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第1話:世界が変わるまで、あと1秒
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500億円。
正確には、今日のレート換算で500億と数千万円。端数は覚えていない。誤差の範囲だからだ。
俺は、PCのモニターに表示されたその数字を、もう30分も見つめ続けている。
パスワードは、叔父が好きだった深夜アニメの台詞。
セキュリティ意識の欠片もないキーを叩いてアクセスしたコールドウォレットの中身が、これだ。
「……バグだろ」
声に出してみたが、数字は減らない。
疎遠だった叔父。変人だとは聞いていたが、まさか黎明期にビットコインを買い込んで、そのまま交通事故で死ぬような「持ってる」変人だとは知らなかった。
親戚一同が「電子ゴミ」として押し付け合ったこのUSBメモリが、今、俺の手の中で熱を持っている気がする。
「……待てよ」
俺はふと、窓の外を見た。
アパートの前の交差点。信号機が赤から青に変わる。
「500億あるってことは……俺はもう、信号機の色を守る側じゃない」
思考が変な方向にショートした。
俺の全財産(バイト代の残り3万円)なら、信号無視で捕まったら痛い出費だ。
だが、今の俺なら?
信号機ごと買い取れるんじゃないか?
いや、なんなら「俺が通る時は全部青にしろ」と、自治体に賄賂を贈ることだって可能かもしれない。
「その気になれば、信号機の色を『俺のラッキーカラー』に変えられる側の人間になったってことか……?」
わけのわからない全能感。
俺の手の中には、このボロアパートどころか、俺の人生の「ルールブック」を書き換えるだけの力(暴力)がある。
現実感がなさすぎて、笑いも出ない。
とりあえず、俺はUSBを机に放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
バネの壊れたパイプベッドが、ギシ、と情けない音を立てた。
✎ܚ
俺の名前は成瀬翔。
どこにでもいる、金のない大学生だ。
いや、昨日まではそうだった。
趣味はない。彼女もいない。
唯一の楽しみといえば、隣の部屋から聞こえてくる「声」を聞くことくらいだ。
『――あー! もう! またエイムずれたぁ!』
壁の向こうから、可愛い悲鳴が聞こえる。
この壁は薄い。あまりにも薄すぎて、隣人の生活音が筒抜けだ。
隣に住んでいるのは、如月玲奈(きさらぎ・れな)さん。
同じ大学に通う同級生で、キャンパスでは「氷の令嬢」と呼ばれている高嶺の花だ。
いつも無表情で、誰も寄せ付けないオーラを放っている。
俺も昨日、ゴミ捨て場で会った。
挨拶しようとしたら、ゴミ袋を持ったまま冷ややかな目で見下ろされ、
「……静かに歩いてください。足音、響くんで」
とだけ言われて、会話が終了した。
あの時の目は、忘れもしない。
単にうるさいと怒っていたんじゃない。
“人類が進化の過程で『二足歩行』を選択したこと自体を責めてくる目”だった。
俺のような凡人は、地を這って生きろということだろう。
まあいい。俺には、現実の女性よりも大切な存在がいる。
俺はスマホを取り出し、YouTubeを開いた。
登録しているチャンネルは一つだけ。
『Lunatic NIGHTMARE Ch.』
画面の中で、銀髪赤目の吸血鬼アバターが動いている。
名前は、ルナ・ナイトメア。
チャンネル登録者数、382人。
同接数、15人。
いわゆる、底辺個人勢VTuberだ。
『みんなー、こんルナ~! 今日こそランクマ上げるよ~!』
元気な声。
そして、0.5秒遅れで、壁の向こうから聞こえる『……今日こそランクマ上げるよ~!』という生声。
そう。
氷の令嬢・如月玲奈の正体は、このポンコツ吸血鬼なのだ。
俺だけが知っている秘密。
この「壁一枚」という特等席で、俺は半年間、彼女を密かに推し続けてきた。
『……あ、ごめん。今日もお茶だけで……』
配信中のルナが、申し訳なさそうに言った。
コメント欄には「晩ご飯食べた?」という質問が流れている。
『今月、ちょっとピンチで……もやし生活なんだよね。あはは、吸血鬼なのにもやしってね! 血が足りないよ~』
明るく振る舞っているが、俺は知っている。
彼女が昨日、スーパーの見切り品コーナーで、半額のシールが貼られるのをじっと待っていた姿を。
彼女の家には、金がない。
実家の親がどうこう、という電話を壁越しに聞いたこともある。
コメント欄には『草』『頑張れ』という文字が流れるだけ。
スパチャ(投げ銭)は、ない。
彼女の収益化ラインはギリギリだ。
俺は、唇を噛んだ。
昨日の俺なら、ここで「頑張れ」とコメントすることしかできなかった。
俺だって、今日の夜飯はカップ麺だからだ。
でも。
今の俺は違う。
俺は起き上がり、PCに向かった。
USBメモリを突き刺す。
500億の数字が、再び俺を睨みつける。
「……使い道なんて、これくらいしか思いつかない」
世界征服? 興味ない。
豪遊? 友達がいない。
じゃあ、何に使う?
決まっている。
「ここ」にいるよ、と叫ぶためだ。
クソでかいクジラ(Whale)が、この狭い水槽に迷い込んだことを知らせるためだ。
俺は震える手で、新しいGoogleアカウントを作成した。
名前入力欄。
彼女の名前は「ルナ(月)」。
月に行った宇宙飛行士は、帰還後にこう言ったらしい。
『月から帰ってきたら、地球がまるで別の惑星に見えた』と。
今の俺も同じだ。
この金を使ってしまったら、明日から世界は今まで通りには見えないだろう。
この貧乏で、静かで、平穏な日常は終わる。
それでも、俺は――。
俺は迷わず入力した。
【NAME:Apollo(アポロ)】
クレジットカードの登録画面をスキップし、直接ウォレットを連携させる。
処理完了まで数秒。
残高表示:∞(測定不能)。
さあ、如月さん。
いや、ルナちゃん。
今夜から君の配信は、伝説になるぞ。
俺はスーパーチャットの金額入力欄をタップした。
とりあえず、『5』と打つ。
その後に、『0』を打つ。
もうひとつ『0』。
……いや、足りないか。
俺はバックスペースキーを押し、もう一度、桁を増やして入力し直した。
指先が震える。
これは金じゃない。質量だ。
人生そのものを歪めるほどの、重力塊だ。
俺は、エンターキーを押した。
その瞬間。
スマホの画面が、フリーズしたように固まった。
『……あれ?』
壁の向こうから、ルナちゃんの困惑した生声が聞こえる。
配信画面の動きも止まっている。
『なんか急に……コメント欄、重くない? 回線落ちたかな……?』
俺は息を呑んだ。
まだ、画面には何も表示されていない。
ただ、俺が放った“質量”が、インターネットの海に着弾するまでの、ほんの数秒の静寂。
サーバーが、金額の桁数を理解するのに時間を要しているような、不気味なラグ。
世界が変わるまで、あと、1秒。
(つづく)
正確には、今日のレート換算で500億と数千万円。端数は覚えていない。誤差の範囲だからだ。
俺は、PCのモニターに表示されたその数字を、もう30分も見つめ続けている。
パスワードは、叔父が好きだった深夜アニメの台詞。
セキュリティ意識の欠片もないキーを叩いてアクセスしたコールドウォレットの中身が、これだ。
「……バグだろ」
声に出してみたが、数字は減らない。
疎遠だった叔父。変人だとは聞いていたが、まさか黎明期にビットコインを買い込んで、そのまま交通事故で死ぬような「持ってる」変人だとは知らなかった。
親戚一同が「電子ゴミ」として押し付け合ったこのUSBメモリが、今、俺の手の中で熱を持っている気がする。
「……待てよ」
俺はふと、窓の外を見た。
アパートの前の交差点。信号機が赤から青に変わる。
「500億あるってことは……俺はもう、信号機の色を守る側じゃない」
思考が変な方向にショートした。
俺の全財産(バイト代の残り3万円)なら、信号無視で捕まったら痛い出費だ。
だが、今の俺なら?
信号機ごと買い取れるんじゃないか?
いや、なんなら「俺が通る時は全部青にしろ」と、自治体に賄賂を贈ることだって可能かもしれない。
「その気になれば、信号機の色を『俺のラッキーカラー』に変えられる側の人間になったってことか……?」
わけのわからない全能感。
俺の手の中には、このボロアパートどころか、俺の人生の「ルールブック」を書き換えるだけの力(暴力)がある。
現実感がなさすぎて、笑いも出ない。
とりあえず、俺はUSBを机に放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
バネの壊れたパイプベッドが、ギシ、と情けない音を立てた。
✎ܚ
俺の名前は成瀬翔。
どこにでもいる、金のない大学生だ。
いや、昨日まではそうだった。
趣味はない。彼女もいない。
唯一の楽しみといえば、隣の部屋から聞こえてくる「声」を聞くことくらいだ。
『――あー! もう! またエイムずれたぁ!』
壁の向こうから、可愛い悲鳴が聞こえる。
この壁は薄い。あまりにも薄すぎて、隣人の生活音が筒抜けだ。
隣に住んでいるのは、如月玲奈(きさらぎ・れな)さん。
同じ大学に通う同級生で、キャンパスでは「氷の令嬢」と呼ばれている高嶺の花だ。
いつも無表情で、誰も寄せ付けないオーラを放っている。
俺も昨日、ゴミ捨て場で会った。
挨拶しようとしたら、ゴミ袋を持ったまま冷ややかな目で見下ろされ、
「……静かに歩いてください。足音、響くんで」
とだけ言われて、会話が終了した。
あの時の目は、忘れもしない。
単にうるさいと怒っていたんじゃない。
“人類が進化の過程で『二足歩行』を選択したこと自体を責めてくる目”だった。
俺のような凡人は、地を這って生きろということだろう。
まあいい。俺には、現実の女性よりも大切な存在がいる。
俺はスマホを取り出し、YouTubeを開いた。
登録しているチャンネルは一つだけ。
『Lunatic NIGHTMARE Ch.』
画面の中で、銀髪赤目の吸血鬼アバターが動いている。
名前は、ルナ・ナイトメア。
チャンネル登録者数、382人。
同接数、15人。
いわゆる、底辺個人勢VTuberだ。
『みんなー、こんルナ~! 今日こそランクマ上げるよ~!』
元気な声。
そして、0.5秒遅れで、壁の向こうから聞こえる『……今日こそランクマ上げるよ~!』という生声。
そう。
氷の令嬢・如月玲奈の正体は、このポンコツ吸血鬼なのだ。
俺だけが知っている秘密。
この「壁一枚」という特等席で、俺は半年間、彼女を密かに推し続けてきた。
『……あ、ごめん。今日もお茶だけで……』
配信中のルナが、申し訳なさそうに言った。
コメント欄には「晩ご飯食べた?」という質問が流れている。
『今月、ちょっとピンチで……もやし生活なんだよね。あはは、吸血鬼なのにもやしってね! 血が足りないよ~』
明るく振る舞っているが、俺は知っている。
彼女が昨日、スーパーの見切り品コーナーで、半額のシールが貼られるのをじっと待っていた姿を。
彼女の家には、金がない。
実家の親がどうこう、という電話を壁越しに聞いたこともある。
コメント欄には『草』『頑張れ』という文字が流れるだけ。
スパチャ(投げ銭)は、ない。
彼女の収益化ラインはギリギリだ。
俺は、唇を噛んだ。
昨日の俺なら、ここで「頑張れ」とコメントすることしかできなかった。
俺だって、今日の夜飯はカップ麺だからだ。
でも。
今の俺は違う。
俺は起き上がり、PCに向かった。
USBメモリを突き刺す。
500億の数字が、再び俺を睨みつける。
「……使い道なんて、これくらいしか思いつかない」
世界征服? 興味ない。
豪遊? 友達がいない。
じゃあ、何に使う?
決まっている。
「ここ」にいるよ、と叫ぶためだ。
クソでかいクジラ(Whale)が、この狭い水槽に迷い込んだことを知らせるためだ。
俺は震える手で、新しいGoogleアカウントを作成した。
名前入力欄。
彼女の名前は「ルナ(月)」。
月に行った宇宙飛行士は、帰還後にこう言ったらしい。
『月から帰ってきたら、地球がまるで別の惑星に見えた』と。
今の俺も同じだ。
この金を使ってしまったら、明日から世界は今まで通りには見えないだろう。
この貧乏で、静かで、平穏な日常は終わる。
それでも、俺は――。
俺は迷わず入力した。
【NAME:Apollo(アポロ)】
クレジットカードの登録画面をスキップし、直接ウォレットを連携させる。
処理完了まで数秒。
残高表示:∞(測定不能)。
さあ、如月さん。
いや、ルナちゃん。
今夜から君の配信は、伝説になるぞ。
俺はスーパーチャットの金額入力欄をタップした。
とりあえず、『5』と打つ。
その後に、『0』を打つ。
もうひとつ『0』。
……いや、足りないか。
俺はバックスペースキーを押し、もう一度、桁を増やして入力し直した。
指先が震える。
これは金じゃない。質量だ。
人生そのものを歪めるほどの、重力塊だ。
俺は、エンターキーを押した。
その瞬間。
スマホの画面が、フリーズしたように固まった。
『……あれ?』
壁の向こうから、ルナちゃんの困惑した生声が聞こえる。
配信画面の動きも止まっている。
『なんか急に……コメント欄、重くない? 回線落ちたかな……?』
俺は息を呑んだ。
まだ、画面には何も表示されていない。
ただ、俺が放った“質量”が、インターネットの海に着弾するまでの、ほんの数秒の静寂。
サーバーが、金額の桁数を理解するのに時間を要しているような、不気味なラグ。
世界が変わるまで、あと、1秒。
(つづく)
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