心と口と行いのなかで

南河 紅狼

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二章 真実の口

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 結局、昼を告げる鐘の音がなるまで、ビーシュは作業に没頭していた。
 研磨作業は一息ついたところなので、気持ちよく席を離れられる。
「お腹が空いてきちゃったな」
 昼食をうっかり食べ損ねるのは日常茶飯事で、普段からあまり食べないせいかおざなりになりがちだが、エヴァンと会う夜は必然とまともな食事を取るようになり、それなりに胃が広がったようだ。
 珍しく、ぐう。と鳴る腹の虫を宥めるよう腹を撫で、ビーシュはせっかくなので軍病院内の食堂に行くことにした。
 中身の入った財布を白衣のポケットに突っ込み、研磨の終わったサファイアを反対側のポケットにそっと入れて席を立つ。
 外出中の札をドアに引っかけ、戸締まりを確認したビーシュは、階段を上って一階に出て、軍病院の中央にある中庭をとてとてと突っ切って進んだ。
 職員や医師だけでなく、一般の人も利用する食堂なので、鐘が鳴る前に並んでいないと、席が空くまで立ち尽くすはめになるほど、混み合う。
 人混みに囲まれるのは大の苦手でなので、いつも時間を外して行こうと思い、そのまま、別の作業に没頭して食いっぱぐれる。結局、昼夜兼用といった食生活が基本だ。
 昼に食堂に赴くのは、ビーシュにとって本当に珍しい行動だった。
「きょうのメニューはなんだろうね」
 軍病院と言っても辛気くささはなく、硝子窓から差し込んでくる日差しはたっぷりとしていて、廊下はつねに明るい。
 大きな戦争の後はさすがに修羅場と化すが、普段の様子はほほえましいくらい優しく、平和な場所だった。
 狭苦しく薄暗い自宅よりもずっと、軍病院のほうが、ビーシュにとっていやすい住環境だった。
 小児科に入院している子供たちに手を振って、ビーシュが食堂にたどり着いた頃には、すでにたくさんの行列ができていた。
 あわてて小走りになって列の後ろに並んだものの、ずらっと並ぶテーブルは人であふれんばかりだ。
 相当待たなければ、座れないだろう。
「よわったな、今日は本当にお腹が空いてる」
 めずらしく、ぐうぐうと鳴る腹を抱える。
 人に言われてからもそもそと食事をとるのが常だったビーシュが、自ら空腹を覚えるのは本当にまれだ。
 久しぶりすぎて、なんだか、悲しくなってさえきた。どれほど、人らしい生活をしていなかったのだろうと頭を抱えたくなる。
 前方、注文口付近に立っていた顔見知りの医師が列に並ぶビーシュに気づき、手を振った。
 自然と集まってきた視線に気恥ずかしさを感じ、はにかみながら手を振りかえして、ビーシュは食堂のメニューを探してきょろきょろと首を動かした。
 軍医になってだいぶ経つのに、受け持ちの診察室と工房以外の施設をビーシュは把握できていない。
 白衣を着ていなかったら、遠くの街からやってきた見舞客にしか見えないだろう。
 あまりにも見当たらず、真剣になりすぎて立ち止まったままのビーシュは、咳払いとともに肩を押されてつんのめった。
 不意を突かれたせいか、勢いがついていたか。転ばないようにと一歩、二歩進み、気づけば列から飛び出していた。
「あっ、あぁ~」と、なんとも情けない声が出る。
 昼時の食堂は、戦争だ。
 振り返ったときにはもう隙間はなく、自分がどこに立っていたのかわからなくなっていた。
「あの、よろしければ私の前にいらっしゃいます?」
 声をかけてくれたのは、年配の女性だった。軍病院と言っても軍人だけを見るのではなく、一般人の外来も受け付けている。
 女性は患者だろう、右手に白い包帯を巻いていた。
「いえ、大丈夫です。みんな忙しいのに、ぼんやりしていたぼくも悪いので」
「あなたが悪いわけないでしょう、ちゃんと並んでいたのに。押した人がいけないのよ」
 親切な人だ。ビーシュは女性のために、にこやかな笑みを作って首を振った。
 申し出はありがたく頂戴したいところではあるが、事情をつかめていない周囲の人たちは明らかに不満そうな顔をしていた。
 女性はかまわないと言いそうだが、親切な人が恨まれるのはビーシュのほうが面白くおもわない。
「声をかけてくださって、ありがとうございます。はやく、良くなるといいですね」
 団体客が出て行ったのか、列の進みが一気に早くなり、戸惑う女性は気まずそうな顔のまま注文口のほうへと押し流されていった。
「やれやれ、どうしようかな」
 食堂が落ち着く頃合いを見計らって、出直すべきだろうか。
「めんどうくさい、なんて言ったらフィンくんに怒られてしまうかなぁ」
 腹は減っている。
 けれど、元から食については無頓着だった。
 工房にビスケットの缶でもなかっただろうか、ひとかけでも口にいれてしまえば、空腹感は満たされてしまうだろう。
 ビーシュは邪魔にならないよう食堂を出て、中庭まで戻った。
「最終手段は珈琲だけど、さすがに駄目だよねぇ」
 冬の初めの中庭は、ちらほらと控えめな花弁を持つ花が開いている。
 中央にある東屋は、食後の腹ごなしをしている医師たちに譲り、ビーシュは常緑樹の木の下に置かれているベンチに座った。
 風はひんやりとしているが、差し込んでくる日差しはぽかぽかと暖かく、まどろむにはちょうど良い気持ちよさだ。
「どうしたの?お昼も食べずにお昼寝かな」
「……えっ?」と、顔を上げたビーシュは、明るい日差しを背にして覗き込んでくる青い瞳に、ぽかんと口を開いた。
「お久しぶり。と、言っても、覚えてくれているかな?」
 ビーシュは驚いた拍子に鼻からずれ落ちた眼鏡を持ち上げ、頷いた。
 何度も、何度も頷くビーシュを、青年はうれしそうに微笑んで受け止めてくれた。
「数日前、軍部の前にある乗合馬車の停留所で、ぼくの落とし物を拾ってくれたよね。ありがとう」
「偶然だよ。それに、ただ拾っただけだしね。そんなに一生懸命、お礼をいわれるようなものじゃない」
「隣、いいかな?」と、視線でベンチを指す青年に、ビーシュは慌てて頷き、腰を浮かして一人分の空きを作った。
「僕は、レオンハルト・オスカー。あなたは? 軍医のようだけど」
 真昼の明るい日差しの中で、きらきらと輝くサファイアブルー。
 拳一つ分の間をあけて隣に座ったレオンハルトの魅惑的な目に見つめられ、ビーシュは言葉を失い、息継ぎを忘れた。
「やっぱり、綺麗だ」
「僕の何が、あなたの心を捕らえているのだろう? 知りたいな」
 くす、と。笑い声に、ビーシュは我に返って口を押さえ、赤面した。「ごめんなさい」と背中を向ける。
「謝らなくてもいいよ」
 言葉の通り、緩やかな声音のレオンハルトに、ビーシュはほっとして肩の力をわずかに緩めた。
 夢中になると、我を忘れがちになる。若い頃も年を取った今でも思い悩んでいる悪癖だった。
「ビーシュ。ビーシュ・スフォンフィールです。軍病院で、装具技師をしています」
 軍医で、自分の診察室を持っているビーシュは、少佐のバッジをつけているレオンハルトよりもずっと階級は上で、年齢も一回りほどうえだ。
 へりくだって敬語をつける必要など少しもないのだが、気弱な性格がたたって強気に出られないでいた。
「なるほど、どうりで見た覚えのない顔だったんだね。幸いにも、僕の近隣者には義手や義足を必要とする人がいなかったから。ビーシュに会う機会は、いまのいままでなかったんだね」
 レオンハルトは「人の顔と名前を覚えるのは得意なほうなんだ」と言って、背中を向けたまま縮こまるビーシュの肩を叩いた。
「教えて、ビーシュ」
 そっと、子供をあやすようにささやかれる声。
 上官に向かって、失礼なやつだ。そう、つっぱねたって問題ないはずなのに、ビーシュはぶるっと体を震わせ、レオンハルトを振り返った。
 一対のサファイアブルーに見つめられ、息が詰まり、呼吸がぜいぜいと荒くなる。
 どうしてだろう。
 自分でも、理解しきれていない。
 数少ない出会いの中で、印象に残った瞳を模してビーシュは義眼を作る。
 忘れないように、色あせてしまわないように、宝石にわずかな望みを託して磨き上げる。
 昨日、不覚にも落として傷をつけたペリドットは、逢い引き宿の従業員のものだ。時折、朝食の後に優しく慰めてくれた彼は、仕事を新しくしてから会う機会はなくなってしまった。
「目が……とても、綺麗で」
 おかしなことを言っている。ビーシュは消え入る声でぼそぼそと、白状した。
 レオンハルトの瞳は、宝石のように美しい。
 上質の、サファイア。
 いま、ポケットの中にあるサファイアでは、やはり釣り合いそうにない。
「僕の目が、好きなの?」
 確信犯のような、自信に満ちたレオンハルトの表情に、ビーシュはくらくらと目眩を覚えた。
 言葉を考える前に、頷いていた。
 感情が乗ると、人の瞳は宝石以上の美しさを放つ。どんなに丹精込めて研磨しても、模倣できない美だった。
「す……好き、です。とても、綺麗なサファイアの目をしてる」
 恥ずかしさのあまり、ビーシュは両手で頬を覆ってうつむいた。
「ありがとう、嬉しいよ。顔についてはよく好意的な返答をもらっているけれど、目を言及したのはビーシュが初めてだ」
 たがいに名前しか知らない相手に、なんて素っ頓狂な告白をしているのだろう。
 あきれられるのならばまだ、わかる。しかし、レオンハルトは興味深げに、ビーシュの挙動をじっと見ている。
 どうしよう。
 どうしたら、良いんだろう。
 ビーシュは肩越しに振り返り、レオンハルトの様子を伺う。
「あの、オスカーくん」
「レオン。ビーシュも僕の名前を気兼ねなく呼んでくれると、嬉しいな」
 どちらが年上なのか、だんだんわからなくなってくる。
 緊張をほぐすよう背中を撫でるレオンハルトの手に、ビーシュは無意識に体を預けながらも、逃げれば良いのか受け入れても良いのかわからなくなって助けを求めて視線を泳がせた。
 むろん、かみ合う視線はなく、人々は午後の休憩にいそしんでいた。目が合ったら合ったで、困るが。
「僕は、ビーシュを困らせたいわけじゃないんだよ。知りたいんだ、ビーシュのこと」
 離れる手を追いかけるよう、振り返ったビーシュは柔らかい物腰からは想像つかない強い力で引き寄せられ、目を白黒させた。
 ここは軍病院で、真っ昼間の中庭だ。夜の歓楽街ではない。
「だめだよ、レオンくん」
 一回りほど体格の大きいレオンハルトに、ビーシュはすっぽりと抱き込まれた。
 建物に囲まれているので外よりもずっと暖かいが、冬場の空気だ。
 白衣しかまとっていないビーシュは、レオンハルトの暖かさに、ぎゅっと己の胸元をつかんだ。
 浅はかな体は、すぐに期待してしまう。
 早鐘を打つ心臓が恥ずかしくて、痛い。
 気付かれていなければいいが、レオンハルトの表情は柔らかいくせに真意が読み取りにくい。強すぎる視線を間近から浴びて、くらくらと目眩がするようだ。
「おかしく思われてしまうよ。だめだよ」
 もぞもぞと身じろぐが、さすが軍人。腕の力が強くて、拘束から抜け出せない。
 ビーシュはレオンハルトの腕の中で、自分を知る医師が通りがからないか、そわそわと視線を泳がす。
「どうして、おかしく思われるのかな?」
「それは……ぼくが、おかしいからだよ。レオンくんまで、変に思われるから……その、離れて、ね?」
 しっかりと抱きしめてくる腕を引きはがすよう押すが、びくともしない。
 夜な夜な、歓楽街をふらふらしているビーシュの悪癖は、面と向かって言う者こそ少ないが、周知の事実でもある。
 院内で関係を持った医師も、少なくはない。
 同性との交際に比較的寛容ではある社会情勢であっても、だからといって相手をとっかえひっかえしている行為は、決して良くは思われなかった。
 ビーシュが孤立しているのには、理由がある。
 だんだん申し訳なくなってきて、ビーシュはレオンハルトの腕の中で、できるだけ小さくなろうと縮こまる。顔をうつむかせ、少しでも周囲にばれないようにとつとめた。無駄な努力では、あるだろうが。
「僕は、他人にどう思われようと全然かまわないんだけどね。ビーシュがこんなに困ってしまうなら、従おう」
 離れる体に名残惜しさを感じて、同時に浅ましさを覚えて恥ずかしさに、唇を噛みしめた。
「レオンくんは、誰かのお見舞いにきたの?」
 軍人でごった返ししていた乗合馬車の停留所にいたのだから、遠征から帝都へ戻ってきた軍人なのだろう。
 よくよく見ると、すこし日に焼けた肌をしていた。
「うん、そうだよ。もうしばらく入院する必要があるみたいだけど、元気そうで良かった」
「うん、元気なのはとてもいいね。ここの先生たちはみんな、場数を踏んでいるし、腕がいい人たちばかりだからすぐに良くなるよ」
 冷たい風のおかげで、ほてっていた体温がだいぶ落ち着いてきた。
「また、レオンくんに会えるとは思わなかったよ」
 軍部と軍病院は並立されているが、軍人が病院に赴くことはあっても、逆は早々ない。会えたら良いなとは思っていたが、期待はしていなかった。
 ビーシュは深呼吸をしつつ、レオンハルトの目をちらちらと見上げた。
 同時に、脳裏にちらつくのは、エヴァンが見せてくれたサファイアの原石だった。
 頑張れば手が届くくらいの石でいいだなんて、どうして思ったのだろう。逆立ちしても手の届かない品質の良いものでなければ、とても釣り合いそうにない。
「ねえ、ビーシュ。午後の予定はあるかい?」
「予定は……義足の調整をしなくちゃいけないんだ」
「急ぎのお仕事かな?」
 少し考えてから、ビーシュは首を横に振った。
 レオンハルトは、嬉しそうに微笑んだ。つられて微笑むと、暖かい手のひらがそっと頬を撫でていった。
「よければ、外に出て遅めの昼食をとらないかい? もっと、ビーシュのことを僕に教えて欲しいんだ」
「どうして、ぼくのことを知りたいの?」
 差し出された手に、ビーシュはおそるおそる手を重ねた。
 駄目だとおもっても、断り切れない。いい歳をした大人なのに、あたえられるものを選べない。
「気になるからだよ、ビーシュ。あまりにも君が僕をじっとみつめるものだから」
 ぎゅっと重ねた手を握りしめられ、ビーシュは促されるまま立ち上がった。
「あっ、でも、ぼくお金……そんなに、持っていなくて」
 学生ではあるまいし、なんて情けない台詞なんだろう。ビーシュはレオンハルトの手から離れようとしたが、痛いほど強く握られていて動けない。
「いいよ。僕から誘ったんだから、ごちそうさせてくれないかい? 遠征から戻ったばかりだから懐はたっぷりしているしね。遠慮はいらないよ、。さあ行こう、ビーシュ」
 おいで、と見つめてくる目に、ビーシュは反射的に頷いていた。
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