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四章 甘く包まれる
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婚約者同士、夜更けに同じ部屋にいたとして、レオンハルトとエリスの間に始まるものはない。
会わないでいた数十年間を埋めるものは会話で、エリスの部屋で食事を楽しみ、大きな窓から星を眺めながら、レオンハルトは思い出話に花を咲かせていた。
「お互い、昔から変わらないね」
ローズマリー蜜を垂らした紅茶を飲みながら、華奢な椅子に腰掛け、レオンハルトは窓辺に立つエリスに「とても良い茶葉だ」と伝える。
「久しぶりに、おいしい紅茶を飲んだよ。遠征先では、水があまり良くなくてね。高い茶葉を、台無しにしてしまったよ」
「あら、珈琲に宗旨替えをしたと思っていたのだけれど、違ったようね」
レオンハルトの記憶の中にあるエリスの姿は十代の時のもので止まっていて、いくらか大人びた顔は月明かりの中では全くの別人にも見える。
風の噂で、エリスは軍人と駆け落ちを試みようとして失敗に終わったと聞いていた。
食事をしながらエリスが語った最愛の男との甘く刹那的な日々は、朴念仁の自覚のあるレオンハルトもいいなと思うほど素敵だった。
エリスの心の中には、今もなお彼が存在しているのだろう。
大人びた華やかさと深い影が同居している横顔は、未亡人のように見える。
「宗旨替えした、ってほどこだわってもいないんだけれどね。珈琲も紅茶も、おいしければどちらも好きさ。ただ、ここ最近、珈琲が好きな人と知り合ったってくらいで」
「お友達ができたの? レオンに? 珍しいわね、どんな人?」
あからさまに興味を示してくるエリスに、さすがにレオンハルトも苦笑を返さざるを得なかった。
「友達ぐらい、僕にだっているよ」
「明日お別れしても、簡単に忘れられる程度の友達なら、私にだってたくさんいるわよ」
長く、綺麗な足を翻してテーブルに戻ってきたエリスは、椅子に座らずカップを持ち上げ、ぬるくなった紅茶を一気に煽った。
「ただ、とくに大事な用事もなく、だらだらと時間を過ごしながらお茶を飲むようなお友達はとても少ない……いえ、いなくなってしまった」
「駆け落ちのせいで?」
「ええ、駆け落ちのせいで。今の私に寄ってくるのは、婚約者候補かニルフくらいなものよ。実に平和で、静かな日々を送っているわ」
お転婆というよりは下品なエリスの仕草を笑い、レオンハルトは皿に戻されたカップに新しい紅茶を注ぐ。
ローズマリーから採れた蜂蜜を垂らすと、甘くすっきりとした香りが広がった。とても、エリスらしい嗜好品だ。
「まあ、部屋にこもってばかりいるから仕方ないけれど。で、レオンのお友達はどんな人なの? 珈琲が好きってところ以外のことを教えてちょうだい?」
暖かい湯気をくゆらすカップを持って、エリスは天蓋付きのベッドの端に腰を下ろした。
小さい頃はなんて美しいお姫様かと思ったが、にこにこと笑う仕草は人なつっこくどこか素朴で、意思が多少強いものの、エリスはどこにでもいそうな普通の女性だった。
「楽しそうだね、エリス。僕との婚約話よりもずっと、興味津々だ」
「レオンの気を惹く人なんだもの、きっと魅力的な人に違いないわ」
大きな目をきらきら輝かせ、早く早くとせがんでくるエリスを見ていると、ビーシュを思い出す。
何事にも控えめで、一歩引いてばかりいるように見えるビーシュだが、見つめてくる視線だけは強い。
「そうだね、アメジストのような紫の瞳がすごく印象的な人だ。帝都に戻ってからすぐに知り合ったんだけど、どうしてだろうね、風が吹けば消えてしまいそうなほどに儚いのに、忘れられないんだ」
どちらかと言えば紅茶をよく飲むほうだったが、ビーシュと知り合ってからは珈琲を飲むようになった。
苦くて深く、舌に残る強い味。
真っ白の砂糖を溶かしたくなる飲み物は、どことなくビーシュに似ているのかもしれない。
「そう、レオン。あなた恋をしているのね」
予想もしてなかったエリスの言葉に、レオンハルトは紅茶を吹き出していた。
「あらあら、いい男も紅茶まみれじゃ台無しね」
エリスはカップを片手に、別の手にはベッドから引っ張りはがしたシーツを持ってレオンハルトに歩み寄る。
「シルクのシーツで顔を拭かれるなんて、贅沢だね」
「ご自分で拭いてくださる? もう、立派な大人でしょう」
ばさっと、頭からシーツを被される。もったいないと思いつつ、紅茶に濡れた顔をぬぐった。
「恋……か、そんな指摘されるとは思ってもみなかったよ」
椅子に座ったエリスは、レオンハルトのカップに紅茶を注ぎ、「わたしもよ」と肩をすくめた。
「あなた、人を愛せない人なんじゃないかって心配してたけど、私の杞憂だったのね。だいぶ安心したわ。まあ、レオンに好かれてしまったその人は、かわいそうな気にもなるけど」
「僕の友達らしい言いようだね。まあ、否定はしないけど。付き合った人たちは、いつもひどい別れかたをしたからね」
紅茶の染みがついたシーツをたたみながら、レオンハルトはすがるように見つめてくるビーシュの目を思い出す。
アメジストの眼球で見つめられると、どうしても目が離せなくなる。
本能的に手を伸ばして、抱きしめたくなる。この感情をなんと呼べば良いのか、レオンハルトはわからなかったが。
「どうしてだろうね。忘れられないんだ、彼のことが。明日はどうやって会おうか、その次はどうしようか。ずっと考えてる」
一回りほど離れた男を、かわいいと思う感覚はたぶん、どこか狂っているのだろう。
「初めてなんだ、エリス。こんなにも、誰かのことを考えているのは」
語ってから、レオンハルトは肩をすくめた。
「婚約者にするような話じゃなかったね」
「かまわないわ。私たちは友達同士で、それ以上でも以下でもない。だって、考えてみて。あなたと子供を作る私なんて、想像できないわ」
「たしかに」そう答えると、エリスは声を上げて笑った。
「ねえ、もっと聞かせて。レオンの心をわしづかみにしている彼のこと。まずは、名前から。さすがに、名前ぐらいはあなたでも訊けるわよね?」
「さすがに、僕だって名前くらいは訊けるよ」
すでに深く繋がってしまったと言えば、エリスはどんな顔をするだろう。想像するとおかしくなってきて、レオンハルトはつい口元を緩めてしまう。
「なあに、惚気話かしら?」
「どうだろうね、最低って言われるようなきもするけど」
エリスとの会話は楽しい。
楽しいが、窓の外を見ると早く明日になってほしいと、焦燥感に似た気持ちになる。
「明日が待ち遠しいのは、とても素晴らしいものだね」
会わないでいた数十年間を埋めるものは会話で、エリスの部屋で食事を楽しみ、大きな窓から星を眺めながら、レオンハルトは思い出話に花を咲かせていた。
「お互い、昔から変わらないね」
ローズマリー蜜を垂らした紅茶を飲みながら、華奢な椅子に腰掛け、レオンハルトは窓辺に立つエリスに「とても良い茶葉だ」と伝える。
「久しぶりに、おいしい紅茶を飲んだよ。遠征先では、水があまり良くなくてね。高い茶葉を、台無しにしてしまったよ」
「あら、珈琲に宗旨替えをしたと思っていたのだけれど、違ったようね」
レオンハルトの記憶の中にあるエリスの姿は十代の時のもので止まっていて、いくらか大人びた顔は月明かりの中では全くの別人にも見える。
風の噂で、エリスは軍人と駆け落ちを試みようとして失敗に終わったと聞いていた。
食事をしながらエリスが語った最愛の男との甘く刹那的な日々は、朴念仁の自覚のあるレオンハルトもいいなと思うほど素敵だった。
エリスの心の中には、今もなお彼が存在しているのだろう。
大人びた華やかさと深い影が同居している横顔は、未亡人のように見える。
「宗旨替えした、ってほどこだわってもいないんだけれどね。珈琲も紅茶も、おいしければどちらも好きさ。ただ、ここ最近、珈琲が好きな人と知り合ったってくらいで」
「お友達ができたの? レオンに? 珍しいわね、どんな人?」
あからさまに興味を示してくるエリスに、さすがにレオンハルトも苦笑を返さざるを得なかった。
「友達ぐらい、僕にだっているよ」
「明日お別れしても、簡単に忘れられる程度の友達なら、私にだってたくさんいるわよ」
長く、綺麗な足を翻してテーブルに戻ってきたエリスは、椅子に座らずカップを持ち上げ、ぬるくなった紅茶を一気に煽った。
「ただ、とくに大事な用事もなく、だらだらと時間を過ごしながらお茶を飲むようなお友達はとても少ない……いえ、いなくなってしまった」
「駆け落ちのせいで?」
「ええ、駆け落ちのせいで。今の私に寄ってくるのは、婚約者候補かニルフくらいなものよ。実に平和で、静かな日々を送っているわ」
お転婆というよりは下品なエリスの仕草を笑い、レオンハルトは皿に戻されたカップに新しい紅茶を注ぐ。
ローズマリーから採れた蜂蜜を垂らすと、甘くすっきりとした香りが広がった。とても、エリスらしい嗜好品だ。
「まあ、部屋にこもってばかりいるから仕方ないけれど。で、レオンのお友達はどんな人なの? 珈琲が好きってところ以外のことを教えてちょうだい?」
暖かい湯気をくゆらすカップを持って、エリスは天蓋付きのベッドの端に腰を下ろした。
小さい頃はなんて美しいお姫様かと思ったが、にこにこと笑う仕草は人なつっこくどこか素朴で、意思が多少強いものの、エリスはどこにでもいそうな普通の女性だった。
「楽しそうだね、エリス。僕との婚約話よりもずっと、興味津々だ」
「レオンの気を惹く人なんだもの、きっと魅力的な人に違いないわ」
大きな目をきらきら輝かせ、早く早くとせがんでくるエリスを見ていると、ビーシュを思い出す。
何事にも控えめで、一歩引いてばかりいるように見えるビーシュだが、見つめてくる視線だけは強い。
「そうだね、アメジストのような紫の瞳がすごく印象的な人だ。帝都に戻ってからすぐに知り合ったんだけど、どうしてだろうね、風が吹けば消えてしまいそうなほどに儚いのに、忘れられないんだ」
どちらかと言えば紅茶をよく飲むほうだったが、ビーシュと知り合ってからは珈琲を飲むようになった。
苦くて深く、舌に残る強い味。
真っ白の砂糖を溶かしたくなる飲み物は、どことなくビーシュに似ているのかもしれない。
「そう、レオン。あなた恋をしているのね」
予想もしてなかったエリスの言葉に、レオンハルトは紅茶を吹き出していた。
「あらあら、いい男も紅茶まみれじゃ台無しね」
エリスはカップを片手に、別の手にはベッドから引っ張りはがしたシーツを持ってレオンハルトに歩み寄る。
「シルクのシーツで顔を拭かれるなんて、贅沢だね」
「ご自分で拭いてくださる? もう、立派な大人でしょう」
ばさっと、頭からシーツを被される。もったいないと思いつつ、紅茶に濡れた顔をぬぐった。
「恋……か、そんな指摘されるとは思ってもみなかったよ」
椅子に座ったエリスは、レオンハルトのカップに紅茶を注ぎ、「わたしもよ」と肩をすくめた。
「あなた、人を愛せない人なんじゃないかって心配してたけど、私の杞憂だったのね。だいぶ安心したわ。まあ、レオンに好かれてしまったその人は、かわいそうな気にもなるけど」
「僕の友達らしい言いようだね。まあ、否定はしないけど。付き合った人たちは、いつもひどい別れかたをしたからね」
紅茶の染みがついたシーツをたたみながら、レオンハルトはすがるように見つめてくるビーシュの目を思い出す。
アメジストの眼球で見つめられると、どうしても目が離せなくなる。
本能的に手を伸ばして、抱きしめたくなる。この感情をなんと呼べば良いのか、レオンハルトはわからなかったが。
「どうしてだろうね。忘れられないんだ、彼のことが。明日はどうやって会おうか、その次はどうしようか。ずっと考えてる」
一回りほど離れた男を、かわいいと思う感覚はたぶん、どこか狂っているのだろう。
「初めてなんだ、エリス。こんなにも、誰かのことを考えているのは」
語ってから、レオンハルトは肩をすくめた。
「婚約者にするような話じゃなかったね」
「かまわないわ。私たちは友達同士で、それ以上でも以下でもない。だって、考えてみて。あなたと子供を作る私なんて、想像できないわ」
「たしかに」そう答えると、エリスは声を上げて笑った。
「ねえ、もっと聞かせて。レオンの心をわしづかみにしている彼のこと。まずは、名前から。さすがに、名前ぐらいはあなたでも訊けるわよね?」
「さすがに、僕だって名前くらいは訊けるよ」
すでに深く繋がってしまったと言えば、エリスはどんな顔をするだろう。想像するとおかしくなってきて、レオンハルトはつい口元を緩めてしまう。
「なあに、惚気話かしら?」
「どうだろうね、最低って言われるようなきもするけど」
エリスとの会話は楽しい。
楽しいが、窓の外を見ると早く明日になってほしいと、焦燥感に似た気持ちになる。
「明日が待ち遠しいのは、とても素晴らしいものだね」
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