心と口と行いのなかで

南河 紅狼

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二章 真実の口

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 手持ちぶたさというわけではないが、診察の予定や急ぎの調整が入っていないと、ひっきりなしにやってくる内科や外科とは違って日常的にやれる仕事は少ない。
「ぼくが暇をもてあましているってことは、良い兆候なんだろうけどね。国のためとはいえ、手足を失うような大けがはやっぱり悲しいものね」
 大きな戦争がない限り、装具技師としての仕事は定期的な点検や細部の調整が多い。
 今も、片足を失って前線を退いた軍人の、新しく作り直した義足の調整を行っている最中だ。
 外科や内科のように、命に関わる仕事ではないが、人生に大いに関わる仕事だ。
「誇りをもて、おじいちゃんはいつも言っていたね。ぼくももう、仕事を始めて十五年経つけど、まだまだ自信が持てない。なんて、泣き言を漏らしていたら怒られるかな」
 げんこつは、まず間違いないだろう。
 写真嫌いだったため、祖父の形見は譲り受けた義手制作の道具のみだ。使い古され、年期が入っている。手に馴染むまで、相当の年月が掛かったが、とてもいい道具だ。
 ビーシュに装具技師の技をたたき込んだ祖父は、帝都の長い歴史の中でも、もっとも苛烈な時代を生きたひとだろう。
 昔は、今よりもずっと多くの戦があった。現在の帝都の繁栄は、侵略と略奪、多くの死によって築き上げられた代物だ。美しい街並みに隠されていて、容易にはわからないが。
 ろくな設備も知識も乏しい状況で、人生の殆どを患者とともに過ごした祖父は、恐ろしい人ではあったものの、同業者としては尊敬に値する人物だった。
 年老い、一線を退いた祖父は家族と住もうとせず、独り、郊外の農村で余生を過ごしていた。
 両親に捨てられ、行き場をなくしたビーシュが転がり込んでくるまでは、平和な老いを噛みしめていたのかもしれない。
「だめだね、喋っていないと考えすぎてしまう。ぼくの、悪い癖だよ」
 ひとりになると、思考が迷子になる。たのしい記憶ばかりをちりばめられていたらいいが、思い出す物事の大抵は散々な過去だった。ひどく気が滅入るとわかっているのに、止められないのだ。
 普段はなけなしの理性でもって考えないように努めているが、ふと気が緩むとすぐにかさぶたをかきむしっている。
 ビーシュは気持ちを切り替えようと席を立ち、ゆっくりとした足取りでキッチンへ向かった。
「さすがに二日続けてだと、体が痛いなぁ。ぼくも、歳だよね。エヴァンさんはよく、平気だなぁ。ぼくより年上なのに、とても元気なんだもの」
 ビーシュは重くてだるい腰をとんとんとたたき、苦笑を零す。
 サファイアを譲る代わりに、抱かせて欲しい。
 申し訳なく思うほどの好条件を受け入れたビーシュは、ほぼ毎晩、エヴァンを訪ねて高級宿へと足を伸ばしていた。
 そのまま部屋で、あるいは近場の宿屋で。ゆるりと食事をし、杯を交わし、体をつなげる。
 エヴァンは戸惑うほどに優しく、真摯にビーシュを抱いた。いっときの戯れであるはずなのに、それこそ、恋人の睦言のような夜を送っている。
 地に足がついていないような、ふわふわとした感覚は、起きながら夢の中にいるようだった。
 ビーシュは緩む頬を軽く叩いて、棚から珈琲豆の入った缶を取り出す。
「もうすぐ、フィンくんが戻ってくるのにふらふらして。こんなんじゃ、子供みたいに心配されちゃうよ。ただでさえ、いつも迷惑をかけているのにね」
 蓋をひねって開けて、ビーシュは「あらら」と眉をひそめる。豆がだいぶ減っていた。
 そういえば、と胃をさする。体が重いのは夜の情事だけだと思っていたが、もしかしたら珈琲の飲み過ぎもあるのかもしれない。
 考え事をしていると、ついつい珈琲の量が増える。
 胃を痛める前にフィンに注意されて事なきを得るのだが、あいにくと、監督官は出張で留守にしている。
「怒られちゃうなぁ」
 心配したじゃないですか。頬を膨らませて怒るフィンの顔が、くっきりと脳裏に浮かび上がってくる。 
 体調の心配をされるのは嬉しいが、だからこそ、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 珈琲の缶を棚に戻し、ビーシュは少し冷めた白湯をそのままカップに注いだ。
 作業台には戻らず、キッチンに体重を預けたまま白湯を飲むと、暖かい吐息が煙となって静かな工房を漂う。
「どうして、昔のことばかり思い出すんだろうね。季節のせいかな」
 ここ最近は助手のフィンが側にいたので、仕事のことだけを考えていられた。
 勤勉なフィンはビーシュを軽んじることなく、装具技師の師として敬ってくれた。
 あちこちに視点が飛びがちなビーシュのつたない会話を、辛抱強く聞いてもくれる。若いのに、良くできた青年だ。
 誰かと話すのが楽しいと思えるようになったのは、フィンのおかげだろう。
「そうか、ぼくはきっと寂しいんだ」
 好きになればなるほど、大事に思えば思うほど、手放す瞬間を感じずにはいられない。
 楽しかったものすら、手を離れた瞬間、色を失い。すべて、灰色の過去となる。
「ぼくは、馬鹿だな。ほんとうに、馬鹿だ。どうして、自分で全部台無しにしてしまうんだろう」
 大切なものを、色あせないまま抱えていることができない。
 美しい思い出として、しまっておけないのだ。
 分不相応なまでに、欲深い。手元にないと、興味を持てないなんて。
 生暖かいカップを両手に持ち、ビーシュはポケットを探って小さな青い石を取り出した。
 サファイアの原石。
 エヴァンが秘蔵しているサファイアとは比べものにもならない低い等級だが、色味はとても気に入っていた。
 途方もない年月がたっても、色を失わない宝石をじっとみていると、不安に揺れていた心が少しずつ落ち着いてゆくように思える。
 ビーシュは「ありがとう」とささやいて、サファイアの原石に口づけを落とした。
「フィンくんは、帰ってきてくれるかなぁ?」
 本当に、よくできた青年だからこそ辛い気持ちになる。
 フィンが工房を出て行くと言い出すときが来たら、寂しさに泣いてしまうかもしれない。
 残って欲しいとは言えないから、見送るしかないのだが。
 ビーシュはカップを置いて、サファイアの原石を握りしめたまま作業台に戻った。
 義足用の道具を手早く片付けて、引き出しから趣味用の道具を引っ張り出し、サファイアを台に固定する。
 うだうだと、必要のないことを考えるときは、なにかに没頭しているのが一番だ。
 ビーシュが何よりも夢中になれるものは、原石の研磨だ。
 歓楽街をうろつく男と懇意になった男が、ビーシュの手先の器用さに気づき、面白半分で宝石研磨の技を教えてくれた。
 色あせたものばかりの思い出の中で、唯一、色が残っている日々かもしれない。生活の面でも、男にはとても世話になった。
 宝石と向き合っているあいだは、過ぎ去ったはずの時間が、色鮮やかにビーシュの中に浮かび上がってくる。
 漠然とした寂しさは薄れ、目の前にある石をどうやって輝かせようかと、そればかりになっていった。
 じいっとサファイアを見つめるビーシュの脳裏に、鮮やかな青色が散る。
 忘れられない。
 忘れたくない、青。
 凜と輝く、深いサファイアブルーの瞳を思い出すと、胸が痛いほどに締め付けられる。
 じれた吐息を飲み込んで、ビーシュは小さなサファイアの原石と向き合った。
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