【短編】手作りシュトーレンがカビ生えてた件

月下花音

文字の大きさ
2 / 5

第2話:シュトーレン熟成中

しおりを挟む

十二月に入り、街は急速にクリスマスモードに突入した。
独身中年女にとって、一年で最も呼吸がしづらい季節の到来だ。
スーパーに行けば「パーティーメニュー特集」のポップが踊り、
テレビをつければ「恋人と過ごすクリスマス」の特集ばかり。
「恋人がサンタクロース」なんて歌詞が聴こえてくるたびに、「サンタなんていねえよ、アマゾン配達員だよ」と心の中で毒づく日々。

そんな中、私のスマホは意外なほど賑やかだった。
『田中』からのLINEだ。

『あつこさん、これ見てください! 試作品1号です!』
写真が送られてくる。
黒い塊。
どう見ても、焼きすぎた隕石だ。

『……香ばしそうですね』
大人の対応で返信する。

『あつこさん、ドライフルーツのラム酒漬け、一週間漬けろって書いてあるんですけど、三日じゃダメですかね? 我慢できなくて』
『ダメです。待ってください』
『はい! あつこさんに言われたら待ちます!』

まるで駄犬だ。
待てと言われたら待つ。
でも、尻尾を振っているのが文面から透けて見える。

週に一度のパン教室以外でも、彼とのやり取りは続いた。
内容は主にパンの話(という名の失敗報告)と、娘の話、そして腰痛と尿酸値の話だ。
色気もへったくれもない。
でも、仕事終わりの疲れた脳には、彼の単純で裏のない言葉が、妙に心地よかった。

「あつこさん、最近スマホよく見てるわね」
職場の後輩に指摘された。
「え? そう?」
「なんか、表情が柔らかくなりましたよ。……もしや、彼氏ですか?」
「まさか。……ただの、パン友よ」
「パン友? 新しいマッチングアプリですか?」
「違うわよ」
否定しながら、少し動揺している自分がいた。

彼氏? 田中さんが?
ないない。ありえない。
あんな冴えない、不器用で、金もなさそうな(失礼)、ファッションセンス皆無の中年男だ。
私の好みは、もっとシュッとした、知的な……かつての婚約者のような……。
いや、止そう。
あいつは私を捨てたクズだ。
それに比べて、田中さんは。
私の黒いニットについた粉を、必死で払おうとしてくれた。
私の返信ひとつで、一喜一憂してくれる。
「あつこさんに食べさせたい」と、黒焦げの隕石を量産し続けている。

ある日、パン教室の帰りに、駅前のカフェに入った。
彼が「相談がある」と言うからだ。

「実は……クリスマスイブ、空いてますか?」
コーヒーを飲みながら、彼が切り出した。
カップを持つ手が震えている。
小刻みな振動が、コーヒーの表面に波紋を作っている。

「……特に予定はないですけど」
強がったわけではない。事実だ。
予定なんて、ここ数年「一人で高いワインを開けて、明石家サンタを見る」しかない。

「もしよかったら……その、僕の手作りシュトーレン、受け取ってくれませんか?」
「シュトーレンを?」
「はい。完成品を。……あと、もし良ければ、食事でも」
彼の顔が赤い。
店内の暖房のせいか、更年期のせいか、それとも照れか。
額に汗が滲んでいる。
加齢脂のテカリとともに。

私は少し迷った。
イブにデート。
それは、一線を超えることだ。
単なる「パン友」から、「イブを一緒に過ごす男女」への昇格(あるいは降格)。
この歳で、そんな面倒なことに足を踏み入れていいのか。
傷つくのも、失望するのも、もう嫌だ。
彼に対しても、自分に対しても。

でも。
「……いいですよ」
口が勝手に動いていた。
「本当ですか!?」
「はい。ただし、シュトーレンが黒焦げだったら帰りますからね」
「が、頑張ります! 最高傑作を作ります!」

彼は嬉しさのあまりか、コーヒーを飲み干そうとして、気管に入れたらしい。
「ブフォッ! ……ゲホッ、ゲホッ!」
盛大に咳き込んだ。
周りの客が冷ややかな視線を送る。
「汚い……」
私は呟きながら、紙ナプキンを渡した。
「すみません……ゲホッ……あつこさん、優しい……」
涙目で私を見る彼。
その情けない顔を見て、私はため息をつきつつ、少しだけ笑ってしまった。

本当に、手のかかるおじさんだ。
でも、一人で完璧に生きている(つもりの)私には、この「隙だらけ」の存在が、必要なのかもしれない。
心の隙間を埋めるのは、高尚な芸術や高価な宝石じゃなくて、
こういう「どうしようもない人間味」なのかもしれない。

帰り道、イルミネーションが輝く街路樹の下を二人で歩いた。
「綺麗ですねえ」
「そうですね」
「あつこさんの方が綺麗ですけど……なんて、あはは」
昭和のナンパ師みたいなセリフを吐いて、自分で笑って誤魔化す彼。
寒いはずの風が、少しだけ温かく感じた。

しかし、私は知らなかった。
彼が「最高傑作」と豪語するシュトーレンに、とんでもない秘密が隠されていることを。
そして、このロマンチック(になりかけた)なイブが、
カビと脂汗にまみれた地獄絵図に変わることを。

運命の十二月二十四日まで、あと一週間。
彼からのLINEが届く。
『シュトーレン、焼き上がりました! これから一週間、熟成させます! 楽しみにしててください!』
熟成。
そう、熟成。
本来シュトーレンは、焼いてからしばらく置いて、味を馴染ませるものだ。
しかし、保存方法を一歩間違えれば、それは「熟成」ではなく「腐敗」へのカウントダウンとなる。
湿度、温度、そして衛生管理。
ズボラで不器用な中年男に、厳密な管理ができるはずがなかったのだ。

私の知らぬところで、菌たちは静かに、確実に繁殖を始めていた。
私の淡い恋心を食い荒らすかのように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

番など、今さら不要である

池家乃あひる
恋愛
前作「番など、御免こうむる」の後日談です。 任務を終え、無事に国に戻ってきたセリカ。愛しいダーリンと再会し、屋敷でお茶をしている平和な一時。 その和やかな光景を壊したのは、他でもないセリカ自身であった。 「そういえば、私の番に会ったぞ」 ※バカップルならぬバカ夫婦が、ただイチャイチャしているだけの話になります。 ※前回は恋愛要素が低かったのでヒューマンドラマで設定いたしましたが、今回はイチャついているだけなので恋愛ジャンルで登録しております。

婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました

ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!  フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!  ※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』  ……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。  彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。  しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!? ※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています

皆が望んだハッピーエンド

木蓮
恋愛
とある過去の因縁をきっかけに殺されたオネットは記憶を持ったまま10歳の頃に戻っていた。 同じく記憶を持って死に戻った2人と再会し、再び自分の幸せを叶えるために彼らと取引する。 不運にも死に別れた恋人たちと幸せな日々を奪われた家族たち。記憶を持って人生をやり直した4人がそれぞれの幸せを求めて辿りつくお話。

【完結】シュゼットのはなし

ここ
恋愛
子猫(獣人)のシュゼットは王子を守るため、かわりに竜の呪いを受けた。 顔に大きな傷ができてしまう。 当然責任をとって妃のひとりになるはずだったのだが‥。

過去に戻った筈の王

基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。 婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。 しかし、甘い恋人の時間は終わる。 子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。 彼女だったなら、こうはならなかった。 婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。 後悔の日々だった。

すべてはあなたの為だった~狂愛~

矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。 愛しているのは君だけ…。 大切なのも君だけ…。 『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』 ※設定はゆるいです。 ※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

処理中です...