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1.鍋と妥協
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11月20日。
まだクリスマスには早いけれど、街は気の早いイルミネーションで浮かれ始めている。
そんな世間の喧騒とは裏腹に、私たちの食卓は静まり返っていた。
今日の夕飯は鍋だ。
白菜と豚肉だけの、シンプルなミルフィーユ鍋。
ポン酢の酸っぱい匂いが、狭い1LDKのリビングに充満している。
「……いただきます」
「いただきます」
これだけの会話。
あとはテレビの音だけ。
バラエティ番組で芸人が水に落ちて笑いを取っているけれど、私たちにとっては何が面白いのか分からない。
ただのBGMだ。
沈黙を埋めるためのノイズ。
向かいに座っているのは、同棲して3年になる彼氏、ヨウスケ。
35歳。
システムエンジニア。
見た目は普通。
性格も普通。
年収も普通。
すべてにおいて「平均点」の男だ。
私は彼のこと、好きなのかな。
最近よく自問自答する。
付き合いたてのようなドキドキはない。
LINEが来ても既読スルーするし、デートもしない。
ただ同じ屋根の下で、同じ飯を食って、同じベッドで背中合わせて寝るだけ。
これを「家族愛」と呼ぶにはまだ早いし、「冷めきった関係」と呼ぶには情が残りすぎている。
いわゆる「倦怠期」ってやつかもしれないけど、倦怠するほどの熱量がそもそもあったかどうかも怪しい。
ヨウスケが白菜を啜る。
『ズズッ』
音がする。
ちょっと気になる。
クチャラーではないけど、麺類とか熱いものを食べる時だけ少し音が大きい。
昔は「男らしくていい」なんて思ったこともあった気がするけど、今はただの咀嚼音だ。
不快でもないけど、心地よくもない。
生活音の一部。
冷蔵庫のブーンという音と同じレベルだ。
「……白菜、安かった?」
ヨウスケが唐突に聞いてきた。
「うん。半玉で100円」
「へぇ。安いな」
「でしょ」
会話終了。
また沈黙。
これ以上広げる気がない。
私も広げる気がない。
話題がないわけじゃない。
今日会社であった部長の嫌味とか、後輩のミスとか、話したいことはある。
でも、話したところで「ふーん、大変だね」で終わるのが目に見えている。
共感を求めてないし、解決策も求めてない。
ただ聞いてほしいだけなんだけど、その労力すら惜しいと思ってしまう。
鍋の湯気が立ち上る。
私の眼鏡が少し曇る。
眼鏡を外して拭く。
視界がぼやける。
ぼやけた視界の中で、ヨウスケが黙々と肉を食べている。
この人と結婚するのかな。
32歳。
周りはどんどん結婚していく。
出産ラッシュだ。
SNSを開けば赤ちゃんの写真ばかり。
焦りがないわけじゃない。
でも、このぬるま湯のような関係を捨ててまで、新しい恋を探すエネルギーが私には残っていない。
婚活パーティーに行って、プロフィールカード書いて、値踏みされて、愛想笑いして……。
想像しただけで吐き気がする。
だったら、この味のしない白菜鍋をつついている方がマシだ。
「……シメ、うどんでいい?」
「おう。いいよ」
ヨウスケが頷く。
私は立ち上がってキッチンに向かう。
冷凍うどんをレンジで解凍する。
『チン』
電子音が響く。
この音が、私たちの関係の終了ゴングみたいに聞こえる時がある。
でも、まだ終わらない。
うどんを入れて、卵を落として、また二人ですする。
味ポンを追加する。
酸っぱい。
少ししょっぱい。
私たちの生活の味がした。
「……まあ、悪くないか」
心の中で呟いた。
最高の幸せではないけれど、不幸ではない。
この「妥協」という名の鍋底に沈んでいる安心感を、私はまだ手放せないでいる。
(つづく)
まだクリスマスには早いけれど、街は気の早いイルミネーションで浮かれ始めている。
そんな世間の喧騒とは裏腹に、私たちの食卓は静まり返っていた。
今日の夕飯は鍋だ。
白菜と豚肉だけの、シンプルなミルフィーユ鍋。
ポン酢の酸っぱい匂いが、狭い1LDKのリビングに充満している。
「……いただきます」
「いただきます」
これだけの会話。
あとはテレビの音だけ。
バラエティ番組で芸人が水に落ちて笑いを取っているけれど、私たちにとっては何が面白いのか分からない。
ただのBGMだ。
沈黙を埋めるためのノイズ。
向かいに座っているのは、同棲して3年になる彼氏、ヨウスケ。
35歳。
システムエンジニア。
見た目は普通。
性格も普通。
年収も普通。
すべてにおいて「平均点」の男だ。
私は彼のこと、好きなのかな。
最近よく自問自答する。
付き合いたてのようなドキドキはない。
LINEが来ても既読スルーするし、デートもしない。
ただ同じ屋根の下で、同じ飯を食って、同じベッドで背中合わせて寝るだけ。
これを「家族愛」と呼ぶにはまだ早いし、「冷めきった関係」と呼ぶには情が残りすぎている。
いわゆる「倦怠期」ってやつかもしれないけど、倦怠するほどの熱量がそもそもあったかどうかも怪しい。
ヨウスケが白菜を啜る。
『ズズッ』
音がする。
ちょっと気になる。
クチャラーではないけど、麺類とか熱いものを食べる時だけ少し音が大きい。
昔は「男らしくていい」なんて思ったこともあった気がするけど、今はただの咀嚼音だ。
不快でもないけど、心地よくもない。
生活音の一部。
冷蔵庫のブーンという音と同じレベルだ。
「……白菜、安かった?」
ヨウスケが唐突に聞いてきた。
「うん。半玉で100円」
「へぇ。安いな」
「でしょ」
会話終了。
また沈黙。
これ以上広げる気がない。
私も広げる気がない。
話題がないわけじゃない。
今日会社であった部長の嫌味とか、後輩のミスとか、話したいことはある。
でも、話したところで「ふーん、大変だね」で終わるのが目に見えている。
共感を求めてないし、解決策も求めてない。
ただ聞いてほしいだけなんだけど、その労力すら惜しいと思ってしまう。
鍋の湯気が立ち上る。
私の眼鏡が少し曇る。
眼鏡を外して拭く。
視界がぼやける。
ぼやけた視界の中で、ヨウスケが黙々と肉を食べている。
この人と結婚するのかな。
32歳。
周りはどんどん結婚していく。
出産ラッシュだ。
SNSを開けば赤ちゃんの写真ばかり。
焦りがないわけじゃない。
でも、このぬるま湯のような関係を捨ててまで、新しい恋を探すエネルギーが私には残っていない。
婚活パーティーに行って、プロフィールカード書いて、値踏みされて、愛想笑いして……。
想像しただけで吐き気がする。
だったら、この味のしない白菜鍋をつついている方がマシだ。
「……シメ、うどんでいい?」
「おう。いいよ」
ヨウスケが頷く。
私は立ち上がってキッチンに向かう。
冷凍うどんをレンジで解凍する。
『チン』
電子音が響く。
この音が、私たちの関係の終了ゴングみたいに聞こえる時がある。
でも、まだ終わらない。
うどんを入れて、卵を落として、また二人ですする。
味ポンを追加する。
酸っぱい。
少ししょっぱい。
私たちの生活の味がした。
「……まあ、悪くないか」
心の中で呟いた。
最高の幸せではないけれど、不幸ではない。
この「妥協」という名の鍋底に沈んでいる安心感を、私はまだ手放せないでいる。
(つづく)
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