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Ep.01
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二月に入っただけで、胃が重い。
カレンダーの一枚目をめくった瞬間、そこにある「14」という数字が、呪いの刻印みたいに目に飛び込んでくる。
冬の乾燥した空気。
暖房の効きすぎたオフィスの埃っぽい匂い。
そして、どこからともなく漂い始める、甘ったるいチョコの気配。
私はデスクで、とある書類の承認印を押しながら、二つに分裂した。
いや、正確には、私の脳内で二人の私が殴り合いを始めたのだ。
『今年は渡す』と決めた私。
『今年は渡さない』と決めた私。
共通しているのは、どちらも死ぬほどビビっているということだけ。
「……はあ」
ため息が漏れる。
隣の席の後輩が「お疲れですか?」と聞いてくる。
「うん、ちょっとね」
曖昧に笑って誤魔化す。
この瞬間、私の世界は二つのレイヤーに分かれた。
***
【渡すと決めた私】の思考回路:
渡すしかない。
だって、このままだと何も変わらないから。
現状維持? 聞こえはいいけど、それは緩やかな死だ。
彼との距離は、今のままで十分心地いい。
でも、その「心地よさ」に甘えている間に、誰かが彼を奪ったら?
想像しただけで、心臓が雑巾絞りされたみたいに痛む。
だから、渡す。
別に告白するわけじゃない。
「日頃の感謝です」って顔をして、少し良いランクのチョコを渡すだけ。
それなら傷つかない。
それなら、「勘違い女」にはならない。
そう自分に言い聞かせて、私はスマホで『バレンタイン 本命 重くない』で検索をかける。
画面に並ぶ、「センスのいいチョコ」「男性が喜ぶブランド」の文字。
スクロールする指が震えている。
怖い。
もし、「え、これ俺に?」って困った顔をされたら。
「お返し面倒だな」って裏で言われたら。
***
【渡さないと決めた私】の思考回路:
渡すわけない。
この年でバレンタインに踊らされるなんて、正気の沙汰じゃない。
彼とはただの同僚。
ちょっと仲がいいだけの、他部署の先輩。
そこに色恋を持ち込んだ瞬間、この「ちょうどいい距離感」は崩壊する。
リスクが高すぎる。
もし渡して、変な空気になったら?
翌日から、今までみたいに軽口を叩けなくなったら?
そんなの、耐えられない。
だから、渡さない。
何もしない。
それが一番賢い大人の選択だ。
私はスマホで『バレンタイン スルー 正解』で検索をかける。
画面に並ぶ、「渡さない派が急増」「職場の義理チョコ廃止」の文字。
それを読んで、安堵のため息をつく。
そうだよね。みんなそうしてる。
私が臆病なんじゃない。
時代がそう言ってるんだ。
***
再び、現実のオフィス。
「あ、そうだ」
彼が通りがかりに、私のデスクに書類を置いた。
ふわりと、柔軟剤の匂いが鼻をくすぐる。
ドラッグストアで売っている、ありふれたフローラルの香り。
でも、私にとっては、脳髄を痺れさせる毒ガスみたいに甘い。
「これ、明日の会議で使うから。読んどいて」
「あ、はい。了解です」
顔を上げて彼を見る。
目が合ったのは、ほんの0.5秒。
彼はすぐに視線を逸らして、給湯室へと歩いていった。
その背中を見送りながら、二人の私が同時に叫ぶ。
『ねえ、今ちょっと目があった時、笑ってなかった?』
『いや、完全に事務的な目だったでしょ』
『私にだけ、声色が優しかった気がする』
『自意識過剰。誰にでもあのトーンだよ』
どっち?
ねえ、どっちが正解?
【渡す私】は、今の彼の態度を「脈あり」の証拠としてファイル保存した。
「わざわざ直接渡しに来たのは、話す口実が欲しかったからじゃない?」
そんな都合のいい解釈が、脳内でピンク色の花を咲かせる。
【渡さない私】は、今の彼の態度を「脈なし」の証拠として突きつけた。
「目も合わせずに去っていった。あれが好意ある男の態度? ないわー」
そんな冷静な分析が、脳内で冷たい風を吹かせる。
同じ現実。
同じ3秒間。
なのに、解釈は180度違う。
どちらも、自分が傷つかないための防衛線を張っているだけ。
期待して裏切られるのが怖いから、「脈あり」を探す。
期待して裏切られるのが怖いから、「脈なし」だと決めつける。
根っこは同じだ。
私は、私が可愛い。
私が傷つくのが一番怖い。
「……あー、胃薬飲も」
私は引き出しから錠剤を取り出した。
二月十四日まで、あと二週間。
私のこの分裂症は、当日まで治りそうにない。
むしろ、どんどん悪化していく予感がする。
パソコンの画面に映る自分の顔が、今までで一番醜く歪んでいる気がした。
カレンダーの一枚目をめくった瞬間、そこにある「14」という数字が、呪いの刻印みたいに目に飛び込んでくる。
冬の乾燥した空気。
暖房の効きすぎたオフィスの埃っぽい匂い。
そして、どこからともなく漂い始める、甘ったるいチョコの気配。
私はデスクで、とある書類の承認印を押しながら、二つに分裂した。
いや、正確には、私の脳内で二人の私が殴り合いを始めたのだ。
『今年は渡す』と決めた私。
『今年は渡さない』と決めた私。
共通しているのは、どちらも死ぬほどビビっているということだけ。
「……はあ」
ため息が漏れる。
隣の席の後輩が「お疲れですか?」と聞いてくる。
「うん、ちょっとね」
曖昧に笑って誤魔化す。
この瞬間、私の世界は二つのレイヤーに分かれた。
***
【渡すと決めた私】の思考回路:
渡すしかない。
だって、このままだと何も変わらないから。
現状維持? 聞こえはいいけど、それは緩やかな死だ。
彼との距離は、今のままで十分心地いい。
でも、その「心地よさ」に甘えている間に、誰かが彼を奪ったら?
想像しただけで、心臓が雑巾絞りされたみたいに痛む。
だから、渡す。
別に告白するわけじゃない。
「日頃の感謝です」って顔をして、少し良いランクのチョコを渡すだけ。
それなら傷つかない。
それなら、「勘違い女」にはならない。
そう自分に言い聞かせて、私はスマホで『バレンタイン 本命 重くない』で検索をかける。
画面に並ぶ、「センスのいいチョコ」「男性が喜ぶブランド」の文字。
スクロールする指が震えている。
怖い。
もし、「え、これ俺に?」って困った顔をされたら。
「お返し面倒だな」って裏で言われたら。
***
【渡さないと決めた私】の思考回路:
渡すわけない。
この年でバレンタインに踊らされるなんて、正気の沙汰じゃない。
彼とはただの同僚。
ちょっと仲がいいだけの、他部署の先輩。
そこに色恋を持ち込んだ瞬間、この「ちょうどいい距離感」は崩壊する。
リスクが高すぎる。
もし渡して、変な空気になったら?
翌日から、今までみたいに軽口を叩けなくなったら?
そんなの、耐えられない。
だから、渡さない。
何もしない。
それが一番賢い大人の選択だ。
私はスマホで『バレンタイン スルー 正解』で検索をかける。
画面に並ぶ、「渡さない派が急増」「職場の義理チョコ廃止」の文字。
それを読んで、安堵のため息をつく。
そうだよね。みんなそうしてる。
私が臆病なんじゃない。
時代がそう言ってるんだ。
***
再び、現実のオフィス。
「あ、そうだ」
彼が通りがかりに、私のデスクに書類を置いた。
ふわりと、柔軟剤の匂いが鼻をくすぐる。
ドラッグストアで売っている、ありふれたフローラルの香り。
でも、私にとっては、脳髄を痺れさせる毒ガスみたいに甘い。
「これ、明日の会議で使うから。読んどいて」
「あ、はい。了解です」
顔を上げて彼を見る。
目が合ったのは、ほんの0.5秒。
彼はすぐに視線を逸らして、給湯室へと歩いていった。
その背中を見送りながら、二人の私が同時に叫ぶ。
『ねえ、今ちょっと目があった時、笑ってなかった?』
『いや、完全に事務的な目だったでしょ』
『私にだけ、声色が優しかった気がする』
『自意識過剰。誰にでもあのトーンだよ』
どっち?
ねえ、どっちが正解?
【渡す私】は、今の彼の態度を「脈あり」の証拠としてファイル保存した。
「わざわざ直接渡しに来たのは、話す口実が欲しかったからじゃない?」
そんな都合のいい解釈が、脳内でピンク色の花を咲かせる。
【渡さない私】は、今の彼の態度を「脈なし」の証拠として突きつけた。
「目も合わせずに去っていった。あれが好意ある男の態度? ないわー」
そんな冷静な分析が、脳内で冷たい風を吹かせる。
同じ現実。
同じ3秒間。
なのに、解釈は180度違う。
どちらも、自分が傷つかないための防衛線を張っているだけ。
期待して裏切られるのが怖いから、「脈あり」を探す。
期待して裏切られるのが怖いから、「脈なし」だと決めつける。
根っこは同じだ。
私は、私が可愛い。
私が傷つくのが一番怖い。
「……あー、胃薬飲も」
私は引き出しから錠剤を取り出した。
二月十四日まで、あと二週間。
私のこの分裂症は、当日まで治りそうにない。
むしろ、どんどん悪化していく予感がする。
パソコンの画面に映る自分の顔が、今までで一番醜く歪んでいる気がした。
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