論理で恋を解く男が、星のように揺れる夜

月下花音

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第26話「心に棲む影」

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 午前2時の相談所。

 透は眠れず、机に向かっていた。

 美月のメッセージが、頭から離れない。

「私、藤原さんを傷つけるかもしれません」

「影は、光があるから生まれる」

 透は小さくつぶやく。

 美月の秘密が、影を作っている。

 ◆

 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第26話。

 透は窓の外を見る。

 交差点に、誰かが立っている。

 小さな影。

 透は目を凝らす。

 でも、誰もいない。

「気のせいか」

 透は目をこする。

 最近、また視界が歪む。

 疲れているのか。

 それとも、不安が見せる幻か。

 透は立ち上がり、棚の前に立つ。

 何百通もの手紙。

 すべてに、影がある。

 言えない秘密。隠された痛み。人は、誰でも影を抱えている。

「美月さんの影は、何だ」

 透は小さくつぶやく。

 答えは、出ない。

 透は机に戻り、過去の処方箋を読み返す。

 三年前の相談だ。

『彼に、過去を話すべきでしょうか?

 話したら、嫌われそうで怖いです』

 透の処方箋は、こうだった。

『話すべきです。秘密は、関係を壊します』

 でも、今の透なら、違う答えを書く。

『話さなくても、いいです。あなたのペースで』

 透は、変わった。

 美月に出会って。

 ◆

 午後3時の古本屋。

 透は心理学の棚を整理していた。

 フロイト、ユング、アドラー。

 影を研究した学者たちの言葉が、並んでいる。

「影は、自己の一部だ」

 透は小さくつぶやく。

 その時、店のドアが開いた。

 透は顔を上げる。

 美月だった。

 でも、いつもと違う。

 笑顔が、ない。

「藤原さん」

 美月の声が、震えている。

 透は本を置き、美月に近づく。

「どうしたんですか?」

「話が、あります」

 美月は、透の目を見る。

 その目に、決意がある。

「ここでは、話せません」

 透は頷く。

「分かりました。相談所に行きましょう」

 二人は、店を出る。

 店主の老人が、心配そうに見送る。

 ◆

 午後4時の相談所。

 透と美月は、向かい合って座っていた。

 美月は、手を握りしめている。

 震えている。

「美月さん、落ち着いてください」

 透は優しく言う。

 美月は、深呼吸する。

 そして、口を開く。

「藤原さん、私には影があります」

 透は黙って、聞く。

「私の個展が、キャンセルになりました」

 美月の声が、震える。

「来月の個展が決まってたのに……」

 透の息が、止まる。

「理由は、内容が商業的じゃないからだけじゃありません」

 美月は視線を落とす。

「私の過去が、問題だったんです」

「過去?」

「はい。私、三年前に……」

 美月の声が、途切れる。

 涙が、頬を伝う。

「私、人を傷つけました」

 透の息が、止まる。

「どういう、ことですか?」

「私の描いたイラストで、ある人が自殺未遂をしたんです」

 美月の声が、震える。

「私、フリーのイラストレーターとして、SNSでゴシップ的なコラムイラストを描いていました」

「ある芸能人のスキャンダルを風刺したイラストを投稿したら、それが誤報で……」

 透は、美月の言葉を聞く。

 心臓が、痛む。

 美月の涙が、止まらない。

「その人は、仕事も家族も失って、自殺未遂をしました。幸い命は助かりましたが……」

 美月は、顔を覆う。

「私のせいです。私が、あの人を傷つけたんです」

 透は、美月の肩に手を置く。

「私の過去が、問題だったんです」

 透の心臓が、速くなる。

「それで、一度イラストレーターを辞めたんですか?」

「はい。もう、描けなくなりました。」

 美月は、透を見る。

「でも、スポンサーの出版社は私の過去を知っていました。だから、ボツになったんです」

 透は、美月の手を取る。

 冷たい。

「美月さん、それは美月さんのせいじゃありません」

「でも、私が描いたんです」

「誤報は、美月さんの責任じゃありません。編集部の責任です」

「でも……」

「美月さんは、もう償いました。仕事辞めて、三年間苦しんで」

 透は、美月の手を握る。

「もう、自分を責めないでください」

 美月は、透の目を見る。

「藤原さんは、私を許してくれますか?」

 透は、迷わず答える。

「許すも何も、美月さんは悪くありません」

 美月の涙が、溢れる。

「ありがとうございます」

 透は、美月を抱きしめる。

 初めてだ。

 美月の体温が、伝わってくる。

「美月さんの影を、俺も抱えます」

 透は小さく言う。

「一人で抱えるには、重すぎます」

 美月は、透の胸で泣く。

 透は、美月の背中をさする。

「大丈夫です。俺がいます」

 二人は、しばらくそのままだった。

 言葉は、要らない。

 ただ、抱きしめている。

 それだけで、十分だ。

 ◆

 午後11時の相談所。

 美月は帰り、透は一人だった。

 透は机に向かい、新しい手紙を開く。

 便箋には、丁寧な文字でこう書かれていた。

『過去に、人を傷つけました。今でも、後悔しています。

 この影は、消えないのでしょうか?

 30歳・女性』

 透の手が、止まる。

 美月と同じだ。

 透はペンを取り、ノートに書き込む。

「罪悪感の強度をG、時間の経過をT、償いの量をAとする。

 だが、この式には本質が欠けている。

 影は、消えない」

 透の手が、震える。

 でも、今度は迷わない。

 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。

『あなたの影は、消えません。

 でも、それでいいんです。

 影は、あなたの一部です。

 影があるから、光がある。

 過去を消すことはできません。

 でも、未来を変えることはできます。

 あなたは、後悔しています。

 それは、あなたが成長した証拠です。

 過去のあなたは、後悔しなかったかもしれません。

 でも、今のあなたは、後悔している。

 それは、あなたが優しくなった証拠です。

 影を抱えて、生きてください。

 影を忘れず、でも影に囚われず。

 あなたの影を、誰かと分かち合ってください。

 一人で抱えるには、重すぎます。

 私も、影を抱えています。

 妹を助けられなかった影を。

 でも、その影があるから、今の私がいます。

 影は、消えません。

 でも、影と共に生きることはできます。

 藤原透』

 透は手紙を封筒に入れ、棚に置く。

 透は、初めて自分の影を認めた。

 妹を助けられなかった影。

 それは、消えない。

 でも、それでいい。

 透は相談所を出て、交差点に立つ。

 五つの道。

 どれを選んでも、影がついてくる。

 でも、今は怖くない。

 美月も、影を抱えている。

 二人で、影を分かち合える。

 風が、吹き抜ける。

 今度は温かい。

「心に棲む影」

 それは、消えない。

 でも、愛があれば、影も光になる。

(第26話完 次話へ続く)

 次回、透は「君を守れない日」を知る。
 そして、透の覚悟が——君の想像する「限界」が、試される——。
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