか。
「じゃが、それももうおしまいじゃ。覚悟せよ鷹之丞」
清志丸が高々と振り上げた太刀をわしの首めがけて振り落とす。
「ぎゃああああああ!」
叫びながら目覚めたわしは思わず首を触って確かめた。首はまだつながっておった。危ういところであった。
佐々木殿が板書の手を止めて振り返り、
「大丈夫ですか田中くん。夢でうなされて大声で叫んで起きるとは。オレの授業中に!」
佐々木殿の嫌味など屁でもないが、あの夢はかなりの打撃であった。
しかも今の大声で学級中の注目を集めてしまった。不覚。なるべく目立たぬよう過ごすつもりが。
それでもなんとか田中殿になりすましたままで放課後を迎えた。
ワシと綾姫は連れ立って廊下のどんづまりに身を潜め、密談をする。
「さきほど清志丸が」と綾姫。
「ワ、ワシを殺しに来ると言うておったのじゃな」背を冷や汗が伝う。
「へ? 何を申しますやら。清志丸殿は無事成仏なされたのじゃ」
「じょ、成仏。……消えたのか」思わず気が抜けてへなへなとなるワシ。
「我らも、近々成仏できるであろう、と言い残してのう」
「それが真であればよいが。しかし田中殿樫飯殿が戻らぬことには」
「ほんに。どうしたらあの二人を呼び戻せるものやら」
綾姫は人差し指を細い顎に当てて斜め上を見あげ、考え事の仕草。喋り方はちょっと古風なれど、仕草や化粧など、樫飯殿に瓜二つじゃ。長い黒髪がサラリと揺れ、甘い体臭が匂う。くらくらとするようなこの香りは、いったい何の香をたいておるのか。これぞ香の中の香ぞ。
ワシはむらむらと欲望が蘇るのを覚えながら、夜通しの綾姫との交歓の様を脳裏に浮かべておった。
ワシの想念は艶めいたほうへほうへと流れてゆき、他のことは考えられなくなり、人目さえなければ今すぐにでも目の前の艷やかな唇に吸い付きたいところを、危うく思いとどまっておる始末。
「そういえば昨夜、我らが夜通し励んでおる最中に、」
「唐突にそのような艶めいたお話は」綾姫が頬を赤らめる。怒ったように赤い頬を膨らませるのがかえって可憐じゃ。
「そなたが天空の高みまで昇りつめんとしておる時、脳裏の暗がりに田中殿の意識が潜んでいる気配を感じたのじゃが」
それを聞いた綾姫も何か思い出した様子。
「そういわれてみれば妾も」そわそわと人目を気にしながら「もう無理じゃというその時、頭の隅に樫飯殿の気配があったようにも……」
やはり樫飯殿も同様であったのか。
それにしても恥ずかしさのせいか、いかにも挙動不審な様子の綾姫。なにか隠し事でもあるのであろうか。
「でも、あの時はとにかく我を忘れておりましたゆえ、樫飯殿に戻ってくるよう声を掛けることなど、思いつきもしませなんだ」
「ワシもじゃ。いいところで田中殿のことなど構ってはいられぬ」
綾姫は潤んだ瞳でワシを見つめながら、
「まことにそうでございました」
昨夜の激しい営みを思い出し、心が高ぶってきたのであろう。
田中殿の若い肉体は四六時中激しい情欲に溢れ、その高ぶりに苛まれておる。男女の違いはあれど、樫飯殿の妖艶なる肉体のうちに燃える炎もまた同じであろう。われらはまっこと好都合な男女に憑依したものじゃ。摩訶不思議なる運命の導き。
綾姫の瞳を見つめながら顔を近づける「綾……」
「鷹之丞……」吐息混じりの濡れた声。濡れているのは声ばかりではなかろう。白い肌を薄桃色に染め、もじもじもじもじと身をくねらせる綾姫。
もはや一刻の辛抱もならず、人目もはばからずに口吸いをしようとしたその時。
「おーい、瑠香ちゃーん、田中くーん」
権藤殿の場違いに明るい声が廊下に響き、われらの高ぶりは哀れ宙吊りになってしもうた。
大木殿、権藤殿、高橋殿が寄ってきた。
「聞いだぞ鷹之丞」と言いながら権藤殿はバシバシとワシの肩を叩いた。
そして小声で「うまいことやりやがって、羨ましいぞ、このこのー」とワシの脇腹を指で突付いた。
「いやはや、盛大な祝福、痛み入るばかり」
権藤殿は綾姫の背中もパンと叩き「さすが綾姫、積極派ぁ」と冷やかした。
「そのようなことは……その……」
綾姫はあまりにあけすけな論評に困惑している様子。
大木殿は何故か泣きそうな表情で、
「あたしの瑠香ちゃん、鷹之丞に取られた」
と呟いた。あたしのとは一体どういう……
「いやいや、某決して樫飯殿を奪った訳では」
「分かってる、けど割り切れない。だって体は瑠香ちゃんでしょ」
憑依し、体を間借りしている霊の身としては、反論のしようがない。そこを突かれると弱い。
それに、ワシが昨日お相手したのは綾姫に相違ないはずじゃが、ふと樫飯殿を抱いているかのような思いに囚われることも正直あったのじゃ。
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それを思うと、相思相愛の綾姫と愛を交わした事とは次元の異なる、あまりに妖艶、あまりに凄絶な、破廉恥極まる興奮が腸の底で煮えくり返ってワシを翻弄する。ワシもまた田中殿のことを笑えぬ筋金入りの変態鬼畜野郎じゃ。
「で、田中と瑠香ちゃん、戻ってこないんだって?」と権藤殿が話を立て直す。
「そうなのじゃ」
「どうするつもり」権藤殿の声に棘がある。
「まさか鷹之丞、その体が気に入って、田中くんが戻るのを邪魔してる訳じゃないよね」
「滅相もない。そのような疑いは心外じゃ。のう、綾姫」
綾姫もこっくりと頷いた「滅相もござりませぬ」
「ワシらは、かたじけなくも若い体を借りて五百年の思いを遂げることが出来たのじゃ。この上は重ね重ね篤く御礼申し上げて、この若き体を御返上つかまつる所存じゃ」
「でも帰ってこない。返そうにも返せない、と」
権藤殿は怒った表情のまま深い溜め息をついた。
「で、どうする? 何か考えがあるの?」
ワシは考え考え言葉を発した。
「確かなことは、田中殿も樫飯殿もまったく消えたわけではないということじゃ」
「気配はあるの?」
「ある。だが暗がりの奥に潜んでおる。どうにかしてそこから連れ戻さねば。だが、田中殿らの気持ちもあることゆえ、すぐにとは参らぬやもしれぬ」
「帰って来たがってないってこと?」
「正直分からぬ。だが、いつまでもこのままとは行くまいて」
「我らとて、樫飯殿らに戻っていただけぬと、成仏もなりませぬ」と綾姫。
「どうしたらいいのかな」と三人三様に困り果てている。
「少々ワシらに時間をいただけぬか」とワシは低姿勢で申し出る。
「時間? まあ、うちらが許すも許さないもないけどね」と権藤。
「家に戻って自室で座禅でも組んでみれば、田中殿の心が見えるかもしれぬ……じゃが、さしあたっては綾姫を家まで送りどけると致す」
そう言ってわしが綾姫の手を取ると、三人はワシらを交互に眺めた。
「送り狼だ」「送り狼だ」「送り狼だ」と三人が口々に。
「ち、違う違う。ちゃんと送り届けるまでのこと」
「じゃあうちらも付いていこう」と大木殿。それは困る。
「そんな野暮をいうもんじゃないよ」と権藤殿。
「じゃあ、ごゆっくり~」と高橋殿。
矢も盾もたまらず二人は樫飯殿の屋敷へと家路を急いだ。
今晩も樫飯殿の家族は家には戻らぬことが分かっておる。
ご家族は「追っかけ」とかいう仕事に従事しておるそうで、いまは遠方の地へと遠征中とのこと。受験生の瑠香殿だけが留守番を命じられているという。遠征とは、合戦でもあるのであろうか。
ともあれ今宵も誰にも邪魔立てされず、夜があけるまで思うさま互いの体を貪り合える。それを思うと胸が荒々しく高ぶるのじゃ。
綾姫とて同じ思いであろう。
綾姫のほうから握ってきた手はじっとりと汗に濡れておった。
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