【完結】迷惑だけど、離れたくない。~傲慢なエゴイストはグイグイくる君に焦がれる~

たるとタタン

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1話 迷惑な隣人

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静寂は、一ノ瀬玲(いちのせれい)にとって最も価値のあるものだった。
 
コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれたミニマルな空間。整然と並べられた専門書。

寸分の狂いもなく配置された模型。

その全てが、彼の思考をクリアにし、完璧な創造の源となっていた。
玲は、世界が注目する若き天才建築家。

彼の創り出す建築物は、無駄を削ぎ落とした機能美と、人を寄せ付けないほどの孤高の精神性を宿していると評される。

それは、彼自身を体現した姿でもあった。

だから、玲は一日のうちで最も集中力が高まるこの時間を邪魔されることを、何よりも嫌っていた。

コン、コン。

静寂を破る、遠慮がちなノックの音。
 
玲はペンを止め、眉間に深い皺を刻んだ。

時計はちょうど正午を指している。この時間に訪れる「招かれざる客」は、世界に一人しかいない。
 
無視を決め込んでいると、数秒の間を置いて、また控えめな音が響く。

コン、コン。

「……」

玲は深くため息をつき、鋭い声で言った。
 
「入るなと言っているはずだ」
 
しかし、その声が届いているのかいないのか、ドアノブがゆっくりと回り、隙間から太陽のような明るい髪が覗いた。

「玲さん、こんにちは! お昼、まだですよね?」

相葉陽(あいばはる)。

玲の事務所の隣にある古いアパートに住む、迷惑千万な隣人。
 
陽は玲の険しい表情にも怯むことなく、にこりと人懐っこい笑みを浮かべた。

その手には、可愛らしい犬の絵が描かれた風呂敷包みが握られている。

「誰に許可を得て入ってきた」
 
「ノックしましたよ? 返事がなかったので、お仕事に集中してるのかなって」
 
「集中しているのが分かっているなら、邪魔をするな。用がないなら帰れ」

玲は一切の感情を声に乗せず、事実だけを淡々と告げる。

常人ならこの時点で心を折られ、すごすごと退散するだろう。しかし、この男は違った。

「用ならあります! これ、今日の俺の自信作です!」

陽は嬉しそうに玲のデスクに近づくと、風呂敷包みをそっと置いた。

ふわりと、食欲をそそる温かい匂いが漂う。

「その得体の知れない物体は何だ」
 
「得体の知れないってひどいな! 栄養満点の生姜焼き弁当ですよ。昨日、夜遅くまで事務所の電気がついてたから、玲さん、きっと疲れてると思って」
 
「余計な世話だ。俺は自分の食事管理は自分でできる」
 
「コンビニのおにぎりばっかりじゃ、体壊しちゃいますって。ほら、ちゃんと野菜も入ってるし」

陽はまるで母親のように言いながら、玲が取り散らかした資料の山を、慣れた手つきで少しだけ端に寄せ、弁当を置くスペースを作った。

玲の領域に他人が踏み込むこと自体、本来なら許しがたい行為のはずだった。

だが、陽のそれは不思議と不快ではなかった。むしろ、その場所だけが秩序を取り戻したような、奇妙な感覚があった。

「……置いて、さっさと出ていけ」
 
「はい! じゃあ、ここに置いときますね。お仕事、頑張りすぎちゃダメですよ」

陽は満面の笑みを残すと、ぱたぱたと軽い足音を立てて事務所から出ていった。

再び訪れた静寂。

だが、先ほどまでの完璧な静寂とは、何かが決定的に違っていた。デスクの上に置かれた温かい弁当が、微かな存在感を放っている。

玲はしばらくその風呂敷包みを睨みつけていたが、やがて諦めたように手を伸ばした。

包みを解くと、中から現れたのは、彩り豊かな生姜焼き弁当だった。湯気の立つ白米、艶やかなタレが絡んだ豚肉、鮮やかな緑のブロッコリー、そして隅には、タコの形をした赤いウインナー。

「……子供か」

玲は呆れたように呟きながらも、箸を取った。

生姜の効いた甘辛い味付けが、空っぽだった胃に優しく染み渡っていく。

コンビニの無機質な味とは全く違う、人の手の温もりが感じられる味。

「……悪くない」

誰に言うでもなく漏れた言葉。

その時、自分の口角がほんの少しだけ緩んでいることに、一ノ瀬玲はまだ気づいていなかった。

玲は空になった弁当箱を前に、しばし逡巡した。

綺麗に洗って返すべきか。

いや、そんな義理はない。

そもそも勝手に置いていったのは向こうだ。

しかし、この可愛らしい犬の絵が描かれた風呂敷や弁当箱を、無造作にゴミ箱へ捨てるのは、彼の美学が許さなかった。

結局、玲は給湯室で弁当箱を洗い、水気を拭き取ると、風呂敷に包み直して事務所のドアの脇にそっと置いた。

これでいい。

あとは勝手に持って行くだろう。

その日の深夜、玲が全ての仕事を終えて事務所の鍵を閉めると、待ち構えていたかのように隣のアパートのドアが開き、陽がひょっこりと顔を出した。

「玲さん、お疲れ様です!」

「……まだ起きていたのか」

「玲さんの事務所の電気が消えるのが見えたので。はい、これ。夜食用のつもりだったんですけど、もう遅いから明日の朝ごはんにでも」

そう言って陽が差し出したのは、小さな紙袋だった。中からは、ほんのり甘いパンの香りがする。

「いらない」

「またまたー。お弁当、空っぽだったじゃないですか。玲さん、俺のごはん、本当は好きでしょ?」

「……勘違いするな。食べ物を捨てるのが嫌いなだけだ」

玲は吐き捨てるように言うと、陽の手から紙袋をひったくるように受け取り、自分のアパートの部屋へとさっさと歩き去った。

背後から「おやすみなさい、玲さん!」という明るい声が追いかけてくるのを、完全に無視して。

自室に戻り、無機質なテーブルの上に置かれた紙袋。

中には手作りの卵サンドが二つ入っていた。

その隣には、「お仕事おつかれさまです」と書かれた、犬のイラスト付きの拙いメモ。

「……本当に、迷惑な男だ」

呟きながらも、玲はその卵サンドを一つ、口に運んでいた。

こんな日々が、季節が一つ巡るほど続いた。

陽は毎日律儀に昼食を届けに来ては、玲に冷たくあしらわれ、それでも嬉しそうに帰っていく。

時には事務所の観葉植物に水をやったり、玲が脱ぎ捨てたジャケットをハンガーにかけたりと、その「侵略」行為は少しずつエスカレートしていった。

「一ノ瀬さん、相葉さん、また来てましたね」

事務所のスタッフであり、玲の一番弟子でもある桐谷が、苦笑しながら言った。

「無視しろといつも言っているだろう」

「でも、彼が来てくれるようになってから、一ノ瀬さん、少しだけ雰囲気が柔らかくなった気がしますよ。前はもっと、半径5メートル以内に誰も近づけないオーラが出てましたから」

「戯言を」

「それに、なんだかんだ言って、彼が置いていったお弁当、毎日完食してるじゃないですか」

図星を突かれ、玲は鋭い視線で桐谷を黙らせた。

だが、桐谷の言うことも、あながち間違いではないのかもしれない。

陽という予測不能なノイズが日常に加わってから、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んだような気がしないでもない。

もちろん、玲がそれを認めることは、金輪際あり得なかった。
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