心と口と行いのなかで

南河 紅狼

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三章 寒空のした

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「また、あとで」
 そう言葉を残して工房を出て行ったレオンハルトを見送って、ビーシュは寝所を振り返った。
 一人で眠るにはちょうど良いベッドも、成人済みの男二人で横になるにはさすがに無茶があった。まして、睦み合うには狭すぎる。
 シーツは当然ぐしゃぐしゃで、二人分の体液を吸い込んでぐっしょりと濡れている。
「洗濯するよりも、捨てたほうが早いかなぁ。古いし、ちょうど良いのかもしれない。……お金は、ないけど、しかたないよね」
 頼めば、病院のシーツと一緒に洗ってもらえるだろうが、さすがに気が引けたし、余計な詮索をされたくなかった。
 相手は行きずりの男ではなく、すぐ隣の軍部に所属する若い軍人だ。変な噂をたててはいけない。
「駄目だよね、どうしてぼくは断れないんだろう。レオくんよりもずっと年上なのに。ずるずる、流されっぱなしだ」
 情事の名残である独特な臭いを換気しようにも、半地下の工房は空気が滞りがちだ。
 天井付近にある窓を一生懸命、がんばって開けたとして、綺麗さっぱり消えるまでは時間が掛かるだろう。
 ビーシュは重い腰を引きずって、キッチンに移動した。体のあちこちがぎしぎしと軋むようだ。
「……激し、かったな」
 珈琲の琥珀色をした飲み跡が残る二つのカップをシンクに入れて、新しく棚から取り出す。
 普段は使わない、来客用の小綺麗なカップには、矢車菊の絵が焼き付けられていた。真っ青の花弁は、サファイアを思わせる。
 随分と軽くなった珈琲缶の蓋を開けると、ちょうど一杯分の豆しか残っていない。随分と、飲み過ぎている。
 零さないように注意しながら、ミルに豆を全て流し込む。
 ハンドルを回して豆を挽き、ドリップポッドを手元に引き寄せた。濾紙は高価なので、寝起きや手を抜きたいときにはおもにこちらのドリップポッドを使っている。
 決まった一連の動作は、ぐるぐると回転し続ける思考を、いったん素の状態まで引き戻してくれる。
 なにも考えず、ただ、体が覚えている動作をこなす数分は、ビーシュにとって何よりも癒やされる時間なのかもしれない。
「新しい豆を、買ってこなくちゃね。白湯を啜っているだけなんて、余計に人生が寂しくなってしまうよ」
 食費は躊躇なく削れても、珈琲を切らしたとたん、いてもたってもいられなくなる。まるで、アルコールに依存している酔っ払いだ。
 手持ちの宝石を金に換えて、お気に入りの珈琲店を訪ねよう。そのまま、レオンハルトと合流して午後をゆっくりと過ごす。
(最高だ)
 ビーシュはにやっと口の端を持ち上げた。
 昼間、誰かと会う約束をしたのは何年ぶりだろう。
 ゆっくりと沸きたつ薬罐に促され、白く煙るお湯をドリップポッドに注ぐ。
 レオンハルトが、おいしいと言ってくれた、手抜きなしの珈琲。
 貴族の口に合うような高級な豆ではないと言えば「ビーシュの腕がとびきり良いんだね」と、味わってくれた。レオンハルトのために使った濾紙も報われただろう。
 お世辞でも本気でも、褒められるのはとても嬉しい。自分が好きなものだと、余計に浮かれて飛び上がりそうだ。
「また、飲んでくれるかな」
 抽出した珈琲をカップに注ぐと、工房にかぐわしい珈琲の香りが広がってゆく。
 砂糖は入れず、苦い珈琲を一口飲むと、喉を伝ってゆく暖かさにほっと、緩い吐息が漏れた。
 とても、穏やかな朝だった。
(たぶん、普通の人にとっては、当たり前なんだろうけど)
 熱を追いかけるよう、ビーシュは己の下腹部をそっと撫でた。
 鳥のさえずりよりも先に聞こえる「おはよう」と言ってくれる声。
 激しい夜を過ごし、朝、けだるさに目覚めたビーシュをそっと撫でてくれる暖かい手の感触は、思い出すたびに、じりじりと胸が焦がれてゆくようだ。
「本当に、ぼくは都合のいい人間だ」
 珈琲の苦みが、ほんのりと強くなる。
 誰の手でも喜んでしまう体は、本当に都合が良い。ふわふわとした夢心地な気分は、腹が冷えると同時に嘘のように醒めてゆく。
 誰でもかまわないのかと問われたら、頷きたくはないが否定はできない。後ろ指をさされても、文句の言えない人生を送っている。
「どうして、エヴァン様もレオくんもぼくに優しくしてくれるんだろう?」
 硝子細工を扱うよう、丁寧に、情熱的に触れてくる手は、いっそ戸惑うほどに優しく甘かった。
 エヴァンも、レオンハルトも、いままでビーシュを抱いてきた男たちとはだいぶ違っていた。
「ぼくは、どうしたらいいんだ?」
 サファイアを取引の材料に、体を重ねているエヴァンの存在を知ったら、レオンハルトの目はどんな色に変わるだろう?
 夜な夜な、男を買いあさるために街をさまよっていると知ったら、汚らしい男だと見放すだろうか。
 珈琲を啜る。
 優しくされると、自分の存在は彼らの期待を裏切っているのではないかと、漠然とした不安に駆られるのだ。
 いつも、そうだ。
 考えすぎだと、笑われるかもしれないが。どうしようもない、クセみたいなものだ。
「……今日は、とてもじゃないけど作業ができそうにないなぁ」
 体は重いし、心は上の空だ。
 真摯に仕事に向き合えるような状態ではない。
 無理を押して仕事をすれば、中途半端な仕上がりにがっかりするのが目に見えている。
 ビーシュはカップの珈琲を全部飲み干して、シンクに置いた。いつもはフィンが片付けてくれるのだが、彼はまだ当分戻ってこない。
 石けんを泡立て、汚れをこすり落としながら、ビーシュは気持ちを切り替えるよう今日の予定を頭の中で組んでゆく。
 幸いにも、天気は良い。
 昼までぶらぶらと街を歩けば、少しは気が晴れるだろう。
 なにより、新しい珈琲豆を買わなければいけない。レオンハルトとのランチの次に大事な用事だ。
「いっときの夢でも、いいじゃないか」
 不幸ばかりでは、生きてゆけない。
 何れ真実に気付いて離れてゆかれるのだとしても、今の一瞬は、夢に見た幸せを体験できる。
「寂しい朝は、やっぱり嫌だからね」
 来る者は拒まず、去る者は追わず。ビーシュなりの処世術だ。
 手招きをされたらそばにはゆくが、踏み込みはしない。自分なりの距離を取ることで、弱々しい心を守っていた。
 何を考えているかわからないと気味悪がられることも多々あるが、悲しい思いをしないためにはしかたがない。
◇◆◇◆
 酒でもかっくらって、ふて寝をしたい気分だ。
 今はとにかく、なにもかもを否定したかった。泥酔して目が覚めれば、全部夢だったなんてくだらない結末でも大歓迎だ。
 ニルフは宝物庫に新しい錠をかけ、何度も振り返りながら階段を登って一階に戻った。
 古びた鉄製の扉の向こうには、純白のドレスが眠っている。
 昨夜遅くから、アーカム家は騒然としていた。
 オスカー家の末弟、レオンハルトへと嫁ぐエリスのために購入したティアラが、正体不明の男に盗み出された。
 誰もが右往左往する中で、一番動揺していたのは当主であるデニスではなく、ニルフだった。
 デニスは大慌てで宝物庫に向かい、ティアラ以外の宝物は手つかずのまま残されていたのを確認すると、安堵からか腰を抜かしベッドに伏せってしまった。
 復活するまでは、まだ少し時間が掛かりそうだ。
「いったい、誰の差し金だ」
 ぎりぎりと唇を噛みしめ、すれ違うメイドを視線で押しのけて二階へと上がる。
 手を伸ばせば掴みかかれるくらいの近距離にいて、どうして動けなかったのか。
 退治することはできなくとも、せめて、正体ぐらいは暴けたかもしれない。いまさらの後悔と情けない思いに、苛立ちはましてゆく。
 なにより、エリスの態度が腹立たしかった。
 騒動を聞きつけ寝所から出てきたエリスは、あっけらかんとした様子で「おもちゃでもいいわよ」と、追い打ちをかける。
 小さな頃からともに過ごしてきた、かけがえのない姉の門出だ。できうる限り素晴らしい姿にしたいという思いを、エリスはちっとも理解してくれそうにはない。
「ただの物取りか、それとも妨害か」
 エリスが人生で初めて愛を吐露した男が、ニルフの脳裏を過ぎ去って行く。むろん、男はすでにこの世にはいない。
 怨念が残っているのだとしても、ティアラを盗めはしないだろう。
「なんにせよ、腹立たしい」
 様々な怒りがない交ぜになって、ニルフは手元の壁を叩いた。
 男とエリスの結婚を、最後まで反対していたのは、ニルフだった。
 互いに互いを愛していても、身分の差を埋めるのは容易ではない。前途は多難だ。
 美しく賢い姉が、ただの女に墜ちるのが我慢ならなかった。もっと、別の幸せがあるはずで、レオンハルトとの婚約はまさに最良の選択なのだ。
 あくび混じりに「寝直すわ」と自室から出てこようとしないエリスの、カーテンが掛かったままの窓を一瞥し、ニルフは出かける支度をするために自室へ向かった。
 デニスの看病をする母が言うには、ティアラの盗難は内々で処理する方針らしい。
 メルビス作の宝飾を手に入れたと知っているのは、今のところエヴァンと売り込みにやってきた宝石商のエーギルだけで、箝口令を敷けば、アーカム家の失態はとりあえず隠せる。
 ティアラに払った金額を思うと頭が痛い話ではあるが、それ以上に噂に上るのをデニスは嫌がった。
 さすがにおもちゃを代わりにはできないが、ティアラなど選ぶほどにある。デニスは、体面を守る選択を取った。
「このまま、泣き寝入りなんてできない」
 弱気な選択をとる両親にも、ニルフは憤っていた。
 きちんと親としての責務を果たせなかったから、過ちがおこったのだ。
 あの男との間違った恋だってそうだ。ニルフは、唇を噛む。
 悲しい結末を迎える前に、すべて終わらせることもできたはずで、今頃はエリスも穏やかに微笑む女性のままでいられたのかもしれない。
「……メルビスの宝飾品を手にれたと、知っている人間は少ない。まずは、エヴァン・ロナードをあたってみるか」
 宝飾品の知識は、父ほどはない。
 知り合いを頼れる状況ではない以上、探れる相手はエヴァンだけだった。
 駄目で元々。
 何かしらの手がかりが得られたら、上々といったところだろう。
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