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第4話:王将と嘔吐の夜
しおりを挟む『……あつこさん? お返事がないけど、もしかして美味しすぎて気絶しちゃいました?(笑)』
追い打ちのLINEが来た。
気絶しそうだよ。違う意味で。
私はスマホを握りしめ、深呼吸をした。
どうする。
嘘をついて「美味しかったです」と言うか?
いや、無理だ。
こんな危険物を口にすることはできないし、嘘をついたらいつかバレる。
それに、これから「老後まで」付き合うかもしれない相手だ。
食中毒のリスクを共有するのは、パートナーとしての義務ではないか。
私は覚悟を決めた。
シュトーレンの写真を撮る。
フィルターなし。ありのままの、青々とした惨状を。
そして、送信ボタンを押した。
『田中さん。……これを見てください』
既読がつかない。
一分。二分。
地獄のような時間が流れる。
ピンポン。
通知音が鳴った。
『え』
一文字だけ。
『これ、カビですよね?』
私は追い打ちをかけた。
事実確認は大事だ。
『うわああああああああああああああああ!』
悲鳴のような文字列が送られてきた。
『すみません! すみません! 確認しないで包んじゃいました!』
『どうやって保存してたんですか?』
『一番暖かい、リビングの棚の上に……熟成が進むかと思って……』
バカか。
菌の培養に最適な環境を提供してどうする。
『食べてないですよね!?』
『食べる直前で気づきました。……匂いが変だったので』
『あああ……よかった……本当にごめんなさい……死にたい……』
田中さんの絶望が、画面越しに伝わってくる。
さっきの「大好きです」の余韻は、完全に吹き飛んだ。
『今から行きます!』
『えっ?』
『回収に行きます! そんな危険物、あつこさんの家に置いておけません!』
『いや、もう22時ですし、捨てますから』
『ダメです! お詫びもしないと気が済みません! 待っててください!』
彼は聞かなかった。
三十分後、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、鬼の形相(というか、泣きっ面のパニック顔)の田中さんが立っていた。
手には、ビニール袋を提げている。
ドアを開ける。
「あつこさん!」
彼は玄関先で土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。
「本当に、本当に申し訳ありませんでした!」
大声だ。近所迷惑だ。
「……入ってください。静かに」
私は彼を招き入れた。
彼が私の部屋に入るのは初めてだ。
本当なら、もっとロマンチックな展開で招くはずだったのに。
カビたパンの回収業者が来訪したようなムードだ。
リビングに通すと、テーブルの上に鎮座する「例のブツ」を見て、彼は崩れ落ちた。
「うわあ……本当に青い……」
「見事な培養ですね」
私の皮肉に、彼は縮こまった。
「……弁解の余地もありません。僕が愚かでした」
「で、その袋は?」
彼が持ってきた袋を指さす。
「あ、これ……お詫びと言ってはなんですが」
彼が取り出したのは、駅前の「王将」の箱だった。
「餃子と、チャーハンと、エビチリです。……まだ開いてる店、ここしかなくて」
クリスマスに、王将。
カビたシュトーレンの代償が、ニンニクたっぷりの餃子。
落差が激しすぎて、私は笑い出してしまいそうだった。
いや、もう笑うしかない。
「……食べましょうか」
「えっ、いいんですか? ていうか、シュトーレンは……」
「それは後で捨てます。せっかく買ってきてくれたんだし、温かいうちに」
私はキッチンから皿と箸を持ってきた。
缶ビールも開けた。
テーブルの真ん中には、カビたシュトーレン。
その横に、王将のテイクアウト。
なんてシュールな絵面だろう。
インスタ映えの真逆を行く、地獄のクリスマス・ディナー・リベンジ。
「……すみません」
彼は小さくなりながら、餃子を食べた。
「美味しいですね」
「……はい」
「ニンニク、効いてますね」
「……すみません、明日仕事なのに」
「いいですよ。マスクしますから」
私も餃子を頬張った。
美味しい。
さっきのイタリアンよりも、正直こっちの方が落ち着く。
気取らなくていい。
失敗を隠さなくていい。
ポンコツな彼と、それを受け入れている私。
「……あつこさん」
彼がビールを一口飲んで、私を見た。
「はい」
「こんな僕ですけど……嫌いにならないでくれますか?」
縋るような目。
カビを生やして、夜中に餃子持って押し掛けてくるような男。
普通なら、即アウトだ。
「生理的に無理」とブロックされる案件だ。
でも。
「……嫌いにはなれませんね」
私は正直に言った。
「えっ」
「だって、面白すぎるから」
「面白い……ですか?」
「はい。貴方といると、予想外のことばかり起きる。……飽きませんよ、きっと」
これは本音だった。
完璧なエリートと結婚していたら、きっと息が詰まっていただろう。
でも、この人は違う。
隙だらけで、穴だらけで、風通しが良すぎる。
「……ありがとうございます」
彼はまた泣きそうになっていた。
その時だった。
「あっ」
彼が急に顔をしかめて、胸のあたりを押さえた。
「どうしました?」
「いや……ちょっと、胸が……ドキドキして……」
「ときめいたんですか?」
「いや、そうじゃなくて……物理的に……」
彼の顔色が悪い。
脂汗が浮いている。
「えっ、大丈夫ですか!?」
私は慌てて背中をさすった。
ダウン越しでも分かる、彼の身体の熱。
「……餃子、食べ過ぎたかな……胃もたれかも……」
「ムードないこと言わないでくださいよ!」
「いや、でも……うっ、なんか、気持ち悪……」
最悪だ。
愛の再確認の直後に、胃もたれでダウン。
しかも、さっき食べた餃子の強烈なニンニク臭が、彼のゲップと共に漂ってくる。
「……トイレ、貸してください」
彼はヨロヨロと立ち上がり、トイレに駆け込んだ。
オエッ。
生々しい音が聞こえる。
私はリビングに取り残された。
目の前には、カビたシュトーレンと、食べかけの餃子。
そして、トイレからは彼が吐く音。
これが現実だ。
私の「最後の恋」の現場だ。
キラキラした幻想は、すべてトイレの水と共に流されていく。
でも、不思議と絶望感はなかった。
むしろ、「背中さすってあげなきゃ」と立ち上がる自分がいた。
ああ、私、もう逃げられないな。
この手のかかる、臭くて汚い現実を、愛していくしかないんだな。
介護の予行演習みたいなクリスマスの夜。
私は深い溜め息をつきながら、トイレのドアをノックした。
「……大丈夫ですか? 水、持ってきますね」
「すみません……あつこさん……」
情けない声。
でも、その声を聞いて、少しだけ安心している自分がいた。
綺麗じゃない。
全然、綺麗じゃないけれど。
孤独よりは、この騒がしい地獄の方が、まだマシな味がした。
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