【短編】手作りシュトーレンがカビ生えてた件

月下花音

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第1話:小麦粉と加齢臭の出会い

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「あ、あの……全卵を入れるタイミング、今でしょうか?」

私の隣で、情けない声がした。
日曜日の午後二時。駅前のカルチャーセンター。「初心者のための男のパン教室」という、タイトルからして地雷臭のする講座。
そこに、なぜか女性である私が混ざっているのには、深いわけがある。
単に「定年後の趣味探し」をしている父の付き添いだ。
なのに、父は今日、痛風の発作で欠席している。
キャンセル料がもったいないという理由だけで、四十五歳の私が代理出席しているのだ。

「……先生がおっしゃるには、バターが馴染んでからだそうです」

私は極力感情を殺して答えた。
声の主を見る。
田中さん、四十七歳(自己紹介で言っていた)。
小太り。眼鏡。頭頂部が少し寂しい。
そして、エプロンがキャラクターもの(多分、娘さんのお古)。

「あ、なるほど! ありがとうございます!」

田中さんは、パァッと顔を輝かせた。
その笑顔が、なんというか、ひどく無防備で、少しだけイラッとする。
この人、絶対仕事できないタイプだ。
ボウルを抱える手つきが危なっかしい。卵を割るだけで殻を入れるタイプだ。

「……殻、入ってますよ」

「えっ!?」

案の定だった。
彼は慌てて指をボウルに突っ込み、さらに事態を悪化させている。
私は溜め息をつきたくなるのを堪え、自分の生地を捏ねた。
パン生地の感触。赤ちゃんのほっぺたのような、柔らかくて温かい感触。
これだけが、今の私の癒しだ。

三年前、婚約破棄をされた。
相手は十歳下の部下だった。
「あつこさんは一人でも生きていけそうだから」
という、使い古された台詞を吐いて、彼は二十代の派遣社員の元へ走った。
それ以来、私の時間は止まっている。
仕事は順調だ。順調すぎて、管理職になり、部下からは「鉄の女」なんて陰で呼ばれているのも知っている。
一人で生きていける?
当たり前だ。生きていくしかないんだから。

「あつこさん、すごいですね! 手つきがプロみたいだ!」

田中さんが、私の手元を覗き込んで感嘆の声を上げた。
距離が近い。
加齢臭と、あと微かに柔軟剤の匂いがする。
独身特有の、生乾きの匂いじゃない。ちゃんと洗濯されている匂いだ。
……離婚歴あり、と言っていたか。

「……昔、少し習っていたので」

「へえー! 僕なんて、コンビニのパンしか食べたことなくて。あ、でも、娘がパン好きでね。『パパの作ったパン食べたい』なんて言うもんだから」

デレデレとした顔。
娘の話をする時だけ、この冴えない中年男は、少しだけ幸せそうに見える。
親権は元妻にあるらしいが、月に一度の面会日が楽しみで仕方ないらしい。

「……いいパパですね」

思わず、お世辞が出た。

「いやあ、そんなことないですよ。……あ、粉が!」

彼が勢いよくボウルを混ぜたせいで、小麦粉が舞い上がった。
私の黒いニットに、白い粉がかかる。

「あわわ! すみません! あつこさん、すみません!」

彼は慌てて、粉だらけの手で私の肩を払おうとした。
いや、それ逆効果だから。

「……触らないでください」

私の声が、思ったより低く響いた。
教室が一瞬、静まり返った気がした。
田中さんが凍りつく。

「あ……はい……」

彼はシュンとして、小さくなった。
その姿を見て、少しだけ胸が痛んだ。
言いすぎたかもしれない。
でも、イライラするのだ。
この人の、悪気のない不器用さが。
一生懸命やっているのに、全部空回りしている感じが。
まるで、自分の人生を見ているようで。

「……叩けば落ちますから」

私は自分で肩をパンパンと叩いた。
粉が舞う。
それはまるで、私の乾いた心から舞い上がる埃のようだった。

教室の帰り際、田中さんが待ち伏せしていた。
待ち伏せ、という言葉が不適切なほど、堂々と改札の前に立っていた。

「あの!」

「……はい?」

「これ、クリーニング代です!」

差し出されたのは、千円札が一枚。
裸のままで。

「……いりません。はたけば落ちたので」

「でも、僕の気が済まないんで!」

押し問答。
金曜の夕方の駅前で、中年男女がお金の押し付け合い。
端から見たら、借金の返済を迫っているように見えるかもしれない。

「……じゃあ」

私は千円札を押し返した。

「今度、美味しいパン屋教えてください。それでチャラにします」

なぜ、そんなことを言ったのか分からない。
ただ、この千円を受け取ったら、この人との縁が完全に切れてしまう気がした。
いや、切りたいはずなんだけど。
でも、あの不器用な笑顔を、もう一度見たいような気もして。

田中さんは、またパァッと顔を輝かせた。

「はい! 任せてください! ネットで調べときます!」

ネットかよ。
自分の足で探した店じゃないのかよ。
期待を裏切らないポンコツぶりだ。

「……連絡先、交換します?」

彼がおずおずとスマホを出した。
画面が割れている。
そして、待ち受けは娘さんの写真。

「……そうですね」

私たちは、QRコードを読み取り合った。
『田中』という素っ気ない表示が、私のLINEの友達リストに追加された。

これが、すべての始まりだった。
カビの生えたシュトーレン事件への、序章だった。

その夜、彼からメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。あつこさんのパン、すごく美味しそうでした。僕のは岩みたいでしたけど(笑)』
(笑)の使い方が、おじさん構文だ。
私は布団の中で、少しだけ笑った。
岩みたいなパン。
確かに、彼が焼いたパンは、鈍器になりそうなほど硬かった。

『次は頑張りましょう』

短く返信して、私はスマホを充電器に繋いだ。
バッテリーの減りが早い。
私の人生のバッテリーも、そろそろ折り返し地点を過ぎて、赤色点滅しているのかもしれない。
でも、今日は少しだけ、充電できたような気がした。

来月は、クリスマス特別講座だ。
シュトーレンを作るらしい。
「僕、絶対リベンジしますから! あつこさんに、最高のシュトーレン食べさせますから!」
別れ際に彼が宣言した言葉を思い出す。
最高のシュトーレン。
……嫌な予感しかしない。
でも、その予感が、まさかあんな形で的中するとは、この時の私はまだ知らなかったのだ。
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