5 / 5
第5話:カビと絆の結末
しおりを挟むトイレから戻ってきた彼は、幽霊のように青ざめていた。
「……スッキリしましたか?」
「はい……本当に、穴があったら入りたいです……」
彼はソファの端に小さく座り込んだ。
すっかり意気消沈している。
「まあ、お水飲んで落ち着いてください」
私は常温の水を渡した。
時計を見ると、もう二十三時を回っている。
「……終電、まだありますか?」
私が聞くと、彼はハッとして時計を見た。
「あ、やばい。……ギリギリかも」
「急いでください。泊めるわけにはいきませんから」
「はい! すみません!」
彼は慌てて立ち上がろうとして、今度は
「ぐきっ」
と嫌な音をさせた。
「痛っ!!」
腰を押さえて、その場に崩れ落ちる。
「えっ、ちょっ、田中さん!?」
「こ、腰が……ぎっくり……かも……」
「嘘でしょ!?」
神様は、どこまでこの男に試練(と私への嫌がらせ)を与えれば気が済むのか。
胃もたれの次は、ぎっくり腰か。
「うう……動けない……」
脂汗を流して呻く彼。
さっきまで「老後まで一緒に」とか言っていた男が、今まさに老人のように這いつくばっている。
「救急車……呼びますか?」
「いや、それは……恥ずかしいし……少し休めば……」
「でも、終電なくなりますよ」
「…………」
沈黙。
それはつまり、私の家に泊まる(というか、動けないから居座る)ことが確定した瞬間だった。
結局、彼はリビングのソファで朝を迎えることになった。
私は寝室から毛布を持ってきて、呻く彼にかけてやった。
「……すみません、あつこさん。こんなはずじゃ……」
「本当にね。最高のシュトーレン食べて、ロマンチックな夜になるはずだったのにね」
「……面目ないです」
「いいですよもう。……痛み止め、ありますから。飲みます?」
「はい……お願いします」
ロキソニンと水を渡し、私は彼を見下ろした。
情けない。
本当に情けない姿だ。
髪は乱れ、眼鏡はズレて、口からは微かに嘔吐の名残とニンニク臭がする。
これが、私の恋人だ。
「……寝てください。明日の朝、動けそうなら帰ってくださいね」
「はい……おやすみなさい……」
彼は弱々しく呟き、目を閉じた。
私は寝室に戻り、ベッドに入った。
眠れるわけがない。
リビングに、見ず知らずの(いや、恋人だけど)男が転がっていて、しかもカビたパンと餃子の匂いが充満しているのだ。
私は天井を見上げて、一人で笑った。
乾いた笑いだった。
「……何やってんだろ、私」
四十五歳のクリスマス。
本来なら、もっと穏やかで、大人の余裕に満ちた時間を過ごしているはずだった。
それが、介護と汚物処理とカビ騒動で終わるなんて。
涙が一筋、枕に吸い込まれていった。
悔し涙なのか、呆れ涙なのか、自分でも分からなかった。
翌朝。
恐る恐るリビングを覗くと、彼はまだソファで丸まっていた。
「……田中さん、生きてます?」
「……おはようございます……なんとか」
彼はゾンビのようにゆっくりと身を起こした。
「腰は?」
「まだ痛いですが……なんとか歩けそうです」
「そうですか。じゃあ、朝ごはん食べたら帰ってください」
「えっ、朝ごはんまで……?」
「空腹でロキソニン飲むと、胃が荒れますから」
私はキッチンに立ち、お粥を作った。
昨夜の残りの餃子は、見るのも嫌だったのでゴミ箱へ(シュトーレンと共に)葬った。
二人で向かい合って、お粥をすする。
静かな朝だ。
昨夜の騒動が嘘のように、冬の朝日が差し込んでいる。
「……美味しいです」
彼がしみじみと言った。
「レトルトですよ」
「それでも……あつこさんと食べる朝ごはんは、美味しいです」
彼は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
ああ、ダメだ。
絆されてる。
こんなヨレヨレの、加齢臭と思わぬトラブルのデパートみたいな男に、
「可愛い」と思ってしまっている自分がいる。
食後、彼は帰っていった。
何度も何度も頭を下げて。
「クリスマスのリベンジ、必ずしますから! 正月に、初詣行きましょう!」
懲りない男だ。
でも、その懲りなさが、今の私には救いなのかもしれない。
彼が去った後の部屋は、急に静かになった。
私は窓を開けて、換気をした。
加齢臭と、湿布の匂いと、微かなカビの匂いを追い出すために。
冷たい風が入ってくる。
身震いしながら、私はテーブルの上を見た。
そこには、彼が忘れていったマフラーがあった。
娘さんが選んだという、派手なチェックのマフラー。
私はそれを手に取り、少しだけ顔を近づけてみた。
臭い。
おじさんの匂いがする。
でも、その奥に、不器用な優しさと、人間くさい温もりが隠れている気がした。
「……バカみたい」
私はマフラーを畳んで、ソファに置いた。
来年は、ちゃんとした保存方法を教えよう。
そして、ぎっくり腰にならないように、一緒にストレッチでも始めようか。
完璧な王子様なんていない。
いるのは、カビを生やすパン作りおじさんと、
それを受け入れてしまう、寂しがり屋のおばさんだけ。
でも、それでいい。
この凸凹で、カビ臭くて、ポンコツな恋が、
私の人生の「最高傑作」になるかもしれないのだから。
スマホを取り出し、彼にLINEを送る。
『マフラー、忘れてますよ。……初詣の時に返します』
既読はすぐについた。
『ああっ! すみません! ……でも、会う口実ができてよかったです!』
相変わらずのポジティブさ。
私はスマホに向かって、小さく呟いた。
「……メリークリスマス、田中さん」
空っぽになったゴミ箱の中で、青いカビが生えたシュトーレンだけが、
この騒がしい夜の証人として、静かに眠っていた。
(第5話完)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
番など、今さら不要である
池家乃あひる
恋愛
前作「番など、御免こうむる」の後日談です。
任務を終え、無事に国に戻ってきたセリカ。愛しいダーリンと再会し、屋敷でお茶をしている平和な一時。
その和やかな光景を壊したのは、他でもないセリカ自身であった。
「そういえば、私の番に会ったぞ」
※バカップルならぬバカ夫婦が、ただイチャイチャしているだけの話になります。
※前回は恋愛要素が低かったのでヒューマンドラマで設定いたしましたが、今回はイチャついているだけなので恋愛ジャンルで登録しております。
婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました
ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!
フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!
※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』
……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。
彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。
しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!?
※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています
皆が望んだハッピーエンド
木蓮
恋愛
とある過去の因縁をきっかけに殺されたオネットは記憶を持ったまま10歳の頃に戻っていた。
同じく記憶を持って死に戻った2人と再会し、再び自分の幸せを叶えるために彼らと取引する。
不運にも死に別れた恋人たちと幸せな日々を奪われた家族たち。記憶を持って人生をやり直した4人がそれぞれの幸せを求めて辿りつくお話。
過去に戻った筈の王
基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。
婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。
しかし、甘い恋人の時間は終わる。
子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。
彼女だったなら、こうはならなかった。
婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。
後悔の日々だった。
すべてはあなたの為だった~狂愛~
矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。
愛しているのは君だけ…。
大切なのも君だけ…。
『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』
※設定はゆるいです。
※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる