心と口と行いのなかで

南河 紅狼

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一章 矢車菊の青い瞳は

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 冬空の帝都の空は、青く高い。
 遠征先の草原地帯とはまた違った趣の空を見上げて、レオンハルト・オスカーは長旅にこわばった背中を思い切り伸ばした。
「ずいぶんと、疲れた顔をしているなオスカー。おまえ、休暇の申請が出ていないが、いいのか?」
 声をかけてきたのは、遠征先で隊長をつとめていたルノア・ノリス大佐だ。短く刈り上げた髪と無骨な造作は、まさに武官といった様子だ。
 貴族出身の、見た目からしてぼんぼんとしたレオンハルトとは全くもって正反対の人種ではあるが、誰に対しても偏見を挟まない気さくなノリスは、最良の上司だった。
「必要な書類を仕上げるまで、まとまった休暇は取れません。さすがに、今日、明日は親族への挨拶をしなくてはなりませんので、休暇をいただきますがね」
「書類ぐらい、部下に押しつけてしまえ。婚約者が首を長くして待っているんだろう? そのまま、長期休暇も申請していしまえばいいのに」
 荷台から降ろされた積み荷を受け取りながら、レオンハルトはノリスの言う婚約者の顔を脳裏に思い浮かべ、軽く吹き出した。
「さぁて、どうでしょうかね。相手は幼少の頃より顔をつきあわせている幼なじみですが、なかなか男勝りの気質を持っておりまして。しおらしい顔が全くもって、想像できません」
「贅沢者めが。あんな美しい女性を娶るのだ、もっと態度に表さなければ失礼だろう。独身者に嫉妬されて、背中から刺されてしまうぞ」
 ノリスは朗らかに笑い、自分の荷物を受け取るとさっさと歩いて行ってしまった。生まれたばかりの子供の様子を見に行くのだろうか、後ろ姿でもわかるほど嬉しそうだった。
 レオンハルトが従事した遠征は、半年ほど。期間としては、短いほうだ。
 国境側で繰り広げられるつばぜりあいの増援という形で参加したが、実際に前線にかり出されるのは下士官ばかりで、レオンハルトのような士官学校からの持ち上がりの、いわゆる貴族軍人は、砦周りの守備をしていた。
 戦場である以上、それなりに緊張した雰囲気はあったが、命のやりとりからはほど遠い場所で時間をつぶしている間に、両親が勝手に縁談話を進めていた。
 なかなか浮いた話をしないレオンハルトに、両親はいい加減に身を固めてほしいとしびれを切らしたのだろう。
 二人いる兄はすでに身を固めていて、子供もたくさんいる。
 跡取りの問題はないのだから焦る必要などないが、貴族という手前、それなりに世間体があるのだろう。
 年頃の男が独身でふらふらしているのが、どうにも気に入らないようだった。
「だからといって、なにもエリスを相手に選ばなくたっていいだろうに」
 エリス・アーカム。両親がレオンハルトの相手に選んだのは、よりにもよって幼少の頃からつるんでいた女性だった。
 生涯をともにする相手が幼なじみだなんて、さすがにレオンハルトも苦笑を禁じ得なかった。
 性格はおろか、顔すら知らない相手のほうが、まだすんなりと引き受けられたかもしれない
「贅沢者、か。たしかにエリスの見目は良いけれどね。中身の裏返しだよ。まあ、面の皮が厚いのは、僕も一緒だけれど」
 エリスもレオンハルトと同じく、容姿も家柄もなんら申し分のないくせに三十を過ぎてもなお独身を貫いている変わり者だ。
 もらい手が現れない残りもの同士、くっつけておくのが手っ取り早いとでも思われたのかもしれない。
「僕はともかく、エリスは本当に結婚を決めてしまっていいのかなぁ。一緒に過ごすのは問題ないけれど、彼女と子供を作れるかどうか……小さい頃を知っているだけに、自信がないな」
 ふらふらと、のんべだらりと過ごし、気づけば三十二になっていたレオンハルトはともかく、美女で教養のあるエリスが独身を気取っているのは何かしらの理由がありそうだ。
 エリスの秘めたる真意を問いただすほどの興味は抱かないが、特に断る理由がなかったのは双方一緒だったようだ。
 意外なほどすんなりと、本人のいないうちに婚約話は進み、戦地で話を聞きつけた同僚たちに、いつ結婚するのかと茶化されるようにもなった。
「やれやれ、僕がもてはやされる立場になるなんて思ってもみなかった。結婚しても、しばらくはからかわれるんだろうかな」
 女性との経験はいくつかあるが、どれもうまくいかず、うやむやのうちに関係が終わるのが常だった。
 友人が言うには、のらりくらりとやり過ごすレオンハルトの性格が、女性にとって面白くなく、ひじょうにまずいらしい。
 本気なのか、遊びなのかわからない。そう、言われた気もする。誰だったかはもう、顔も思い出せないが。
 レオンハルトは軍の宿舎に戻る仲間と別れ、軍部の外にある乗り合い馬車の停留所を目指した。
「お帰りなさい、オスカー少尉」
 混雑した停留所にたどり着くと、若々しい声に呼び止められた。
 レオンハルトと同じように帰郷の途につく軍人たちの屈強な体を押しのけ、栗色の髪をした青年が駆け寄ってきた。
「久しぶりだね、ニルフ。しばらく会わないうちに、すっかり大きくなった。見違えたよ」
「少尉こそ、俺たちのために命をかけてくださり感謝しています。無事のご帰還、うれしくおもっています」
 きまじめなニルフの返答に、レオンハルトは自分よりもいっそ軍人らしいなと、苦笑を返した。
「ありがとう。でも、おおげさだよ、ニルフ。僕のような貴族上がりの軍人は、お飾りみたいなものだからね」
 小さい頃と同じように、柔らかいニルフの髪をなでた。
 垢抜けない笑顔が魅力的なニルフは、このまま、何事も問題なく話が進めば、レオンハルトの弟になる。
 周囲に流されるまま婚約を決めたレオンハルトとエリスの乗り気のなさとは対照的に、ニルフは心の底から二人の縁談を喜んでいるようだった。
「僕を、出迎えにきてくれたのかな?」
 のろのろとやってきた乗合馬車には乗らず、レオンハルトは停留所に止まっている個人所有の馬車に視線を向けた。
「ええ、遠征から戻られると聞きましたので、早速姉にお逢いいただけないかと。なにせ、婚約が決まってからまだ一度も、顔を合わせてはいないでしょう?」
 ニルフが指を指す先、アーカム家の家紋が描かれた馬車があった。
「エリスとは、小さい頃から嫌と言うほど顔を合わせているからねぇ」
 今更、と言いかけたレオンハルトの袖を引っ張り、ニルフは問答無用と歩き出した。
 ニルフは軍人ではないが趣味で武術を習っており、体つきはレオンハルトよりもずっとしっかりしている。
 振り払う気ももとよりなく、レオンハルトはなすがまま、引っ張られていった。
「小さい頃って、片手で足りる年齢まででしょう? 確かに姉のお転婆さは、今でも健在ですけど、いつまでも子供のままじゃありません」
「あいかわらず、君はエリスが好きなんだね」
「姉弟じゃなければ、俺が姉さんと結婚していたかもしれませんね」
 冗談めいた台詞だが、ちらっと振り返ったニルフの目は決して笑ってはいなかった。
「なら、君がエリスの面倒を見てあげればいいじゃないか」とは、思ってもさすがに口にはできない。
 鍛えられた拳で殴られては、たまらない。
 美醜を気にするほうではないが、顔の形が変わるほどの痛みはさすがに嫌だった。
「オスカー家の方々には、俺からすでに到着が遅れるとお伝えしてあるので大丈夫ですよ」
「用意が良いね、別に帰りが遅れても問題はなかったのに。僕がまさか、戦争で死ぬなんて誰もおもっちゃいないよ」
 父も、二人の兄も軍人だ。
 家業で軍人をやっているレオンハルトとは違い、もっとずっと真摯につとめを果たしている彼らは貴族の特権をよく知っている。
「オスカー少尉」
「レオンでいいよ。昔は、そう呼んでくれていただろう?」
 人混みをかき分け、アーカム家所有の馬車にたどり着く。
 出てきた御者に荷物を預けると、軽くなった肩にレオンハルトはほっと息をついた。
「レオンさん、姉さんを……」
 切羽詰まった表情のニルフが顔を上げた時だ、レオンハルトは小さな悲鳴をきいて、ニルフから視線を逸らした。
 こつん、と。つま先に何かが当たった。
「おやおや、これはなんだろう」
 きらきらと光る、ちいさな石のようなもの。
「なっ、なんですかそれ、気持ち悪い」
 手元を覗き込んだニルフが、嫌悪感をむき出しにする。
 レオンハルトが拾ったのは、深い緑色をした眼球だった。むろん、本物ではない。ひんやりとした硬質的な感触は石のようだった。
「これは、義眼のようだね。とても、綺麗だな」
 人差し指と親指で摘まんで持ち、レオンハルトは拾った義眼を日の光にかざす。
 つるっとした、鏡のような表面。
 ゆがみのない球体。
 光彩の部分に使われている石は、ペリドットだろうか。医療用というよりは、宝飾のようだった。
「あっ、そ……それ」
 しげしげと義眼を眺めていたレオンハルトは、消え入りそうな声に顔を向けた。
「これ、あなたのものかな?」
 問えば、男はこくこくと頷いて見せた。
 用がなければ一般人の来ないようなところだ。男は軍の関係者なのだろうが、軍人ではないだろう。争いごとには、小指の先ほども縁がなさそうな温和とも、気弱とも思える雰囲気だ。
 いぶかしがるニルフから離れ、レオンハルトは緊張するようぎゅっと握りしめられた男の手をそっと取った。
「落としたせいか、すこし傷が入ってしまっているね。綺麗なのに、残念だ」
「……き、きれい?」
 指を一本一本、そっとひろげ、義眼を手のひらにのせて握らせる。ぎゅっと握りしめる姿は、幼い子供のようだ。
「うん、綺麗だった。もしかして、あなたがつくったのかな?」
 おずおずと顔を上げた男の、すみれ色の瞳をじいっとのぞき込み、レオンハルトは思っていたよりも年上であることに驚き、ほほえみ返す。
「――っ、あ、ありがとう」
 引き絞るような声を残し、男はレオンハルトを突き飛ばす勢いできびすを返して走り去っていった。
 軍部の方角、やはり軍の関係者なのだろう。ならば、いつかまた、どこかで会えるかもしれない。
「いったい、なんなんですかあの男。ろくに礼も言わないで。大丈夫ですかレオンさん」
 嫌悪をあらわにするニルフに、レオンハルトはまあまあと宥めて、乱れた襟を正した。
「問題ないよ。それよりも、エリスに会いに行こうか。到着が遅れたから、ずいぶんと、待たせているんじゃないかな」
 苛烈な性格の割には辛抱強いエリスではあるが、我慢にも限界はあるはずだ。
 彼女の機嫌に左右された幼少時代を思い出し、いまも変わらない破天荒な性格をしているのだとしたら、さぞ、男には苦労したに違いない。
(いや、彼氏のほうが苦労したんだろうなぁ)
 レオンはほほえましく思った。
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