心と口と行いのなかで

南河 紅狼

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三章 寒空のした

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 奇跡を信じられないのは、弱気ではなく、諦めなのだろう。
 レオンハルトはまだ来ていないようで、ビーシュは一人、テラス席で珈琲を啜っていた。
 時刻が時刻なので昼食も勧められたのだが、メニュー表を見てもどんな料理なのかさっぱり想像がつかなかったし、レオンハルトには食べさせたい料理があるようなので断り、「珈琲と一緒につまめるものを」とたのんだら炒った豆をくれた。
 子供の頃、よくおやつとしてかじった豆も、綺麗な皿にのっていると高級品のように見える。
 久しぶりに訪れた真昼の街はとても穏やかで、両親に捨てられた頃を考えると、随分とましな人生を歩めているのではないかと思えてくる。幸せと呼ぶには、すこし空虚でもあるが。
「たぶんぼくは、望むのに疲れたんだ」
 深く考えようとすればするほど、自分の人生が他人事のように思えてくる。
 ビーシュを育ててくれたのは、母方の祖父だった。
 元軍医で装具技師。ビーシュの今の生活の道筋を作ってくれた師匠でもある。祖父がいなければ、もっとひどい結末をむかえていたかもしれない。それこそ、体を売って生きていたかもしれない。
 暖かい珈琲に、ほっと息をつく。
 良い暮らしかどうかはわからないが、悪くはないと思いたい。
 母は飲んだくれの父を見限り、新しく知り合った男と一緒に蒸発した。だいぶ大人になってから聞いた噂では、帝都を出てたどり着いた寒村で、流行病で死んだようだ。
 父は母に捨てられてから真冬の歓楽街で飲んだくれ、あげく、ビーシュが十歳の頃に、娼館の前で凍死していたのを発見された。
 らしいといえばらしい最後ではあるが、馬鹿な父親だと恨むことも笑い飛ばすこともできなかった。ビーシュにとっては、悲しい別れだった。
 出て行ったっきり帰ってこない父を探しにやってきたビーシュは行き倒れていた父を弔ったのち、父が倒れていた娼館の姐さんたちに拾われた。祖父の存在を突き止めるまでの五年間、生きるための技を彼女たちからたたき込まれた。
「感謝して良いのかわからないけど、エヴァン様やレオン君と会えたのは、宝石のおかげだよね」
 宝石商もうなる宝石研磨の技術は、娼館の客として出入りしていた男に教わったものだ。珈琲も彼から教わった。
 母を失い、父を失い、天涯孤独になったからこそ得たものもあって、やはり、全部が全部、最悪な人生だったとは言い切れない。
「……奇跡か」
「ビーシュは、何を望むのかな?」
 ふと、頭上からおちてきた声に、ビーシュは頬を赤らめた。
「おつかれさま、レオくん」
 軍服のレオンハルトは隣に立つ店員に昼食の注文をし、ビーシュが座っている丸テーブルの向かい……ではなく、隣に座った。
 肩が触れるほどの近距離に、ビーシュは苦しく脈打つ胸を押さえた。
「ごめんね、驚かせてしまったかな。思ったより仕事が片付かなくてね、遅れちゃったよ。まったかな?」
 すぐに運ばれてくる珈琲に手を伸ばし「おいしいね」と目配せしてくるレオンハルトに、ビーシュは頷きかえした。
「ぼくも寄りたいお店があったから、休憩になってちょうど良かったよ」
 レオンハルトが頼んだのか、ビーシュの前にも湯気の立つ珈琲カップが置かれた。
「その……おいしい珈琲豆が欲しいなって思って。レクト珈琲店ってしっているかな? 良く行くお店なんだけど、そこで豆に詳しい友達に会ってね。豆をおすすめしてもらったんだ」
 ビーシュは胸をぎゅっと押さえて、饒舌になる口にうろたえていた。
「ぼく、珈琲がとても好きなんだけれど、好きなだけで全く詳しくなくて。……おかしいよね、好きなのに」
 何を言っているのかわからなくなるほど、舞い上がっている。青い瞳が、じっと、ビーシュを見ていた。息が苦しくなるほど、胸が高鳴っている。
 レオンハルトからみても、わかりすぎるほどに浮かれ上がっている。みっともないと、思われていたら辛い。
「おかしくないよ」
 あたふたしているビーシュをじいっと見つめたまま、レオンハルトは珈琲を啜っている。穏やかな様子に、ビーシュは深呼吸をして胸中を落ち着ける。
「僕だって、ビーシュがとても好きなのに、ビーシュのことを何一つ知らない。いや、何一つってわけでもないか」
 するっと太ももを撫でてゆくレオンハルトの左手に、ビーシュはびくん、と大げさなほどに体を揺らした。
「まあ、とにかく。好きだからって、なにもかもを知っていなきゃいけないってわけでもないよ。詳しくなければ好きになる資格がないなんて、とても心の狭い言い分だよ。誰が言ったかはわからないけれど、真に受けなくて良いんだ」
 程なく、甘い香りが漂ってきた。
 レオンハルトの言葉と相まって、喉元で詰まっていた緊張がするりとほどけ、ビーシュは両手を膝の上に置いた。
「ビーシュ、どんな豆を買ったのかな?」
 運ばれてくる料理を一瞥し、レオンハルトは空席の椅子に置かれた紙袋を視線で指した。
「どうだろう、おいしいのは絶対だけど味はいれてみなくちゃわからない。でも、たぶんとても美味しいよ」
「面白いね。是非、飲ませてもらいたいな。ビーシュがいれてくれた珈琲は、とてもおいしかったから」
 レオンハルトが注文した料理は、ふかふかのパンケーキだった。
 白い陶器に入った蜂蜜は、金を溶かして流し込んだようにきらきらと美しく輝き、周囲を彩るごろごろとした新鮮そうな果物は、ルビーやエメラルドのようだ。
「甘い物なら、すこしは食べられるんじゃないかと思ってね」
 質の良い小麦の香りの甘さは、小食のビーシュでも十分に食欲を刺激された。
「ありがとう、レオくん」
「だいぶ、無理しちゃったからね」
 なにかされただろうかと首をかしげたビーシュは、ほくそ笑むレオンハルトの淫猥な色をともした視線に気付いてうつむいた。
「む、無理じゃないよ……気にしなくても、大丈夫だから、ね」
 今に始まったことではないし。ぼそっとつぶやいて、ビーシュは慌てて口をふさぐ。聞かれていないだろうか、声が届いていないといいのだが。
「もっと、激しくてもいいの?」
 昼のカフェテラスでする話ではない。
 ビーシュはちらちらと周囲を伺うが、幸いにも、みな話に夢中で気付いていないようだ。
 ほっと息をつこうとして、ビーシュは肩をよせてくるレオンハルトに息をのんだ。
「それとも、もっと激しいほうがいいのかな?」
「だ、だめだよレオくん」
 ビーシュは熱くなる頬を冷やすよう、首を緩く横に振った。
「ふふ、ごめんね。かわいいからつい、いじめたくなる。ビーシュが嫌なことは、僕もしたくない。だから、ビーシュがしたいことなら、何だってしてあげてもいいと……思っているのだけれど」
「でも、レオく――」
 ちゅく、と。果実のソースに濡れた唇が触れた。「レオくん?」
 ナイフとフォークをもったまま、驚きのあまりに硬直するビーシュを笑って、レオンハルトはパンケーキを切り分けてゆく。
「どうしてだろうね。僕自身、驚いているんだ。ちっとも、そうは見えないだろうけど。友達のままではいられない衝動を、もてあましてる」
 周囲の目など全く意識していないレオンハルトは、ビーシュだけを視線にいれている。
 貴族もよく訪れるこぎれいな区画の、空と風が気持ちの良いテラス席だ。誰かに見られていただろうに、動揺しているのはビーシュだけだった。
「レオくんは、ぼくのことを知らないから良くしてくれるんだよ。軍病院でぼくのことを誰かに訊いてみるといい、たぶん、騙されたとおもうよ。ぼくは、このパンケーキみたいに綺麗な人間じゃないんだ」
 甘酸っぱい香りなのに、どうしてか目の奥が痛くなる。
「ビーシュのことは、ビーシュの口から教えて欲しい。ほかの誰かの口が語るビーシュは偽物でしかない。良いことも悪いことも、心からは信じられない」
 パンケーキを切り分ける手を止めず、レオンハルトは続けた。
 ビーシュが何を言っても揺らぎそうにない穏やかさは、すこし恐ろしくもある。
「ビーシュがどんなことをしてきたか、何者であるか。たぶん、ビーシュが気にするほど僕は驚かないと思うよ。なにせ、僕自身がかなり特殊で問題な人間らしいからね」
「変人には、見えないけど?」
 どう受け取れば良いのだろう。肯定すれば良いのか、否定すれば良いのだろうか。
 頭を悩ましていると「まずは食べよう」とレオンハルトが促してくる。
 手元を見ると、おいしそうなパンケーキは、だいぶ冷めているようだった。
 せっかくのごちそうなのにもったいないと思ったが、レオンの唐突な告白に頭はついて行けず、ろくに味もわからなかった。
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