声(ボイス)で、君を溺れさせてもいいですか

月下花音

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第2話

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 翌朝。
 私は、戦場に向かう兵士のような気分で大学に来ていた。

 作戦名:『陰キャの声を奪取せよ』。

 ターゲットは、隣の席の、声月律。
 目的は、彼の声を確認し、Nocturne様との同一人物説を完全に否定すること。
 そう、否定するためだ。
 肯定するためじゃない。
 あんな陰キャが私の神様だなんて、天地がひっくり返ってもありえないから。

 教室に入ると、律はすでに座っていた。
 相変わらずの黒マスク、長髪、猫背。
 机の上には、参考書と、スマホ。
 そして、黒いイヤホン。

(……イヤホン)

 Nocturne様も、配信で言ってた。
 『移動中は、自分の過去の配信を聴いてチェックしてる』って。

 ……いや、偶然。
 大学生なんてみんなイヤホンしてるし。

 私は深呼吸をして、席に着く。
 そして、鞄を置くふりをして、わざとらしくペンケースを落とした。

 ガシャーン!

 派手な音が響く。
 周囲の視線が集まる。
 もちろん、隣の律もビクッとしてこちらを見た。

「あ、ごめんなさい……」

 私は謝りながら、床に散らばったペンを拾う。
 さあ、律。
 何か言いなさい。
 『大丈夫?』とか、『拾うよ』とか。
 その声を聞かせて。

 律は、おろおろと視線を泳がせた。
 手を伸ばそうとして、引っ込めて。
 また伸ばして。

 そして、小さな声で言った。

「……あ」

 それだけ。
 「あ」。
 たった一文字。
 しかも、喉の奥で詰まったような、掠れた音。

 私はペンを拾いながら、心の中でガッツポーズ……じゃなくて、安堵した。
 全然違う。
 Nocturne様の声は、もっと深くて、艶があって、内臓に響くようなバリトンボイスだ。
 こんな、自信なさげなモスキート音じゃない。

「……ありがと」

 一応、手伝おうとしてくれたことにお礼を言う。
 律は、また「……す」と空気のような音を漏らして、自分の殻に閉じこもった。

 やっぱり、勘違いだ。
 私は晴れやかな気分で、講義を受けた。
 昨日の夜のドキドキを返してほしい。
 あんな陰キャに、一瞬でも夢を見てしまった自分が恥ずかしい。

        ✎ܚ

 その日の夜。
 私はいつものように、Nocturne様の配信を聴いていた。

『……今日は、ちょっと失敗しちゃってさ』

 Nocturne様が、苦笑混じりに話す。

『……目の前で、女の子がペンを落としたんだ。拾ってあげようと思ったんだけど、緊張しちゃって、何もできなかった』

 ……え?
 心臓が、ドクンと跳ねる。
 ペン?
 女の子?
 拾えなかった?

 いや、偶然。
 ペンを落とす女子大生なんて、日本に五万人はいる。

『……情けないよね。もっとスマートに、大丈夫?って言えればよかったのに』

 Nocturne様が、マイクに近づく。
 吐息が、耳にかかる。

『……あ、ごめん。マイク、触っちゃった』

 その時。
 彼が、小さく声を漏らした。

『……あ』

 時が、止まった。

 その「あ」。
 その、喉の奥で詰まったような、掠れた音。
 息を吸い込む瞬間の、わずかな摩擦音。

 今日、教室で聞いた音と。
 完全に、一致した。

 0.1秒のシンクロ。
 私の脳内で、二つの音が重なって、ハウリングを起こす。

 嘘。
 嘘でしょ?

 私は震える手で、スマホのボリュームを上げる。
 もっと、詳しく聞きたい。
 今の「あ」を、もう一度。

『……ふふ、驚かせちゃった?』

 Nocturne様が、いつもの甘い声に戻る。

『……次は、ちゃんと助けるから。……君のことも、俺が支えてあげる』

 甘い。
 とろけるように甘い。
 でも、今の私の耳には、その甘さが「毒」のように響く。

 もし、彼が律なら。
 あの陰キャの律が、この声を出しているなら。
 彼は、今、どんな顔をして配信しているの?
 あの黒マスクの下で、こんなに流暢に、こんなに色っぽく、喋っているの?

 想像してしまう。
 暗い部屋で。
 マイクに向かって。
 あの長い前髪の隙間から、妖艶な瞳を覗かせて。
 唇を、濡らして。

「……っ」

 私は、イヤホンをむしり取った。
 熱い。
 体が、カッと熱くなる。
 恐怖?
 それとも、興奮?

 わからない。
 でも、一つだけ確かなことがある。

 私はもう、律のことを「空気」だなんて思えない。
 明日、彼を見る目が、変わってしまう。

 スマホの画面には、まだNocturne様の配信が続いている。
 音のない画面の中で、波形だけが揺れている。
 その波形が、律の心臓の鼓動のように見えて。

 私は、震える指で、もう一度イヤホンを耳に入れた。
 確かめなきゃ。
 これが、ただの妄想なのか。
 それとも、残酷な現実なのか。

『……おやすみ。また明日、教室で……あ、夢で会おうね』

 今、教室って言おうとした?
 言おうとしたよね!?

 私の不眠症は、今夜も治りそうになかった。
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