声(ボイス)で、君を溺れさせてもいいですか

月下花音

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第1話

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 耳の奥が、とろける。
 脳髄が、甘いシロップに浸されるみたいに。

『……おはよう、俺のプリンセス』

 ノイズキャンセリングのイヤホン越し。
 世界で一番、甘い低音が、私の鼓膜を直接撫でる。

「……ん、ぅ……」

 満員電車の中だというのに、変な声が出そうになるのを必死で堪える。
 マスクの下で、口元が緩むのを止められない。

 私の名前は、音無(おとなし)リナ。
 どこにでもいる、平凡な女子大生。
 ……いや、一つだけ、平凡じゃないところがある。

 私は、重度の「声フェチ」で、不眠症で、そして――。
 正体不明のASMR配信者、「Nocturne(ノクターン)」様の、ガチ恋勢だ。

『……昨日は、よく眠れた?』

 ダミーヘッドマイクの左耳側から、吐息混じりの声。
 ゾクッ、と背筋に電流が走る。
 まるで、本当に隣に寝ているみたいに。
 唇が、耳たぶに触れるか触れないかの距離にあるみたいに。

「……眠れたよ、Nocturne様のおかげで……」

 スマホの画面に向かって、心の中で返事をする。
 画面の中のアバターは、黒い燕尾服を着た、顔のない紳士。
 素顔は誰も知らない。
 年齢も、職業も、住んでいる場所も。
 わかっているのは、この「神の声」だけ。

 それだけで、十分だった。
 現実の男なんて、いらない。
 だって、現実は――。

        ✎ܚ

 大学の講義室。
 いつもの席に座ると、隣から「……」という気配がした。

 気配、というか、空気。
 重くて、暗くて、湿った空気。

 チラリ、と横目で見る。
 そこにいるのは、黒いマスクをした男子学生。
 前髪が長すぎて、目が見えない。
 猫背で、いつも机の上のスマホをいじっている。

 声月(こえづき)律(りつ)。
 私の、隣の席の「陰キャ」だ。

「……あ、おはよう、声月くん」

 一応、挨拶をする。
 社会的なマナーとして。

 律は、ビクッと肩を震わせた。
 そして、マスクの下で何かをモゴモゴと言った。

「……す」

「え?」

「……ざ、す」

 ……聞こえない。
 蚊の鳴くような声、ですらない。
 空気の漏れる音だ、これは。

 律は、逃げるように視線を逸らし、またスマホの画面に没頭し始めた。
 会話、終了。
 所要時間、三秒。

(はぁ……)

 私は心の中で、盛大に溜息をつく。
 これだ。これが現実だ。
 Nocturne様みたいな、余裕のある大人の男なんて、どこにもいない。
 隣にいるのは、目も合わせられないコミュ障男子。

 私はスマホを取り出し、裏垢のSNSを開く。
 そこは、Nocturne様への愛を叫ぶためだけのアカウント。

『隣の席の男子、今日も空気。挨拶もまともにできないとか、マジでない。Nocturne様の爪の垢でも煎じて飲ませたい』

 送信。
 ふん、と鼻を鳴らす。
 ごめんね、声月くん。
 君に罪はないけど、比較対象が悪すぎるのよ。

 講義が始まる。
 教授の声が、遠くで響く子守唄のように聞こえる。
 私は頬杖をつきながら、またイヤホンを耳に押し込んだ。
 再生ボタンを押す。

『……君のこと、ずっと見てるよ』

 Nocturne様の声が、私だけの世界を満たす。
 隣の席の陰キャのことなんて、一瞬で忘れた。

 ……その時。
 隣の律が、カサッ、と動いた気がした。
 チラリと見ると、彼はスマホを見たまま、マスクの下で――。

 ほんの少しだけ、口元を緩めていた。

 ……え?
 笑ってる?
 あの陰キャが?
 何見てるんだろ。どうせ、アニメかゲームのまとめサイトでしょ。

 私は興味を失い、視線を黒板に戻した。

        ✎ܚ

 その夜。
 私はベッドの上で、正座待機していた。
 部屋の照明を落とし、アロマキャンドルを焚く。
 最高級のイヤホンを装着し、スマホの画面を凝視する。

 23:00。
 通知が来る。

『Nocturne 配信開始』

 キタッ!
 私は震える指でタップする。
 画面が暗転し、バイノーラルマイクの映像が映る。
 そして。

『……こんばんは』

 あああああ。
 脳が、溶ける。
 右耳から、左耳へ。
 低音が、ゆっくりと移動する。
 まるで、彼が私の後ろを歩きながら、囁いているみたいに。

『……待っててくれた? 俺のプリンセス』

「待ってた! 全裸待機してた!」(※パジャマです)

 コメント欄が、滝のように流れる。
 『待ってました!』『今日もイケボすぎ』『耳が妊娠する』
 同接数、すでに三万人。
 この全員が、彼の虜。
 でも、イヤホンをしている今だけは、彼は私だけのもの。

『……今日はね、ちょっと大学で、気になることがあって』

 Nocturne様が、ふと、世間話を始めた。
 珍しい。
 彼は普段、自分のプライベートをほとんど話さないのに。

『……隣の席の子がね、なんか、元気なかったんだ』

 え?
 隣の席?
 Nocturne様、大学生だったの?
 ……いや、そこじゃなくて。

『……挨拶したんだけど、なんか、俺のこと空気みたいに思ってるっぽくてさ』

 Nocturne様が、苦笑するような息遣いをもらす。
 『ハハッ……』という、乾いた笑い。
 その吐息が、マイクに当たって、ボフッ、と耳を打つ。

 ……ん?
 待って。
 今の話、なんか……。

 私は、昼間のことを思い出す。
 私が、律に挨拶した時のこと。
 『……す』『……ざ、す』。
 あれ、挨拶してくれようとしてたの?
 そして、私がSNSに書いた言葉。
 『隣の席の男子、今日も空気』。

 ……まさか、ね。
 偶然だよね。
 隣の席の子が元気ないなんて、よくある話だし。
 空気扱いされるなんて、陰キャあるあるだし。

『……だからさ』

 Nocturne様の声が、急に低くなる。
 マイクに、唇が触れるくらいの距離。

『……俺の声で、癒やしてあげたいなって思ったんだ』

 ゾクッ。
 背筋が、跳ねた。

『……君のことだよ。今、これを聴いている、君』

 え?
 私?
 いや、リスナー全員に向けて言ってるんだよね?
 でも、なんで……。

『……辛いこと、あった? 俺の前では、無理しなくていいよ』

 優しい。
 甘くて、深くて、どこまでも優しい声。
 昼間の、あの重苦しい空気とは正反対の。

『……おやすみ。いい夢を』

 チュッ。

 リップノイズ。
 キス音。
 耳の奥で、鼓膜が震える。
 熱い。
 耳が、顔が、首筋が、熱い。

 配信が終わっても、私はしばらく動けなかった。
 心臓が、早鐘を打っている。

 ……偶然だよね。
 Nocturne様が、あんな陰キャの律なわけがない。
 だって、声が全然違うし。
 律の声なんて、聞いたことないけど。

 でも。
 もし、万が一。
 あの「隣の席の子」が、私だとしたら?

 私は、スマホの画面を見つめる。
 真っ暗な画面に、自分の顔が映っている。
 赤面して、だらしない顔をした私が。

 ……明日。
 明日、律の声を、ちゃんと聞いてみよう。
 もし、少しでも似ていたら……。

 いや、ないない。
 絶対にない。
 だって、律だよ?
 あの、前髪お化けだよ?

 私は首を振って、布団に潜り込んだ。
 でも、耳に残る「おやすみ」の熱が、いつまでも冷めなかった。

 その熱が、
 まるで隣に彼が寝ているような錯覚を、
 朝まで私に見せ続けた。
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