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三話 失われた太陽
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コンペの提出期限まで、残り36時間。
玲は、砕けた模型の残骸を片付けることもせず、ただひたすらに作業を続けた。
破損した箇所は、予備のパーツを使い、徹夜で修復した。
その集中力は凄まじく、桐谷が出社した時には、模型は以前と寸分違わぬ、いや、むしろ悲壮なまでの完璧さを取り戻していた。
「先生……これ、一晩で……?」
桐谷は息を呑んだ。
玲はそれに答えず、最終チェックの指示を矢継ぎ早に飛ばす。
その姿はまるで、感情を捨て去った精密機械のようだった。
コンペのプレゼンテーションは、圧巻の一言だった。
玲は、自身の建築哲学と、この美術館が持つべき未来へのビジョンを、淀みなく、情熱的に語った。
審査員たちは彼の才能に感嘆し、会場は賞賛の渦に包まれた。結果は、言うまでもなく玲の圧勝だった。
キャリアの頂点を極めた瞬間。事務所は祝賀ムードに沸き、鳴り止まない祝福の電話に桐谷たちが追われていた。
しかし、玲の心は、不思議なほどに静まり返っていた。
手に入れたはずの栄光も、周囲からの称賛も、まるで他人事のように響く。
彼はただ、静かすぎる事務所の窓から、隣のアパートを見つめていた。
陽が住んでいるはずの部屋の窓は、カーテンが閉ざされたまま、固く閉ざされていたのだ。
「……ようやく、静かになった」
玲は誰に言うでもなく呟いた。
そうだ。これでいい。
これで、俺の日常は完璧な秩序を取り戻したのだ。あのノイズはもういない。
そのはずだった。
そんな思いとは裏腹に、心はぽっかり穴の空いたようなそんな気持ちだった。
翌日、玲は久しぶりに自宅のベッドで目を覚ました。
コンペが終わり、溜まっていた疲労が一気に噴き出したのだろう。
昼過ぎまで泥のように眠っていた。
空腹を覚えてキッチンに立つが、冷蔵庫にはミネラルウォーターしかない。いつもなら、陽が勝手に補充していたはずの牛乳も、卵もない。
仕方なくコンビニへ向かい、適当な弁当とコーヒーを買う。
事務所でそれを口に運ぶが、まるで砂を噛んでいるように味気なかった。
いつも食べていたはずの、あの温かい手作りの味を、舌が、体が、鮮明に記憶していた。
「たこウィンナーが食べたいな……はぁバカバカしい」
そう吐き捨てると玲は弁当を半分も食べずにゴミ箱へ捨てた。
そして、デスクに向かう。
新しいプロジェクトの構想を練らなければならない。
だが、真っ白な紙を前に、何も思い浮かばなかった。
あれほど湧き出ていたインスピレーションが、ぴたりと止まってしまったのだ。
静かすぎる。
思考を邪魔するものは何もない。
完璧な環境だ。
それなのに、頭の中は空っぽだった。
彼をオレは求めている。
「いつもみたいにバカみたいに騒ぐやつがいないと調子狂うな……」
カチ、カチ、と壁の時計の秒針だけが、やけに大きく響く。
その時、ふと視界の隅に入った観葉植物が、少しだけ萎れていることに気づいた。
陽が毎日のように水をやっていた、あの植物だ。
玲は無意識に立ち上がると、給湯室から水を汲んできて、その根元に静かに注いだ。
自分がこんなことをするなんて、以前の彼なら考えられなかっただろう。
「一ノ瀬さん、おめでとうございます!」
数日後、桐谷が晴れやかな顔で出社した。
「次のプロジェクト、早速いくつかオファーが来ていますよ。すごい反響です」
「……そうか」
「どうしたんですか? 元気ないですね。あ、そういえば、最近相葉さん、見ませんね。いつもならお祝いだって言って、ケーキでも持って飛んで来そうなのに」
桐谷の無邪気な一言が、玲の胸に突き刺さった。
「……あいつはもう来ない」
「え? どうしてです? 喧嘩でもしたんですか?」
「俺が、追い出した」
玲の淡々とした言葉に、桐谷は絶句した。
「そん……な……。あんなに一ノ瀬さんのこと……」
玲は桐谷の言葉を遮るように、仕事の指示を始めた。だが、その声には以前のような覇気はなかった。
日々は過ぎていく。
玲の日常は、陽が現れる前の状態に戻った。いや、それ以上に空虚で、色を失っていた。
朝、事務所に来て、夜、帰る。食事はコンビニか出前。誰とも必要以上の会話はしない。完璧な静寂。完璧な孤独。
それは、かつて彼が望んでいたはずの世界だった。
しかし、玲は今、その静寂の中で溺れそうになっていた。陽が置いていった些細な痕跡――少しだけ位置が変わっている本の角度、彼が拭いたせいで妙に綺麗な窓ガラス、そして今も微かに残る弁当の匂い――が、彼の不在を雄弁に物語っていた。
陽がいた日々は、確かに「ノイズ」だった。
彼の感情は、玲の合理的な世界では理解不能なバグのようだった。
だが、そのノイズが、自分の無機質な世界にどれだけの彩りと温かみを与えていたか。
彼の存在が、どれだけ自分の精神的な支柱となっていたか。
玲は、失って初めて、その途方もない事実に気づかされたのだ。
玲は、砕けた模型の残骸を片付けることもせず、ただひたすらに作業を続けた。
破損した箇所は、予備のパーツを使い、徹夜で修復した。
その集中力は凄まじく、桐谷が出社した時には、模型は以前と寸分違わぬ、いや、むしろ悲壮なまでの完璧さを取り戻していた。
「先生……これ、一晩で……?」
桐谷は息を呑んだ。
玲はそれに答えず、最終チェックの指示を矢継ぎ早に飛ばす。
その姿はまるで、感情を捨て去った精密機械のようだった。
コンペのプレゼンテーションは、圧巻の一言だった。
玲は、自身の建築哲学と、この美術館が持つべき未来へのビジョンを、淀みなく、情熱的に語った。
審査員たちは彼の才能に感嘆し、会場は賞賛の渦に包まれた。結果は、言うまでもなく玲の圧勝だった。
キャリアの頂点を極めた瞬間。事務所は祝賀ムードに沸き、鳴り止まない祝福の電話に桐谷たちが追われていた。
しかし、玲の心は、不思議なほどに静まり返っていた。
手に入れたはずの栄光も、周囲からの称賛も、まるで他人事のように響く。
彼はただ、静かすぎる事務所の窓から、隣のアパートを見つめていた。
陽が住んでいるはずの部屋の窓は、カーテンが閉ざされたまま、固く閉ざされていたのだ。
「……ようやく、静かになった」
玲は誰に言うでもなく呟いた。
そうだ。これでいい。
これで、俺の日常は完璧な秩序を取り戻したのだ。あのノイズはもういない。
そのはずだった。
そんな思いとは裏腹に、心はぽっかり穴の空いたようなそんな気持ちだった。
翌日、玲は久しぶりに自宅のベッドで目を覚ました。
コンペが終わり、溜まっていた疲労が一気に噴き出したのだろう。
昼過ぎまで泥のように眠っていた。
空腹を覚えてキッチンに立つが、冷蔵庫にはミネラルウォーターしかない。いつもなら、陽が勝手に補充していたはずの牛乳も、卵もない。
仕方なくコンビニへ向かい、適当な弁当とコーヒーを買う。
事務所でそれを口に運ぶが、まるで砂を噛んでいるように味気なかった。
いつも食べていたはずの、あの温かい手作りの味を、舌が、体が、鮮明に記憶していた。
「たこウィンナーが食べたいな……はぁバカバカしい」
そう吐き捨てると玲は弁当を半分も食べずにゴミ箱へ捨てた。
そして、デスクに向かう。
新しいプロジェクトの構想を練らなければならない。
だが、真っ白な紙を前に、何も思い浮かばなかった。
あれほど湧き出ていたインスピレーションが、ぴたりと止まってしまったのだ。
静かすぎる。
思考を邪魔するものは何もない。
完璧な環境だ。
それなのに、頭の中は空っぽだった。
彼をオレは求めている。
「いつもみたいにバカみたいに騒ぐやつがいないと調子狂うな……」
カチ、カチ、と壁の時計の秒針だけが、やけに大きく響く。
その時、ふと視界の隅に入った観葉植物が、少しだけ萎れていることに気づいた。
陽が毎日のように水をやっていた、あの植物だ。
玲は無意識に立ち上がると、給湯室から水を汲んできて、その根元に静かに注いだ。
自分がこんなことをするなんて、以前の彼なら考えられなかっただろう。
「一ノ瀬さん、おめでとうございます!」
数日後、桐谷が晴れやかな顔で出社した。
「次のプロジェクト、早速いくつかオファーが来ていますよ。すごい反響です」
「……そうか」
「どうしたんですか? 元気ないですね。あ、そういえば、最近相葉さん、見ませんね。いつもならお祝いだって言って、ケーキでも持って飛んで来そうなのに」
桐谷の無邪気な一言が、玲の胸に突き刺さった。
「……あいつはもう来ない」
「え? どうしてです? 喧嘩でもしたんですか?」
「俺が、追い出した」
玲の淡々とした言葉に、桐谷は絶句した。
「そん……な……。あんなに一ノ瀬さんのこと……」
玲は桐谷の言葉を遮るように、仕事の指示を始めた。だが、その声には以前のような覇気はなかった。
日々は過ぎていく。
玲の日常は、陽が現れる前の状態に戻った。いや、それ以上に空虚で、色を失っていた。
朝、事務所に来て、夜、帰る。食事はコンビニか出前。誰とも必要以上の会話はしない。完璧な静寂。完璧な孤独。
それは、かつて彼が望んでいたはずの世界だった。
しかし、玲は今、その静寂の中で溺れそうになっていた。陽が置いていった些細な痕跡――少しだけ位置が変わっている本の角度、彼が拭いたせいで妙に綺麗な窓ガラス、そして今も微かに残る弁当の匂い――が、彼の不在を雄弁に物語っていた。
陽がいた日々は、確かに「ノイズ」だった。
彼の感情は、玲の合理的な世界では理解不能なバグのようだった。
だが、そのノイズが、自分の無機質な世界にどれだけの彩りと温かみを与えていたか。
彼の存在が、どれだけ自分の精神的な支柱となっていたか。
玲は、失って初めて、その途方もない事実に気づかされたのだ。
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