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一章 矢車菊の青い瞳は
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視界に入ってきた天井に、ビーシュ・スフォンフィールは白く凍えた吐息を零した。
ひどく乱れたシーツは、もう一人の存在を示す名残ではあるが、肌の温度はすでになく、触れると氷のようにひんやりとしていた。
重いまぶたをこすり、ビーシュは眼鏡を探してシーツの上を這いずる。
目の悪さは生まれつきで、長く愛用している眼鏡がないとぼやけて何も見えない。
もしかしたら、見えていないだけで昨晩の相手はまだ同じ部屋にいるのかもしれない。
そんな、ありもしない妄想に浸っていたい気もするが、現実の残酷さは嫌になるほど知っている。もう、四十を過ぎた。さすがに、いつまでも子供ぶってはいられなかった。
昨晩の激しい情事の名残で鈍い四肢をなんとか動かし、探り出した眼鏡をつけると、薄暗い室内が一気に鮮明になった。痛みすら覚え、ビーシュは瞼を瞬く。
「……あぁ、寒いなぁ。もう、すっかり冬だね」
一糸まとわぬ体を抱きしめ、つぶやく。
冷えたシーツをたぐり寄せても、ちっとも暖かくならないし、むしろなおさら体が凍えそうだ。
とろり、と下肢から零れる精液すら氷のようで、言いようのない寂しさをいっそう加速させた。
とはいえ、いつものことだ。
少しばかり項垂れたのち、ビーシュは脱ぎっぱなしになっていた上着を床から拾い上げ、肩に掛けて「よっこらしょ」と立ち上がった。
古びて、枯れ木のようなビーシュの体でもきしきしと軋む床板を裸足で歩き、シャワー室に向かう。
安っぽく見える宿だが、珍しく、各部屋にシャワー室が取り付けられている。施設があるぶん値は張るが、古さのわりには綺麗に掃除もされていて、客の秘密もまあまあ守ってくれる。
貴族が使う高級宿屋ではないのでさすがに熱々の湯は出ないが、汗と精を流せるだけじゅうぶんだろう。
自宅に戻らず、直接職場に出勤しなければならないビーシュにとって、とても都合の良い宿屋だ。
「また、心配されちゃうかな」
扉の向こうから聞こえてくる、朝の支度に忙しそうな店主の声が、お説教のように思えてきた。
夜遊びもいい加減にしておけ、なんて、逢い引き宿の店主には似つかわしくない台詞を、ビーシュは何度も何度も頂戴していた。
身につかない説教のあとには、従業員部屋で、ささやかな朝食をビーシュに振る舞ってくれる。いつも、一人で目を覚ますビーシュを憐れんでくれているのかもしれない。
逢い引き宿の従業員と顔なじみになるなんて、普通は面倒でしかないだろう。ひと目を忍ぶ必要があるからこそ、利用する宿なのだから。
店主も、ビーシュ以外の利用客には、きちんと距離を保って接している。分別をきちんとわきまえていても、手を差し伸べたくなるほど憐れに思われているのかもしれないが。
好意でも、同情でも、ビーシュからすればどっちでもかまわなかった。店主のお節介のおかげで、虚しさを抱えたまま帰らなくてすんでいるのはたしかだ。誰かと一緒に食べる食事も、嬉しい。
「今日は、昼までに行けば大丈夫だったかなぁ」
亜麻色の髪を、後ろで一つにまとめていたひもを解く。
シャワー室前に置かれた簡素な棚に、使用後のタオルと一緒に、新品がひとつ置かれていた。
乱暴に丸めて置かれたタオルを、ビーシュはじいっと見つめる。
人だけが、忽然と部屋から消えていた。
いつものことだ。
ビーシュは乾いているほうのタオルを手に取って、ふかふかした感触を確かめるよう抱きしめると、石けんのさわやかな香りにほっと息が漏れた。
柔らかい感触は、求めてやまないぬくもりを、ビーシュに錯覚させた。
ビーシュは石けんの匂いに鼻を鳴らしながら、シャワー室ではなく部屋に戻り、ベッドの側、サイドテーブルの上に放り置かれた財布を持ち上げた。
「全部、持って行かれるよりは……まだ、ましかなぁ。歩いて戻るのは、ちょっと疲れるしね」
……良くなかったのかな。
昨晩、深夜の酒場で買った年下の男。
くすんだ金髪と灰色がかった瞳。
体つきはがっしりとしていただろうか。すでに、顔の細部はおぼろげだ。
所詮、一晩の相手だ。寄せる思いはない。快楽があれば、それでよかった。
約束よりもずっと多く札が抜かれていたのは、思ったよりも良くなかったからだろう。
どんくさい自分が、大して若くもない冴えない男が、どうして喜びを与えられるだろう。
ビーシュは軽い財布をサイドテーブルに戻し、今度こそシャワー室へと歩いて行った。
まるで、悪夢を見ているようだ。
数時間前まで、たしかに他人と体を繋げていたのに、目が覚めるといつも独りぼっちになっている。
夢魔に化かされているようだが、現実はテーブルの上に置かれてあった。
いつもそうだ。
ビーシュは棺桶のような狭い部屋に体を押し込んで、蛇口をひねった。
なけなしの金でひとときのぬくもりを買っても、すぐに泡となって消える。
おとぎ話のように、残酷だ。
「しばらくは、また……一人かな」
生ぬるいお湯が、顔をしとしとと濡らした。
ひどく乱れたシーツは、もう一人の存在を示す名残ではあるが、肌の温度はすでになく、触れると氷のようにひんやりとしていた。
重いまぶたをこすり、ビーシュは眼鏡を探してシーツの上を這いずる。
目の悪さは生まれつきで、長く愛用している眼鏡がないとぼやけて何も見えない。
もしかしたら、見えていないだけで昨晩の相手はまだ同じ部屋にいるのかもしれない。
そんな、ありもしない妄想に浸っていたい気もするが、現実の残酷さは嫌になるほど知っている。もう、四十を過ぎた。さすがに、いつまでも子供ぶってはいられなかった。
昨晩の激しい情事の名残で鈍い四肢をなんとか動かし、探り出した眼鏡をつけると、薄暗い室内が一気に鮮明になった。痛みすら覚え、ビーシュは瞼を瞬く。
「……あぁ、寒いなぁ。もう、すっかり冬だね」
一糸まとわぬ体を抱きしめ、つぶやく。
冷えたシーツをたぐり寄せても、ちっとも暖かくならないし、むしろなおさら体が凍えそうだ。
とろり、と下肢から零れる精液すら氷のようで、言いようのない寂しさをいっそう加速させた。
とはいえ、いつものことだ。
少しばかり項垂れたのち、ビーシュは脱ぎっぱなしになっていた上着を床から拾い上げ、肩に掛けて「よっこらしょ」と立ち上がった。
古びて、枯れ木のようなビーシュの体でもきしきしと軋む床板を裸足で歩き、シャワー室に向かう。
安っぽく見える宿だが、珍しく、各部屋にシャワー室が取り付けられている。施設があるぶん値は張るが、古さのわりには綺麗に掃除もされていて、客の秘密もまあまあ守ってくれる。
貴族が使う高級宿屋ではないのでさすがに熱々の湯は出ないが、汗と精を流せるだけじゅうぶんだろう。
自宅に戻らず、直接職場に出勤しなければならないビーシュにとって、とても都合の良い宿屋だ。
「また、心配されちゃうかな」
扉の向こうから聞こえてくる、朝の支度に忙しそうな店主の声が、お説教のように思えてきた。
夜遊びもいい加減にしておけ、なんて、逢い引き宿の店主には似つかわしくない台詞を、ビーシュは何度も何度も頂戴していた。
身につかない説教のあとには、従業員部屋で、ささやかな朝食をビーシュに振る舞ってくれる。いつも、一人で目を覚ますビーシュを憐れんでくれているのかもしれない。
逢い引き宿の従業員と顔なじみになるなんて、普通は面倒でしかないだろう。ひと目を忍ぶ必要があるからこそ、利用する宿なのだから。
店主も、ビーシュ以外の利用客には、きちんと距離を保って接している。分別をきちんとわきまえていても、手を差し伸べたくなるほど憐れに思われているのかもしれないが。
好意でも、同情でも、ビーシュからすればどっちでもかまわなかった。店主のお節介のおかげで、虚しさを抱えたまま帰らなくてすんでいるのはたしかだ。誰かと一緒に食べる食事も、嬉しい。
「今日は、昼までに行けば大丈夫だったかなぁ」
亜麻色の髪を、後ろで一つにまとめていたひもを解く。
シャワー室前に置かれた簡素な棚に、使用後のタオルと一緒に、新品がひとつ置かれていた。
乱暴に丸めて置かれたタオルを、ビーシュはじいっと見つめる。
人だけが、忽然と部屋から消えていた。
いつものことだ。
ビーシュは乾いているほうのタオルを手に取って、ふかふかした感触を確かめるよう抱きしめると、石けんのさわやかな香りにほっと息が漏れた。
柔らかい感触は、求めてやまないぬくもりを、ビーシュに錯覚させた。
ビーシュは石けんの匂いに鼻を鳴らしながら、シャワー室ではなく部屋に戻り、ベッドの側、サイドテーブルの上に放り置かれた財布を持ち上げた。
「全部、持って行かれるよりは……まだ、ましかなぁ。歩いて戻るのは、ちょっと疲れるしね」
……良くなかったのかな。
昨晩、深夜の酒場で買った年下の男。
くすんだ金髪と灰色がかった瞳。
体つきはがっしりとしていただろうか。すでに、顔の細部はおぼろげだ。
所詮、一晩の相手だ。寄せる思いはない。快楽があれば、それでよかった。
約束よりもずっと多く札が抜かれていたのは、思ったよりも良くなかったからだろう。
どんくさい自分が、大して若くもない冴えない男が、どうして喜びを与えられるだろう。
ビーシュは軽い財布をサイドテーブルに戻し、今度こそシャワー室へと歩いて行った。
まるで、悪夢を見ているようだ。
数時間前まで、たしかに他人と体を繋げていたのに、目が覚めるといつも独りぼっちになっている。
夢魔に化かされているようだが、現実はテーブルの上に置かれてあった。
いつもそうだ。
ビーシュは棺桶のような狭い部屋に体を押し込んで、蛇口をひねった。
なけなしの金でひとときのぬくもりを買っても、すぐに泡となって消える。
おとぎ話のように、残酷だ。
「しばらくは、また……一人かな」
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