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第1話 我王の社に捧げるモノ
我王の社に捧げるモノ 前編
しおりを挟むそれは──よくある青春の1ページになるはずだった。
だが蓋を開けてみれば、俺たちは世間から『行方知れず』と扱われることとなり、運良く人間の姿形を保っている俺の口から一連の出来事を語ろうものなら、物知りな人間は『怪談の定番』と一笑に付すだろう。
真夜中、暇を持て余したバカな若者が集まる。
金の掛からない遊び、ということで心霊スポットへ肝試しに行く。
案の定、怪奇現象に遭遇して酷い目に遭う。
俺はそういう方面に疎いので知らないが、本当にあった恐い話や実話っぽい怪談ではお約束の展開らしい。ただ、オチはいくつかあるそうだ。
どれもこれも「酷い」の一言に尽きる。
精神的におかしくなる、くらいはまだマシな方。
祟りのせいで死ぬ。死に方は様々で自殺する者もいれば事故死する者もいるし、急に難病になったり心臓発作で即死するケースもあるそうだ。難病の場合はすぐに死ねない分、長く苦しむことになるだろう。
死ななかったとしても怨霊に取り憑かれて気の休まらない日々を送ることになる者もいれば、死ぬまで不便を背負わされた者もいるという。
そして、俺たちのように『行方知れず』になる者も多い。
友人たちの目の前で異世界へ引き込まれるように消えた者もいれば、フラッと姿を消して行方不明になった者もいる。最悪なのは関係者全員から「そういう人物がいた」という記憶さえ消えて、存在ごと抹消された者もいるらしい。
早い話、本物にぶち当たったら「酷い」目に遭うのだ。
そう、俺たちのように…………。
心霊スポットと噂されるような場所は、大概において忘れられた廃墟に過ぎないが、本当にヤバいものが放置されていることも間々ある。
俺たちは、そういうところに迷い込んだらしい。
● ● ● ● ● ●
「なぁモミジぃ、金貸してくれよぉ」
金子泰三はだらしない声で金を無心してきた。
名前に“金”を持つくせして金運に恵まれない男だ。
いや、本人はバイトをしており親からの仕送りも結構あるはずなのだが、それらのお金をほとんどギャンブルに突っ込んでいた。食費や生活費は元より、水道光熱費や家賃まで削ってパチスロに注ぎ込んでいるという。
顔を合わせれば「勝った!」「負けた……」しか言わない。
ちなみに比率は2:8。この男に賭博の才能はない。
ソシャゲへの重課金は知り合いに多いので「おまえもか」と流せるのだが、ギャンブルに有り金を惜しみなくぶっ込むバカはこいつくらいのものだ。
「なぁモミジぃ、金貸してくれよぉ……これでいいからよぉ」
金子は人差し指を立てた。一万円ということだ。
ソファに預けた身体は病的といっていいほど痩せている。顔色も悪ければ肌の色艶も年寄りのようにカサカサ。食費がギリギリのせいに違いない。
中途半端な金髪のプリン色ヘアーに、ズタボロの革ジャン。
冴えないロッカーみたいな風体をした金子は両腕を広げてソファにもたれかかっており、天井に向けた顔はあんぐり口を開けており、今にもそこから魂が抜けていきそうなほど生気を感じられなかった。
「なぁ、モミジぃ……金……」
「うるさいな。モミジじゃない、コウヨウだって言ってんだろ」
高校時代からの付き合いだが、このやり取りも何百回目になる。
御崎紅葉は自分の名前を正しく言い張った。
祖父が昔の小説家から引用した紅葉という名前だが、紅葉とも読めるために子供の頃から少なからずからかわれてきた。その度に言い返したり喧嘩してきたので、我ながら芯の強い性格になれた気がする。
反面──モミジというあだ名は定着してしまった。
金子が自堕落にソファを占有しているので、紅葉は毛足の長い厚手の絨毯の上に座っていた。愛用のスケッチブックに筆が乗るまま絵を描いている。
紅葉はイラストレーター志望。
大学在学中の今もトレーディングカードのイラスト仕事を数点請け負ったり、それなりに名は通ってきたという自負がある。
なかなか自分の好きなイラストは描けず、オタク受け狙いの萌えを重点に置いた美少女や、子供向けのド派手でカッコいい召喚獣ばかり描かされている。そのことに思うところはあるが、好きな画業で稼げるのだから文句は言うまい。
少なくとも──ギャンブル狂よりはマシだ。
冷やかしで「イケメン」という者もいれば、「眼くれてんじゃねえ」と睨んでくる者もいる。人によって評価が違う表情をスケッチブックから上げると、まだ口を半開きにしている金子に言った。
「1万貸してほしいと頼める身分じゃないだろおまえは……俺への借金は通算6万と5630円だぞ。その借金を清算してから要求しろ」
「だから貸してくれよぉ……明日は絶対大当たりさせるからよぉ……」
「その台詞も聞き飽きたわ。どうせ当てても負けるくせして」
ビートルに頼めよ、と紅葉は顎をしゃくる。
キッチンのテーブルには神経質そうな眼鏡の小柄な青年が姿勢も正しく座っており、ハードカバーの難しそうな本を黙々と読んでいた。
お母さんが買ってきそうなトレーナーに坊ちゃん刈りみたいな頭髪。黒縁の分厚い眼鏡をかけた典型的な“オタク”っぽい容姿なのだが、マナーのお手本のような姿勢の正しさと、物怖じしない態度が一線を画している。
昔は「博士」なんてあだ名で呼ばれていた。
こちらの会話にまったく興味を示さない。
名前を呼ばれても無反応、本から目を逸らそうともしない。
森野毘斗流──友人の1人だ。
この友達グループでは屈指のドキュンネームである。よく間違われる紅葉がまともに思えるが、彼自身が気にしたところを見た記憶がない。
「悪いが今月は余裕がなくてね。無心されてもお足がない」
森野はこちらに目もくれず読書を続ける。
ぺらり、と音をさせてページをめくり懐事情を明かす。
「今月は蔵書に加えたい書籍が多かったのと、新しい奇虫を数点購入してしまったのでね。ランチを奢るのさえ遠慮するよ」
ギャンブルの軍資金なんて以ての外だ、と森野はにべもない。
森野の趣味は御覧通りに、小難しい本を読むことと集めることだ。その他に昆虫の飼育がある。海外産の珍しいカブトムシやクワガタはまだ理解できるが、毒蜘蛛や蠍に百足……海外の珍しいゴキブリまで飼っている。
そういったゲテモノっぽい虫を“奇虫”というそうだ。
昨今マニアの間では流行っているらしい。
金回りは不自由してないらしく、自由になるお金は2つの趣味に惜しみなく注ぎ込んでいる。「本の虫」ならぬ「本と虫」な男である。
「金銭の無心をするなら大蔵君にすべきではないかな?」
「アハハハー♪ ボクも金ちゃんに貸すのはノーセンキューかなー?」
森野に話を振られた大蔵は笑って即答した。
大蔵信司──この部屋の住人だ。
生まれつき明るい茶髪は適度なカールが掛かっており、面長なイタリア風のイケメンな面構えによく似合っている。母方だか父方だかの祖父が欧州系なため、手足も長くて背の高い日本人らしくない色男っぷりだ。
大きくはだけたワイシャツや、タイトすぎるパンツなど、この男でなければ似合わないスタイリッシュなファンションで決めている。
彼もまた、紅葉たちの友人だ。
実家がお金持ちなので、オートロックの高級マンションで独り暮らしができるいいご身分。車も3台持っているが、1台は「親父のお古だから乗り潰していいよ♪」と貸してくれる気前の良さだ。一応、高級車である。
気前良くて金払いも良く、背が高く顔もいい陽キャのイケメン。
大学では男女どちらにもウケのいい人気者なのだが、不思議と紅葉たちと好んで連んでいる。この4人は高校時代からの腐れ縁でもあった。
「酒と飯なら奢ってあげるし、場所ならココを貸してあげるけど、金ちゃんにお金を貸すのは渋っちゃうなー。どうせパチンコに消えちゃうんでしょ?」
「パチンコだけじゃねえよ……スロットもするぞ」
尚更だよダメ人間♪ と大蔵はケタケタ笑ってグラスを煽る。
もう1人でワインを5本は空けている。その前にビールを瓶で数本、合間に焼酎やウイスキーを水で割らずに呑んでいた。
大蔵は大の酒好き──そして酒豪だ。
こうして4人集まると1人でガブガブ飲んでいる。紅葉たちもご相伴に預かるが、彼のペースにはついていけない。タダ酒なので必死に呑んでいた金子は潰れかかっている。さっきからソファーでグロッキーな理由がこれだ。
森野も付き合いでさっきから呑んでいるが、こちらは大蔵が勝手にグラスへ注ぎ足してくるワインを、節度を保ってチビチビ呑んでいる。
森野もお酒には強いので、酔った様子もなく読書に耽っていた。
紅葉は強くも弱くもないが、酒が入ると少なからず指が震えてペン先がぶれるので控えていた。酒を割るための(大蔵自身は滅多に割らないが)炭酸水やジュースで喉を潤すだけに留めていた。
4人が4人、好き勝手なことをしながら取り留めなく雑談する。
特別楽しいわけでもないし、心が躍るほど面白いこともないが、なんとなく安心できる腐れ縁同士。気兼ねなくのんびり過ごしていた。
趣味が違うのに、不思議とウマが合う4人。
好みが噛み合わないからこそ、衝突することもないのだろう。
秋というにはまだ蒸し暑い日が続く今日この頃──。
シルバーウィークで暇を持て余していた四人は、今日も今日とて大蔵の部屋に入り浸って好きなことをしてのんべんだらりと時間を潰す。
夜もまだ宵の口、夜明かしするには先が長いと感じてしまう。
「なぁんか面白いことねぇかなぁ……金の掛からねぇ遊びとかねぇのか?」
金子のぼやきを大蔵は茶化すように拾う。
赤ワインで濡れた唇を舌舐めずりしてペラペラと喋り出す。
「楽しいことは例外なくお金を費やすものだよ。どんな細やかな趣味であれ、必要最低限の投資というものは必要さ。森ちゃんの珍しい昆虫や稀覯本集めは元より、絵を描くのが好きなモミっちゃんにしたって例外じゃない」
大蔵は誰にでもちゃん付けする。
森野が森ちゃん、紅葉がモミジでモミっちゃんだ。
モミジ言うなと訂正する気も起きない。
「どちらも金の掛かる趣味だという自覚はあるよ」
「絵描きもペンと紙だけじゃやっていけない時代だしな」
森野の趣味はどちらかといえば収集癖なので金が掛かる。
書籍も昆虫も高いものばかりだから尚更だ。紅葉の絵描きは描くものにもよるが、本格的な画家を目指せば画材は高いし、商業向けのイラストを描くにも近頃はPC環境が必須。そして、ハードもソフトもそれなりのお値段だ。
「僕の趣味とも言えるお酒だってそうさ」
大蔵は片目を閉じると、グラスのワインを揺らして覗き込む。
「なんでぇ、1番金のかからねぇのは無趣味なオレだけかよ……」
「「「いや、金子の趣味が1番元手かかるだろ」」」
紅葉たちは声を揃えてツッコみ、一拍の間を置いて爆笑した。
あまり表情を変えない森野ですらクスリと微笑む。
「しかしまあ、せっかくの連休最初の夜なんだから、ちょっと羽目はずしてみたい気はするよねぇ……どうする、女の子でも呼んでデリバリーも追加してどんちゃん騒ぎでもするかい?」
「女を呼ぶにしちゃもう遅いだろ。終電も近いぞ」
「送るにしても面倒だ。運転できるのは私と紅葉だけだしな」
金子は無免許、大蔵は素面だがアルコール度数がえらいことになっている。
森野も酔った様子はないが、かなり呑んでいるはずだ。
スマホを取り出しかけた大蔵だが、紅葉たちから反対意見が出ると「あら残念」とため息にもならない吐息をついてポケットに戻した。
すると森野が本に栞を挟んで閉じる。
「金の掛からない遊びなら……肝試しはどうかな?」
肝試しぃ? と金子が素っ頓狂な声を上げて跳ね起きた。
声こそ否定的だが興味はあるのか、抜けかけていた魂が戻ってきた。大蔵も興が乗った「ほうほう♪」と賛同する声で応じた。
そして、紅葉も筆を置いてスケッチブックから顔を上げる。
友人の好感触を得た森野は閉じた本を脇に除けると、愛用するタブレットを取り出して地図を見せてきた。目的地は隣の県らしい。
「ネットで昆虫採集のスポットを探している時に偶然見つけてね。何でも、誰からも忘れられた寂れた神社が山中にあるらしくて、そこを訪ねると悪霊や怨霊どころじゃない、忘れられたことに腹を立てた神様に襲われるそうだよ」
紅葉も立ち上がってテーブルに近付き、タブレットの地図を覗き込む。
そこは山奥のそのまた奥、道が通っているかも疑わしい。
「神様に襲われるのかい? そりゃあ幽霊なんか目じゃないね」
大蔵はノリがいい。興味津々だった。
「冷やかしで訪ねればそうなるらしい。でも、長年忘れられてて寂しいのか、粗末にされたら怒るけれど、ちゃんと拝めばどんな願いも叶えてくれるとか……だから心霊スポットでありながらパワースポットとも噂されている」
忘れられたことで人間に怒りを覚えた神様がいる。
ただし、ちゃんと拝めばどんな願いだろうと叶えてくれる。
オカルト系の掲示板でも話題となって物議を醸す場所だそうだが、肝心の神様を奉った寂れた神社の住所が特定できず、また「場所がわかったから行ってくる」という報告はあっても、帰ってきた報告はないそうだ。
そういう意味では実に怪談らしい。
胡散臭ぇ、と金子は鼻で笑った。
「どんな願いでも叶えてくれるだぁ? そんな御利益があるなら廃れやしねぇよ。拝めば宝くじが当たる神社みたいに大人気じゃねえか」
「そこにもまた怪談っぽい噂話が色々とあってだね。どんな願いも叶えるが、代償として願った者の命を奪う、だから誰も帰ってこない……とかね」
ますます胡散臭ぇ、と金子は小馬鹿にした。
ギャンブルとなれば「黒猫がオレの前を通り過ぎた! 今日はダメだ運勢最悪!」とか縁起を担ぐ割に、こういうところは現実主義な男である。
「ちょっと距離があるけど、行けない距離ではないね」
椅子から立ち上がってテーブル越しに森野のタブレットを覗き込んでいた大蔵は、「すぐに行こうよ」と言わんばかりの口調だった。
「ここの地酒はイケるんだ。調達ついでに足を伸ばすのも悪くない」
「言い出しっぺは私だ。異存はない。君たちはどうする?」
地酒目当ての大蔵、提案者の森野は腰を上げた。
「……まあ、ここで管巻いててもしょうがねえしなぁ」
明日の確変でも願掛けするか、と金子は重そうに腰を持ち上げた。
この時点で多数決なら決まりである。
紅葉も忘れられた神社には興味がある。最近はキャラクターだけではなく背景も描けるよう練習しているので、その参考資料になりそうだ。
酒盛りの中、落書きのためにアルコールを避けていたのは紅葉だけ。
「……運転手がいるよな」
紅葉もため息を漏らすとスケッチブックを閉じた。
● ● ● ● ● ●
車を飛ばして1時間半くらいで現地に到着する。
途中、24時間営業の酒屋で大蔵お目当ての地酒を何本か購入したから、時間的には1時間強といったところか。隣の県とはいえ比較的近場だ。
街灯もない山道を登っていく。
しかし、行き止まりになったので紅葉は車を停めた。
山の中腹くらいまでが限界らしい。車の入れる山道も途切れてしまい、ライトに照らされるのは鬱蒼と草木が生い茂る山の斜面だけ。
「……あれ、石の階段じゃないかな?」
森野が眼鏡をクイクイと持ち上げながら目を細める。それに習って運転手の紅葉もハンドルにもたれかかって前のめりになると目を凝らした。
「たしかに……あれが神社への道か?」
獣道のがマシと思えるくらいだが、草に埋もれた石が山の上へと続いているように見えた。よくよく見れば石段の始まるところには、左右に野太い柱の残骸みたいなものが残されている。
あれは──鳥居の根元ではなかろうか?
「神社へは階段を登ってく的なことも書いてあったね」
森野のタブレットで噂の廃墟神社について調べていた大蔵は、用意していた大型の懐中電灯を手に取ると、いの一番に後部座席から降りていった。
「車を駐めて、ここから先は歩いて行こう」
これこそ肝試しだよ♪ と陽気な酔っ払いは先駆けとなって歩き出す。
「……ここまで来たんだ、意地でも願掛けしてやるぜ」
それにフラフラとした足取りで金子が続く。
まだ酔いは抜けてないのに自分の懐中電灯は忘れない。
大蔵は車のライトに照らし出された山の斜面、草いきれが凄いことになりそうな生い茂る草木をかき分けると、こちらに笑顔で振り返って手を振った。
行けるよ~、という声が聞こえてくる。
こんな夜更けの山奥に泥棒も出るまいと、車はエンジンをかけてライトを付けたまま停めておく。山から下りる時の目印だ。
紅葉も懐中電灯を手に運転席から降り、助手席の森野も続いた。
しかし、車から降りた森野はどこか挙動不審だった。
いつもの落ち着き払った態度はどこへやら、懐中電灯を左右に激しく振って眼鏡の奥の両眼を皿のようにして草むらに首を突っ込んでいる。
「おい、まさか……昆虫でも探してるのか?」
察した紅葉が訪ねると、森野はバツが悪そうな苦笑いで返してきた。
「いや、実は……この辺りは意外と昆虫採集の穴場でね。時折、最大サイズの甲虫が捕れると昆虫系掲示板でも話題に上がっているんだ。だから……」
「時期考えろよ昆虫博士。暑いとはいえもう10月だぞ?」
釈迦に説法かも知れないが、と紅葉は諦めの悪い森野に言った。
「暑い日が続く異常気象な今年だからこそ、季節が変わったのを忘れてのんびりしているカブトムシがいるかも知れないじゃないか」
こちらの物言いに森野は少しムキになって返してきた。
先を進んでいる大蔵や金子を追うように、下草というには長すぎる茫々とした山の斜面……埋もれた石段を森野は登っていく。
途中、木陰に光を投げ掛けてチェックするのを忘れない。
やれやれ、と紅葉も後に続いた。
石段らしきものは残っているが、とても頼りにならない。
山の斜面に合わせているのか、街中にある階段の有難味がわかるくらいの急勾配だ。恐くて梯子みたいに手をついてしまいたくなるが、石の隙間から生えた得体の知れない草と、表面にびっしりと苔生した湿るというより濡れている苔を見ると、手で触れるのは躊躇ってしまう。
電灯の光を当てると、ヌラヌラと軟体生物めいた光沢を発する。
光の加減なのか、蠢いていると錯覚してしまいそうだ。
しかし、普通の階段のように登るのは急すぎて恐い。後で手を洗うなりハンカチで拭くなりしよう。そう腹を決めて手も使って登っていく。
● ● ● ● ● ●
月の出てない闇夜、頼りになるのは4人分の懐中電灯。
エンジンをかけたまま置いてきた車のライトは既に遠くだ。車のエンジン音も秋を迎えて大合唱を始めた虫の声にかき消される。
「あ~うっせぇなぁ……こうもうるせぇと気が滅入るぜ」
2番目を登る金子が秋の風物詩にいちゃもんを付けていた。昆虫を愛する森野は素っ気ない声で虫の音を擁護する。
「それは君に音感がないせいだ。ちゃんと聞き分ければ様々な虫の音色が聞こえてくるぞ。場合によってはショップで取引される高値のものも……」
「マジで? 帰りに集めて売ってこうぜ!」
「……君は本当に風情がないな」
懐中電灯とともに振り向く金子を、3番目に登る森野が睨みつけた。
4番目を登る紅葉は先を行く2人のどうでもいい会話を聞き流す。さっきから無性に熱くて、息詰まる気がしてならないのだ。
目眩も覚えるが、倒れそうになるほどの不調ではない。
だが暑さと息苦しさは重苦しさとなり、紅葉の視界をぼやけさせた。
自分が登っているのは山の斜面じゃない。
とてつもなく大きな獣──その背中を登っている。
生い茂る草は毛足の長い体毛、山の斜面は獣の汗や粘液に塗れた背中だ。獣の毛をかき分け、粘液に濡れた肌を掴み、紅葉たちは獣の背中を登っていく。
これほどの巨大な獣だ。人間など虫けらに等しい。
獣は紅葉たちに気付いており、誘うように背中を登らせていた。
「……なあ、おまえら何か言ったか?」
ふと、先を歩いていた金子が訝しげに尋ねてきた。
この問い掛けで我に返った紅葉は顔を上げる。気付けば、そこは巨大な獣の背中ではなく、忘れられた神社へ続く古びた石段だった。
夜なのに白昼夢か? 暑さと息苦しさで幻覚でも見たのか?
「そういえば……人の声みたいなものが聞こえたね」
森野が認めると、金子も「だろぉ!?」と興奮気味だった。
「さっきから遠くで呪文みたいな……『さいくらのーしゅ』? 『さくらのしゅ』? 『さーくるのしゅう』? そんな風にブツブツ言ってるみたいでよぉ!」
「ふむ、私には『くぐ……さくるくす』とか? もしくは『さくさく……るす』と聞こえたね。これも心霊現象かな?」
「マジかよぉ!? ホンモノかよぉ! 恐ぇえよぉ!」
金子は大騒ぎして懐中電灯の光を暗闇に向けてやたらめったらに振り回す。声の主を探しているようだが見つかる気配はない。
「紅葉、君には何も聞こえなかったのか?」
得体の知れない声という異常現象に直面しても落ち着き払っている森野は、近くにいた紅葉の見解を求めてきた。
「…………いや、俺は特に何も……聞いてないな」
まさか「巨大な獣の背中を登っている幻覚を見た」なんて言えるわけもない。彼らの聞いたものが幻聴なら、紅葉の見たものは幻覚だ。どちらも錯覚だが、紅葉の幻覚が数段ヤバいように思えた。
精神的にヤバいのでは? と勘繰られたくないので白を切る。
もしも紅葉が幻覚の他に幻聴を聞いたとすれば、それは巨大な獣が愉快そうに喉を鳴らす音くらいだ。猫が喉を鳴らす音に似ていたが、地の底から岩盤を揺るがすような轟音だったので鼓膜が破れたような感覚に陥っていた。
しかし、我に返ってみれば何ともない。
巨大な獣なんて幻だ──そう思い込むことにした。
それでも、久し振りの獲物を前にして舌舐めずりする餓えた巨獣のような唸り声には戦慄を覚えた。思い出しただけで足が竦む。
「ところで──大蔵君はどこへ行った?」
真っ先に石段を登っていった大蔵の声を聞いていない。
この4人組の中ではお喋り好きのムードメーカーのはずなのに、さっきから会話に入ってくる様子がなかった。幻聴や幻覚に見舞われた紅葉たちは「まさか……」と嫌な感じの冷や汗を一筋垂らす。
思わず息をすることさえ忘れてしまう。
「おぉ~い、みんな~、噂の神社があったよ~♪」
見上げる闇の奥、元気に振り回される懐中電灯から陽キャの声が降ってきた。
3人とも止めていた息をすべて吐き出した。
● ● ● ● ● ●
時計を確認してみれば、あの石段を15分くらい登っていたらしい。
辿り着いた先──本当に忘れられた神社があった。
周囲を背の高い山に囲まれているが、ここも山の頂上には違いない。
平らに切り拓いて敷地にしたらしい。
台形な山の天辺が、そのまま神社の境内なのだ。
朽ちた神社へと続く石畳はまだ健在だが、隙間から草が生え伸びて表面が苔生しているのは途中の石段と同じだった。石畳以外の場所は玉砂利を敷いていたようだが、あまり残っておらずこちらも草木に浸食されている。
手水場、社務所、用途不明の小屋などは倒壊していた。
まだ建物の態を残している神社の本殿らしき建物も、柱が何本か朽ちてしまったのか屋根が傾き、床もほとんど抜け落ちていた。
「なんだいなんだい、君たちだけ心霊体験したのかい?」
一番乗りな僕を差し置いて! と大蔵は仲間はずれにされたのを口惜しがる子供のように拗ねた。神社に辿り着いても先頭を歩いている。
高そうなパンツやシャツが草や苔で汚れてもお構いなしだ。
……というか、相当量のアルコールが体内を駆け巡っているはずなのだが、足下がふらつかないのは感心する。金子など気を抜けばまだ千鳥足だ。
「……それはそれで、よくここまで登れたものだね」
「金子もノリと勢いで生きてるからな……」
かく言う森野もかなり呑んでるはずだが、酔った素振りさえ見せないのはさすがという他ない。紅葉も見習って節度ある呑み方に努めたい。
大蔵は「怪奇現象カモーン!」と大声を張り上げると朽ちた社へ続く石畳を歩いていき、金子、森野、そして紅葉の順で続いていく。
「なあ森野……なんだか異様に暑くないか?」
頬から喉へと滴りそうな汗を紅葉は手で拭った。
「ああ、暑いな……この辺りは山間の割に随分と暑いから、遅い季節まで夏の昆虫が採れると聞いていたが……こうも熱くてジメジメしているとな」
体調に響くね、と森野も額の汗をハンカチで拭く。
秋も深まってきた深夜、おまけに山の上。もはや涼しいというより寒いという言葉が似合う季節なのに、ここはどういうわけは蒸し暑い。
奇妙な生暖かさを足下から感じる。
獣の吐息みたいな粘り気のあるドロリとした風も吹いてきた。
居心地が悪く──気持ち悪い。
正常な人間の感覚が受け付けない。絶妙な気持ち悪さに嘖まれつつ、得体の知れない恐ろしさが這い寄ってくる感覚に身震いした。
──深夜の肝試しはこれが初めてではない。
この4人であちこちの心霊スポットを尋ねて、夜の闇から何が飛び出してくるかわからないスリルを感じたことは何度もある。恐怖という生物が持つ生理現象を人間の理性で楽しんでいるところがあった。
しかし、今日に限って紅葉は本能的な恐怖を感じていた。
心霊現象という掴み所のない、得体の知れないものに対する未知の恐怖ではなく、もっと直接的な恐怖を感じていた。
目の前に猛獣がいる──生存本能に根差した恐怖だ。
あくまでも例えだが……。
餓えた獣はこちらの喉笛に噛みつこうと狙っており、紅葉たちの大切なものをそれこそ根刮ぎ奪い取ろうとしている。だが、まだ飛び掛かって来ない。
最高のタイミングを見計らっているのだ。
いつ食われるかわからない、そんな恐怖が本能を刺激する。本当なら今すぐこの場から逃げたくなる臆病心に囚われていた。
しかし、仲間たちが平然としているため何も言い出せない。
こんな時、中途半端な感性の良さが恨めしく、男の自尊心みたいなものが危機管理能力を邪魔をするのは如何なものかと思う。
紅葉は仲間を裏切れない。
また「無愛想だけど付き合いのいい友人」という体面を台無しにしたくはないので、何も言わず彼らに付いていく。連帯感というものは時として人を縛り付ける鎖になるらしい。
「おや? これは額縁……かな?」
先を歩いていた大蔵が石畳の脇に転がっていた板きれに気付いた。
朽ちかけたことで折れて砕けた板には、古臭い達筆で漢字が書かれているように見えた。多分、「○○神社」とか「××ノ宮」という類の、この神社の名前を現すものだろう。興味を示した森野が懐中電灯を差し向ける。
「随分と古臭い書き方をしているが……我……王……の社と読めるね。我は王……我王と読むのかな?」
「我王──の社?」
我は王などと名乗る神など聞いたことがない。
漫画のキャラクターにありそうな名前だが、紅葉は思い出せなかった。
ただ、我王という名前の響きに嫌な感じを覚える。
「我王……ガオウか、へへっ、獣が吠えるみてぇな名前だなぁ」
金子の減らず口なのに紅葉は寒気を覚えた。
獣が雄叫びをあげるような我王という名前から、先ほどの巨獣の背中を登る幻覚を思い出してしまった。まるで獣の気配が強まるように熱気も上がる。
この熱気、まさか巨獣から立ち上る体温では……?
そう考えると、夜の山に満ちた精気が途端に生臭くなる。
掃除の行き届いていない動物園のような獣臭に鼻を摘まみたくなった。
「おっ、賽銭箱じゃねえか……どれどれ」
紅葉の恐怖など余所に、朽ちかけた本殿に辿り着いた一行はそれぞれの懐中電灯で建物の中や外を照らしていると、金子が賽銭箱を見つけた。
本来の場所から落ちたのか、横倒しになっている。
お賽銭を投入する蓋は腐り落ちて、中身が丸見えになっていた。
金子はニヤニヤと頬を緩めて電灯の明かりを賽銭箱に注ぐ。
どう見ても賽銭泥棒その人だ。
「ちっ、なんでぇ空かよ……しけてやがんなぁ」
案の定、壊れた賽銭箱は空だった。
「お金が入ってたらどうしたんだろうねぇ?」
「私たちの目の前だろうと遠慮せず懐に収めていただろうな」
大蔵は疑問形で聞いたのに、森野は単刀直入に言った。
金子も否定しないので、最初からそのつもりだった可能性は高い。
「へっ、だったらよぉ……初志貫徹と行こうじゃねえの」
金子は不遜な笑みを浮かべると壊れた賽銭箱を持ち上げて本殿の前へ、即ちあるべき場所へと戻した。そして賽銭箱の前に立ち、おもむろにジャケットのポケットから1円玉を取り出して放り込む。
二度拝んで二度拍手して最後にまた一度拝む。
意外にも正しい“二拝二拍手一拝”をした金子は、闇夜に朗々と響き渡る大声でこう願掛けしたのだ。
「──どうか大金が転がり込みますように!」
山間だからなのか、金子の叫んだ声が木霊となって闇夜に響いた。
木霊の残響音が消えて一拍置いた後──。
「アッハッハ-! いいね金ちゃん、自分に素直なお願いで! でもそうだよね、噂通りならちゃんと拝めばお願い叶えてくれるっていうし!」
「フフフ、金子君らしいな……どれ、私も相乗りさせてもらうか」
箸どころか橋が転がっても笑う大蔵はともかく、寡黙な森野にまで金子の願掛けは笑いを誘ったらしい。2人も順に賽銭箱の前へ立った。
「どうか神様、美味しいお酒を飲めますよーに!」
「…………………………………」
大蔵は100円玉、森野は10円玉を投じて、金子を真似るように二拝二拍手一拝すると、それぞれの願いを忘れられた神様に告げた。
大蔵がブレないのはいいとして、森野が何を願ったのかは聞こえない。
小声で囁くような一言だったので紅葉には聞き取れなかった。
まあ、昆虫博士の願いなんて察しは付くが……。
思い掛けない金子の行動と、大蔵や森野の笑い声が少なからず紅葉を触発させたのか、幻覚から始まった「食われる」という恐怖も和らいだ。
ものはついでだ、みんなに合わせるのも一興。
森野が場所を譲ってくれたので、紅葉も賽銭箱の前に立った。
財布から50円玉を取り出し、壊れた賽銭箱に放り込んで二拝二拍手一拝をすると仲間のように願掛けをする。ただし、紅葉は言葉に出さなかった。
紅葉の願うもの──それは──決して手に入らない。
次の瞬間、強烈な地震に見舞われた。
これは幻覚じゃない。友人たちも翻弄されている。
「うわわわわすっごい揺れる!? さ、さすがに飲み過ぎたかなぁ?」
「ち、ちがう! 本当に揺れてる……地震だこれは!」
「ちょ、縦揺れハンパねぇ!? こんな地震あんのかフツゥ!?」
まるで4人が願掛けを終えた瞬間を見計らったようなタイミングで、横ではなく地の底から突き上げるような激しい地震が起きた。
日本で都合20年も生きていれば大小の地震は体験済みである。
しかし、これほど縦揺れの強いものは初めてだ。
震源地はこの山の下──マグニチュードは5から6はあったはずだ。
そんな風に感じるくらい激しい揺れだった。
おまけに石畳の隙間から噴き上げるような熱風まで感じられ、紅葉はその熱風の中に獣の遠吠えにも似た咆哮を聞いた。
「…………ぐぁうむ……うぉ……?」
地震が収まった頃、紅葉の口をついて自然とそのような文字の羅列が出てきたが、それは熱風に混じった咆哮をなぞるように言ったものだ。
ただの叫び声にも聞こえるが──隠された意味があるとも感じられた。
「揺れが収まった今のうちだ。これから本震が来る恐れもあるし、余震で大きいのが来るかも知れない。その前に山を降りてしまう」
森野に促され、仲間たちはそそくさと石段へ向かっていた。
紅葉は後ろ髪を引かれる思いで朽ちた神社を振り向くと、今の地震で傾きが酷くなった本殿を瞼の裏に焼き付けてから友人たちの後に続いた。
急ぎ足での帰り道、紅葉は自分の聞いた遠吠えについて尋ねてみた。
金子と大蔵は地震しか感じなかったらしい。
一方で森野に尋ねると──。
「さあ……どうだったろうな」
歯切れの悪い返事を最後に、彼は押し黙ってしまった。
● ● ● ● ● ●
登るのに大変な急勾配の石段は降りるのも大変だった。
なにせ崖を降りていくようなものだから、一歩踏み外せば急転直下である。
おまけに苔に濡れた石段は大層滑りやすい。
次の地震があるかと思えば気が気ではなく、急ぎ足でおりたいのだが足下が覚束ないので時間が掛かる。一行はやきもきしながら駐めた車のライトを頼りに、懐中電灯で足下だけを照らして降りていく。
脇目も振らずに駆け下りて、車を駐めた山道まで戻ってくる。
「──あああああああああああああああああああああああああッ!?」
そこで森野が素っ頓狂な声を上げた。
森野はインドア派を極めた運動オンチとは思えない、猫科の動物のように瞬発力に優れた跳躍で車のヘッドライトに飛びついた。
ヘッドライトにへばりついたものを掴み取ると、未だかつて見たこともない満面の笑みでこちらに披露する。いや、これは見せびらかしていた。
「カブトムシ……にしちゃデカいな!?」
森野の自慢するものを見て、金子が素直に驚いた。
外見こそは誰もがよく知る純国産のカブトムシ(♂)なのだが、大きさが尋常ではない。規格外と言ってもいいくらいだ。
森野はオタクによくありがちな「自分の得意分野を語り出すと早口になる」状態でペラペラ喋っているが、興奮し過ぎて自分でも何を言っているのかわかってないはずだ。聞いてる紅葉たちもちんぷんかんぷんだった。
それでも──このカブトムシの凄さはわかる。
カブトムシの魅力でもある角が大振りなのもさることながら、掌に載せるとその角がはみ出すほどの巨体なのだ。海外産で有名なヘラクレスオオカブトムシとかならわかるが、日本のカブトムシはここまで大きくならない。
おまけに鎧のような甲殻は独特な色合いをしており、車のライトを受けると誇張ではなく黄金に輝いていた。夜目にも美しいとはこのことだ。
「凄いな、あの神社……さっそく願いが叶ったぞ」
捕まえたカブトムシを撫でて森野はウットリする。
「あ、やっぱりおまえの願いってそっち系だったんだな」
森野の願いが聞こえなかった紅葉は得心する。
彼の願掛けは「見たこともないレア昆虫を捕まえる」ことだった。
「すまないが紅葉……帰りの運転も任せていいか?」
山から下りる途中、森野は「帰りは自分が運転する」と言い出した。
それほど呑んでおらずアルコールも抜けたので、と森野は言っていたが、恐らくはレア昆虫目当てなのを隠して、仲間をこんな山奥まで連れ出した負い目があったのだろう。その罪滅ぼしのつもりだったらしい。
……こんな短時間で酒が抜けるわけもないんだがな。
帰り道、パトカーに捕まれば即アウトだ。
紅葉としては最初から帰りの運転も自分が引き受ける気だったが、森野は改めて生真面目に頼み込んできた。
森野は「この子を逃がしたくない」と黄金色のカブトムシを両手でソフトに包み、なれど決して逃がさない形をキープしている。
森野から紳士的に頼まれると断りにくい。
彼は紅葉の名前を唯一正しく読んでくれる友達でもある。
「オーライ、せっかくゲットしたお宝だ。もっと愛でたいんだろ」
「悪い、恩に着る……どこかで埋め合わせしよう」
約束だぜ、と紅葉は軽い笑みで行きと同じように運転席に座った。助手席にはカブトムシを抱えた森野、後部座席は大蔵と金子の2人だ。
「ずっりぃ! 森野ばっか願いが叶ってずっりぃ!」
俺の願いも叶えてくれよぉ、と金子は情けない声で騒いだ。運転の邪魔にならない程度で、手足をジタバタさせている。こうなると赤ん坊より始末が悪い。
「まあまあ、金ちゃんのお願いもそのうち叶うんじゃないの?」
無責任なことを言いながら、隣に座る金子は道中で仕入れた地酒の栓を抜こうとしていた。グラスまで用意する準備の良さだ。
「そうだよ、ポケットでも叩いてみろ。金が増えるんじゃないか?」
運転する紅葉はバックミラー越しに金子を冷やかした。
「バカにすんじゃねえよ……ポケット叩いて増えるのは煎餅だろうが!」
「あれ、キャンディーかチョコレートじゃなかったけ?」
「…………正しくはビスケットだぞ」
金子の頭の悪いボケに大蔵が天然ボケで答え、それを森野がカブトムシを愛でつつ訂正した。本当、息のあった仲の良い友人たちである。
苛立ち紛れなのか、金子は本当にジャケットのポケットを叩いた。
ボフン──と厚みのある音がする。
まるで重ねた紙束を上から叩いたような音だ。
その音は車内全員の耳に届いており、誰もが「まさか?」という顔になった。当の本人である金子が注目を浴びて「嘘だろ!?」と困惑する。
金子は震える手をポケットに突っ込み、その中身を引っ張り出す。
紙束の正体は──折り畳まれた紙幣だった。
しかも全部1万円札。広げてみると全部で8枚もあった。その8枚を何回も数えた金子は涙を浮かべて歓喜した。「神様ありがとー!」と礼も忘れない。
「やったー! これで明日の軍資金ができたーッ!」
廃墟神社の我王(これが本当に神様の名前か怪しいが)という神様に何度も感謝を叫びながら、金子は出てきた8万円にキスを繰り返す。
あまりの浮かれっぷりに紅葉は呆れてしまう。
「それ、神様のお恵みじゃないだろ……大方、何日か前の大当たりをズボンに入れたまま忘れただけじゃねぇのか? なあ、大蔵?」
降って湧いた万札に浮かれる金子の耳に、紅葉の正論は届いていない。
金子の隣にいる大蔵に同意を求めたのだが、彼は神妙な面持ちで手にしたグラスを覗き込んでいた。こんな真剣な大蔵は久し振りだった。
「……どうした大蔵? 腹でも痛いのか?」
「ん、ああ、いや、違うんだ。心配させてゴメン……なんかね、さっき買った地酒がさ……ちょっと変なんだよ……うん、こういうのも変っていうのかな」
メチャクチャ美味しいんだ──大蔵は頬をほころばせた。
道すがら24時間営業の酒屋で買った地酒。
その封を切って車に積んであったグラスに注いで早速味見しているが、その地酒がかつて呑んだ酒と同じものとは思えない美酒だという。
「この地酒、美味しいことには違いないんだけど、どれだけ記憶を掘り返しても、ここまで美味しかったとは思えないんだよ……いや、美味い。本当に美味しい……ワインで言うところの当たり年みたいなものかな……うん、美味しい……凄いな、こんな美味しいのは初めてだ……美味いよ、これ……」
美味い美味い、と語彙力の尽きた大蔵は酒を汲む手が止まらない。
あっという間に一升瓶を開けると次の瓶まで封を切り、喉がカラカラに乾いた旅人がオアシスを見つけたかのような勢いで飲んでいる。
こちらの地酒もまた当たりらしく、美味いを連呼した。
森野はお目当てのレア昆虫をゲットしてご機嫌。
金子は明日の軍資金がポケットから出てきて狂喜乱舞。
大蔵は買った地酒が美味すぎて言葉を失うほど堪能中。
なんだかんだで……みんな願いが叶っている?
彼らの叶えられた願いはあの山中の廃墟神社、我王の社とかいうところで願掛けしたものばかりだ。そしてあの神社に奉られていた、忘れられた神様を真摯に拝めば願いが叶うという噂を思い出してしまう。
ならば──俺の願いも叶えられるというのか?
わずかな期待がこみ上げるも、紅葉は「馬鹿らしい」と自分の胸に宿った希望の灯火を吹き消した。当てのない望みに心を昂ぶらせたくはない。
紅葉の望みは──絶対に叶わない。
この世に実在しないモノだから、手に入れようがないのだ。
似たモノならたくさんある。それで妥協しようと思ったこともあるが、心が満たされたことはないし、理想を押し付けるのも失礼だろう。
だから紅葉は、自らの渇望に見切りを付けた。
大なり小なり願いが叶って喜ぶ友人たちを横目に、自分の願いは叶わないと諦めて紅葉は帰り道を辿る。喉の奥が悔しさの苦汁で詰まりそうだ。
アクセルを踏み込む足に自然と力が入った。
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