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2話 砕かれた太陽
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秋が深まり、建築業界が一年で最も活気づく季節が訪れた。
その中心にあったのが、国が主催する「新時代の公共美術館」の設計コンペだった。
若手からベテランまで、国内外の有力な建築家がこぞって参加する、キャリアの集大成とも言える巨大プロジェクト。
玲がこのコンペにかける情熱は、並大抵のものではなかった。
「桐谷、ここの構造計算、もう一度やり直せ。誤差0.1ミリの狂いも許さん」
「先生、ですがこの数値は既に……」
「『ですが』じゃない。やれと言ったらやるんだ」
事務所内には、ピリピリとした緊張感が常に張り詰めていた。
玲は数日前から泊まり込みで作業を続け、その双眸には狂気にも似た集中力の色が浮かんでいる。
スタッフたちは彼の完璧主義に悲鳴を上げながらも、その圧倒的な才能に引きずられるようにして、必死に食らいついていた。
もちろん、そんな玲の様子を、隣人の陽が見過ごすはずがなかった。
「玲さん、顔色が紙みたいですよ。少しは寝ないと」
「……」
「夜食、作ってきました。温かいスープです。これだけでも飲んで」
深夜、静まり返った事務所に、陽の声が響く。玲は図面から顔も上げず、無視を貫く。
しかし、陽は諦めなかった。デスクの端にスープの入ったポットを置くと、散らかり放題の床に落ちている資料を拾い集め始めた。
「触るな!」
玲の、地を這うような低い声が響いた。
「あっ、ごめんなさい。でも、足の踏み場も……」
「俺の仕事場だ。俺のルールで動いている。君が手を出すな」
「だって、玲さんが心配です。あまり寝てないですよね」
「……心配?」
玲は初めて顔を上げ、冷え冷えとした視線で陽を射抜いた。
「君のそれは、ただの自己満足だろう。哀れな天才を世話してやっている健気な自分に酔っているだけだ。迷惑だと言っているのが、なぜ分からない?」
それは、あまりにも残酷な言葉だった。
陽の顔から、さっと血の気が引く。
いつも浮かべている人懐っこい笑顔が凍りつき、その大きな瞳が悲しそうに揺れた。
「……ごめんなさい」
か細い声でそれだけ言うと、陽は静かに事務所を去っていった。
玲は再び図面に目を落とす。静寂が戻った。集中できる。
これでいいのだ。
そう自分に言い聞かせたが、なぜか胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みが残っていた。
その日から数日間、陽は姿を見せなかった。
最初はせいせいしたと感じていた玲だったが、三日も経つと、奇妙な違和感に襲われるようになった。
正午になっても響かないノックの音。温かい弁当の匂いがしない、静かすぎる事務所。
深夜に帰宅しても、アパートの窓から漏れる明かりも、待ち構えているはずの明るい声もない。
彼の日常から、太陽が消えてしまったようだった。
「……集中できない」
イライラと呟き、ペンを放り出す。
陽がいないだけで、これほどまでに調子が狂うとは。
自分がいかに、あの迷惑な隣人の存在を前提として日々を過ごしていたか。
玲は認めざるを得なかった。
コンペの提出期限が、二日後に迫っていた。
事務所の中央テーブルには、この数ヶ月の玲の全てを注ぎ込んだ、美術館の巨大な建築模型が鎮座していた。
ガラスと特殊な樹脂を多用した、光が乱反射する美しいファサード。
内部の繊細な動線まで再現された、まさに彼の最高傑作と呼べるものだった。
その夜も、玲は一人、事務所で最後の仕上げに没頭していた。
スタッフは全員、玲の命令で帰らせた。
最終的な微調整は、他人の介入を一切許さない、彼だけの神聖な儀式だった。
疲労は限界を超えていた。コーヒーを何杯も流し込み、無理やり意識を覚醒させている状態だった。
その時、静かに事務所のドアが開いた。
そこに立っていたのは、数日ぶりに見る陽の姿だった。以前よりも少し痩せ、顔色も悪い。
だが、その手にはコーヒーの入ったポットが握られていた。
「……玲さん。これだけ、飲んで。お願いだから」
陽は、怯えたような、しかし強い意志を宿した瞳で玲を見つめていた。
玲の胸に、苛立ちと、それとは正反対の安堵にも似た感情が同時に湧き上がった。
だが、極度の疲労とストレスは、彼の口から素直でない言葉を吐き出させた。
「まだ懲りないのか。帰れと言ったはずだ」
「でも……」
「いいから帰れ!」
玲が声を荒げた、その時だった。
散らかった床に無造作に置かれていた設計図の束に、陽が足を取られた。
「わっ……!」
バランスを崩した陽が、咄嗟に何かに手をつこうと伸ばした腕。
その手が、よりによってテーブルの中央に置かれた模型の、最も繊細で象徴的な部分――光を取り込むために設計された、ガラスの尖塔に触れてしまった。
パリン、という乾いた音。
時が止まった。
玲の血の気が、一瞬で引いていく。陽の手が離れた後には、無残にも根元から折れ、床に砕け散ったガラスの尖塔の残骸があった。
このコンペのために、心血を注ぎ、魂を削って作り上げた完璧な芸術品。その中心が、今、目の前で破壊された。
「あ……」
陽の顔が、絶望に染まる。
「ご、ごめ……なさい……わざとじゃ、なくて……俺、そんなつもりじゃ……」
震える声で、必死に言葉を紡ぐ陽。
玲はゆっくりと立ち上がった。その顔からは一切の表情が消え、瞳の奥には、氷よりも冷たい光が宿っていた。
「……何をしたか、分かっているのか」
静かだが、心の芯まで凍りつかせるような声だった。
「これは、ただの模型じゃない。俺の全てだ。それを……お前は……」
玲は一歩、陽に近づいた。陽の体が恐怖で硬直する。
「君の存在そのものが、俺の人生のノイズなんだ」
吐き捨てるような、低い声。それは、先日彼を傷つけたと自覚していた言葉よりも、さらに深く、鋭利な刃となって陽の心を抉った。
「お前のその軽薄な善意が、その無邪気さが、何もかもを台無しにする。もう、うんざりなんだ」
「……っ」
「頼むから」
玲は、心の底からの憎悪を込めて、最後の言葉を告げた。
「もう二度と、俺の前に現れるな」
陽の大きな瞳から、光が消えた。
まるで魂が抜けてしまった人形のように、彼はただ呆然と立ち尽くしている。
涙も流さず、反論もせず、ただ、玲の言葉を全身で受け止めていた。
やがて、陽はふらりと踵を返し、力なくドアに向かって歩き始めた。
その背中は、今にも崩れ落ちそうなくらい、小さく、か弱く見えた。
カチャリ。
ドアが閉まる、無機質な音。
その音が、広すぎる事務所にやけに大きく響き渡った。
後に残されたのは、破壊された模型と、立ち尽くす玲、そして陽が置いていったコーヒーポットだけだった。ポットからは、まだ微かに温かい湯気が立ち上っていた。
玲は砕け散った模型の残骸を、感情のない瞳で見下ろしていた。
ようやく、忌々しいノイズが消えた。完璧な静寂が戻ってきた。これで仕事に集中できる。
そう、これでいいのだ。
そう思ったはずなのに、胸に開いた穴は、先日の比ではなく、あまりにも大きく、そして冷たかった。
その中心にあったのが、国が主催する「新時代の公共美術館」の設計コンペだった。
若手からベテランまで、国内外の有力な建築家がこぞって参加する、キャリアの集大成とも言える巨大プロジェクト。
玲がこのコンペにかける情熱は、並大抵のものではなかった。
「桐谷、ここの構造計算、もう一度やり直せ。誤差0.1ミリの狂いも許さん」
「先生、ですがこの数値は既に……」
「『ですが』じゃない。やれと言ったらやるんだ」
事務所内には、ピリピリとした緊張感が常に張り詰めていた。
玲は数日前から泊まり込みで作業を続け、その双眸には狂気にも似た集中力の色が浮かんでいる。
スタッフたちは彼の完璧主義に悲鳴を上げながらも、その圧倒的な才能に引きずられるようにして、必死に食らいついていた。
もちろん、そんな玲の様子を、隣人の陽が見過ごすはずがなかった。
「玲さん、顔色が紙みたいですよ。少しは寝ないと」
「……」
「夜食、作ってきました。温かいスープです。これだけでも飲んで」
深夜、静まり返った事務所に、陽の声が響く。玲は図面から顔も上げず、無視を貫く。
しかし、陽は諦めなかった。デスクの端にスープの入ったポットを置くと、散らかり放題の床に落ちている資料を拾い集め始めた。
「触るな!」
玲の、地を這うような低い声が響いた。
「あっ、ごめんなさい。でも、足の踏み場も……」
「俺の仕事場だ。俺のルールで動いている。君が手を出すな」
「だって、玲さんが心配です。あまり寝てないですよね」
「……心配?」
玲は初めて顔を上げ、冷え冷えとした視線で陽を射抜いた。
「君のそれは、ただの自己満足だろう。哀れな天才を世話してやっている健気な自分に酔っているだけだ。迷惑だと言っているのが、なぜ分からない?」
それは、あまりにも残酷な言葉だった。
陽の顔から、さっと血の気が引く。
いつも浮かべている人懐っこい笑顔が凍りつき、その大きな瞳が悲しそうに揺れた。
「……ごめんなさい」
か細い声でそれだけ言うと、陽は静かに事務所を去っていった。
玲は再び図面に目を落とす。静寂が戻った。集中できる。
これでいいのだ。
そう自分に言い聞かせたが、なぜか胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みが残っていた。
その日から数日間、陽は姿を見せなかった。
最初はせいせいしたと感じていた玲だったが、三日も経つと、奇妙な違和感に襲われるようになった。
正午になっても響かないノックの音。温かい弁当の匂いがしない、静かすぎる事務所。
深夜に帰宅しても、アパートの窓から漏れる明かりも、待ち構えているはずの明るい声もない。
彼の日常から、太陽が消えてしまったようだった。
「……集中できない」
イライラと呟き、ペンを放り出す。
陽がいないだけで、これほどまでに調子が狂うとは。
自分がいかに、あの迷惑な隣人の存在を前提として日々を過ごしていたか。
玲は認めざるを得なかった。
コンペの提出期限が、二日後に迫っていた。
事務所の中央テーブルには、この数ヶ月の玲の全てを注ぎ込んだ、美術館の巨大な建築模型が鎮座していた。
ガラスと特殊な樹脂を多用した、光が乱反射する美しいファサード。
内部の繊細な動線まで再現された、まさに彼の最高傑作と呼べるものだった。
その夜も、玲は一人、事務所で最後の仕上げに没頭していた。
スタッフは全員、玲の命令で帰らせた。
最終的な微調整は、他人の介入を一切許さない、彼だけの神聖な儀式だった。
疲労は限界を超えていた。コーヒーを何杯も流し込み、無理やり意識を覚醒させている状態だった。
その時、静かに事務所のドアが開いた。
そこに立っていたのは、数日ぶりに見る陽の姿だった。以前よりも少し痩せ、顔色も悪い。
だが、その手にはコーヒーの入ったポットが握られていた。
「……玲さん。これだけ、飲んで。お願いだから」
陽は、怯えたような、しかし強い意志を宿した瞳で玲を見つめていた。
玲の胸に、苛立ちと、それとは正反対の安堵にも似た感情が同時に湧き上がった。
だが、極度の疲労とストレスは、彼の口から素直でない言葉を吐き出させた。
「まだ懲りないのか。帰れと言ったはずだ」
「でも……」
「いいから帰れ!」
玲が声を荒げた、その時だった。
散らかった床に無造作に置かれていた設計図の束に、陽が足を取られた。
「わっ……!」
バランスを崩した陽が、咄嗟に何かに手をつこうと伸ばした腕。
その手が、よりによってテーブルの中央に置かれた模型の、最も繊細で象徴的な部分――光を取り込むために設計された、ガラスの尖塔に触れてしまった。
パリン、という乾いた音。
時が止まった。
玲の血の気が、一瞬で引いていく。陽の手が離れた後には、無残にも根元から折れ、床に砕け散ったガラスの尖塔の残骸があった。
このコンペのために、心血を注ぎ、魂を削って作り上げた完璧な芸術品。その中心が、今、目の前で破壊された。
「あ……」
陽の顔が、絶望に染まる。
「ご、ごめ……なさい……わざとじゃ、なくて……俺、そんなつもりじゃ……」
震える声で、必死に言葉を紡ぐ陽。
玲はゆっくりと立ち上がった。その顔からは一切の表情が消え、瞳の奥には、氷よりも冷たい光が宿っていた。
「……何をしたか、分かっているのか」
静かだが、心の芯まで凍りつかせるような声だった。
「これは、ただの模型じゃない。俺の全てだ。それを……お前は……」
玲は一歩、陽に近づいた。陽の体が恐怖で硬直する。
「君の存在そのものが、俺の人生のノイズなんだ」
吐き捨てるような、低い声。それは、先日彼を傷つけたと自覚していた言葉よりも、さらに深く、鋭利な刃となって陽の心を抉った。
「お前のその軽薄な善意が、その無邪気さが、何もかもを台無しにする。もう、うんざりなんだ」
「……っ」
「頼むから」
玲は、心の底からの憎悪を込めて、最後の言葉を告げた。
「もう二度と、俺の前に現れるな」
陽の大きな瞳から、光が消えた。
まるで魂が抜けてしまった人形のように、彼はただ呆然と立ち尽くしている。
涙も流さず、反論もせず、ただ、玲の言葉を全身で受け止めていた。
やがて、陽はふらりと踵を返し、力なくドアに向かって歩き始めた。
その背中は、今にも崩れ落ちそうなくらい、小さく、か弱く見えた。
カチャリ。
ドアが閉まる、無機質な音。
その音が、広すぎる事務所にやけに大きく響き渡った。
後に残されたのは、破壊された模型と、立ち尽くす玲、そして陽が置いていったコーヒーポットだけだった。ポットからは、まだ微かに温かい湯気が立ち上っていた。
玲は砕け散った模型の残骸を、感情のない瞳で見下ろしていた。
ようやく、忌々しいノイズが消えた。完璧な静寂が戻ってきた。これで仕事に集中できる。
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