【短編】下着新調したのに生理が来た

月下花音

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第1話:レースの勝負下着と、鮮血の絶望

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 一万八千円。
 税込みで一万九千八百円。
 私の手元にあるのは、面積だけで言えばハンカチよりも小さい、頼りないレースの布切れだ。色はボルドー。店員のお姉さんが「大人の女性の肌を一番綺麗に見せますよぉ~」と猫なで声で言った色だ。

 高い。どう考えても布の面積と値段が釣り合っていない。
 この金があれば、スーパーで特売の豚バラ肉が何キロ買える?
 冷凍庫をパンパンにする豚肉の山と、この薄い布切れ。人生の幸福度はどっちが高いのか、冷静になると吐き気がしてくる。

 四十五歳。独身。事務職。
 この私が、一万九千八百円のボルドーのパンツと、それとお揃いの二万越えのブラジャーを、震える手でレジに出したのが三日前。
 すべては、今夜のためだった。

 胃がキリキリする。
 昨日の夜、賞味期限切れのヨーグルトを食べたせいじゃない。
 これは、間違いなく「期待」という名のストレスだ。期待なんて若者の特権なのに、中年の期待は胃壁を荒らす劇薬でしかない。

 パン教室で知り合った、四十七歳の彼。
 名前は田所さん。たどころ、という濁音の響きがいかにも中年男性らしくて、最初はなんとも思っていなかった。
 だけど、予期せぬデートの誘い。
 場所はホテルのディナー。
 これは、もう、そういうことだ。四十五年生きてきて、そのくらいの察しはつく。
 「クリスマスですし」
 彼はそう言ったけれど、クリスマスだからこそ、大人は「その後」を見据えるのだ。

 足の裏が妙に熱い。冷え性なのになぜか足裏だけ熱い。
 ホルモンバランスが狂っている証拠だ。
 体は正直だ。頭が「恋かも」と浮かれている横で、体は「無理すんな、お前もうガタが来てるぞ」と警鐘を鳴らしまくっている。

 だから私は買った。
 普段はユニクロのコットンショーツと、ワイヤーが骨に当たらない楽なブラトップで過ごしているこの体に、鞭を打つように高級下着を買った。
 鏡の前で試着した時は、正直、笑ってしまった。
 垂れた胸を無理やり持ち上げ、たるんだ尻をレースに押し込む。
 まるで、熟れすぎて皮が破けそうなトマトを、高級な贈答用のネットに無理やり詰め込んだみたいだ。

 脇の下からじっとりと嫌な汗が出る。
 更年期特有の、コントロール不能な粘度のある汗だ。
 まだ何も始まっていないのに、私の体はすでに敗北宣言を出し始めている。
 このトマト、出荷前に腐りかけてないか?

 「……痛々しいわね」
 独り言が漏れた。でも、これが礼儀だと思った。
 彼に対する、そして久しぶりの「女」としての自分に対する、精一杯の虚勢。

 そして今日。
 約束の時間まであと三時間。
 私は風呂に入り、念入りにムダ毛を処理し、高いボディクリームを全身に塗りたくった。
 浴室には、バラの香りの入浴剤の匂いが充満している。正直、匂いがきつすぎて少し頭が痛い。
 脱衣所で体を拭き、いざ、あの一万九千八百円のボルドーを身に着けようとした、その時だ。

 ぬるり。

 嫌な感覚があった。
 重力に従って、何かが下腹部から滑り落ちるような、あの独特の感覚。
 粘膜を滑り落ちる、温かくて不快な液体。
 背筋がゾワリとした。ホラー映画の幽霊を見るより、よっぽど恐ろしい現実の予感。

 私は固まった。
 「……嘘でしょ」
 恐る恐る、自分の股間を見る。
 そこには、鮮やかな赤。
 ボルドーなんて洒落た色じゃない。もっと生々しい、鉄の臭いがしそうな、鮮血。

 血の匂いが鼻をつく。
 錆びた鉄棒を舐めた時のような、あの独特の金属臭。
 バラの入浴剤の香りと混ざって、吐き気を催すような最悪のハーモニーを奏でている。

 生理だ。

 「なんで……!」
 叫び声が出た。
 予定日じゃない。一週間も早い。
 いや、最近更年期の入り口なのか、周期なんてあってないようなものだった。
 二ヶ月来ないと思ったら、次は二週間で来たりする。
 私の卵巣はもう、店じまい前の在庫処分セールみたいに、予測不能な動きをしているんだった。
 でも、今日?
 よりによって、一万九千八百円の勝負下着を穿く、この瞬間に?

 頭がカーッと熱くなる。
 のぼせだ。血圧が急上昇しているのがわかる。
 血管という血管が怒りで破裂しそうだ。神様がいるなら、今すぐここに引きずり出して説教してやりたい。

 私はへなへなと脱衣所の床に座り込んだ。
 全裸で。
 冷たい床の感触がお尻に伝わる。
 情けなくて、涙が出てきた。
 恋に浮かれて、高い下着なんて買うからだ。
 神様が「お前ごときが色気づくんじゃないよ」と笑っている気がした。

 お尻の肉が床に広がっているのがわかる。
 冷たさが肉の厚みを通過して骨に届く。
 鏡に映る自分が、干からびたカエルの死骸に見えた。これが四十五歳の現実か。

 下腹部に、鈍い痛みが走り始める。
 あ、これ、重いやつだ。
 腰の奥が鉛のように重くなる。頭の芯がぼんやりとする。
 生理痛と、精神的なショックのダブルパンチ。

 子宮が雑巾絞りされているみたいだ。
 内側から誰かが万力で締め上げている。痛い。重い。気持ち悪い。
 ロンドンの霧のように憂鬱が脳内を埋め尽くしていく。

 スマホが震えた。
 田所さんからだ。
 『今、会社を出ました。ホテルのロビーで待ってます。無理しないでね』
 「無理しないでね」という言葉が、今の私には皮肉にしか聞こえない。
 無理だよ。
 無理に決まってるじゃない。
 今すぐベッドに潜り込んで、湯たんぽ抱えて死んだように眠りたい。

 目の奥がチカチカする。
 スマホの光が眩しすぎて偏頭痛の予兆がある。
 「無理しないで」なんて言う男に限って、女が無理して笑顔を作っていることに気づかないんだ。

 でも。
 キャンセルできるわけがない。
 ホテルのディナーだ。彼も張り切って予約してくれたはずだ。
 ドタキャンなんてしたら、もう二度と誘われないかもしれない。
 「……行くしかない」
 私は立ち上がった。
 目の前に置かれた、ボルドーのレースショーツ。
 それを指先でつまみ上げ、ため息をつく。
 
 このレースの隙間を、経血がすり抜けていく映像が脳裏をよぎる。
 ホテルの白いシーツを赤く染める自分。
 殺人現場のようなベッドを見て、ドン引きする田所さん。
 無理だ。リスクが高すぎる。これは爆弾処理班の仕事だ。

 そして私は、それを洗濯カゴに放り込んだ。
 代わりに引き出しから取り出したのは、色気もへったくれもない、厚手のサニタリーショーツ。通称「鉄壁のパンツ」。色はベージュ。
 その上に、カイロを貼る。
 さらに、冷え防止のための毛糸のパンツ(黒)を重ね履きする。

 温かい。
 悔しいけれど、とてつもなく温かい。
 ボルドーの数倍、この黒い毛糸が私を愛してくれている。
 機能性が美しさを凌駕する瞬間。これが「老い」を受け入れるということか。

 鏡に映った自分を見る。
 上は高級ブラジャー。下は毛糸のパンツ。
 滑稽なキメラだ。
 「……何やってんだろ、私」
 
 お腹が痛い。
 胃もムカムカしてきた。
 それでも私は、化粧だけは完璧に仕上げる。
 厚塗りのファンデーションで顔色の悪さを隠し、鮮やかな紅を引く。
 
 ファンデーションが毛穴に落ち込むのが見える。
 隠せば隠すほど、厚塗り感が出て老けて見えるパラドックス。
 それでも塗るしかない。素肌のくすみは、今の私には猛毒だから。

 戦場へ向かう兵士の気分だった。
 ただし、武器はボルドーのランジェリーではなく、夜用の羽根つきナプキンと、ロキソニンだ。
 
 薬が効くまでの三十分が勝負だ。
 胃薬も一緒に飲んでおかないと、ロキソニンで胃がやられる。
 薬漬けの体。サイボーグか私は。いや、ただのポンコツだ。

 私はコートのポケットに痛み止めをねじ込み、重い足取りで家を出た。
 クリスマスの街は、浮かれたカップルで溢れかえっているんだろう。
 その中を、子宮を握りつぶされるような痛みを抱えた中年女が一人、戦いに行く。
 
 ああ、すでに帰りたい。
 こたつ入ってミカン食って寝たい。
 なんで恋なんてしようとしたんだっけ。
 ボケ防止かな。
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