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6 丑の守

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 亜麻あま色の長い髪に頬を擽られて目を覚ました五百枝いおえは、ひと伸びして慣れ親しんだ寝床を抜け出した。
 いつもと違うのは、猫のくせにずっと主に忠実に付き従ってきた精霊きなりと同化している点と、昨夜出会ったばかりの女が心地よさそうに尾長天竺鼠ひわだを抱きしめ、己の布団に寝ていることだ。

(無用心ってか、俺が猫になると思って舐めてるな)

 由良は檜皮ひわだとして布団の隅を少しばかり借りたつもりだろうが、昼前には女に戻る。ずっと出ずっぱりで疲労が貯まっていたのだから致し方無いし、入れ違いで鼠と猫になると互いに油断していたのも否めない。
 だが、ここまで無防備にくつろがれ、尚且つ、また生成きなりの中に入れられれば、どうしようもない苛立ちが湧いてくる。

「由良! 俺の布団だ、少しは遠慮しろ!」

 五百枝は人形《ひとがた》に戻った由良に、猫パンチを何発も叩き込んだ。

「ううん、やめて。くすぐったい」

「早く起きやがれ!」

 さらにドスを聞かせた声を上げれば、やっと由良は寝ぼけ眼を擦りはじめた。

「生成じゃなくて、五百枝か。おはよう。寝坊したかな? ごめんね」

「さっさと支度しろ。店が忙しくなる前に、うしもりに会いに行くぞ」

「五百枝は本当に、他者ひとへの気遣いが細やかだよね」

 善い人扱いされ、五百枝は目を丸くして閉口した。なんとも調子が狂う女だ。
 由良が檜皮と出掛ける支度をすると言うので、五百枝は土間に行き、香箱座りで待機した。

(なんで俺がこんな目に……)

 三毛猫の背中から、哀愁が立ち昇っている。

『そこで結んで、余った帯の端を突っ込んじゃえば様になるよ』

「これでいいかな?」

 甲斐甲斐しく檜皮が由良の支度を手助けし、なんとか着付けられたのを察した。

(子の精霊檜皮か……。いつからニニギと通じていた? 何を企んでいる?)

 種族を代表し精霊となって十二支を務める檜皮が、由良にかしずいているのには裏があるからではないかと考えていたが、聞こえてくる呑気な声に毒気を抜かれる。

「和装って背筋が伸びるし、心も引き締まっていいかも」

『由良、とっても似合ってるよ~。五百枝も贈り物のセンスがあるね~』

 大層あざとい鼠だと訝しんで一瞥するも、はしゃぎながら庭に出てきたもりとその精霊は、長い時を孤独の中で過ごしてきた五百枝の心に、こそばゆさを与えてきた。

「お待たせ五百枝。着物は成人式以来で――」

――眠っているうちに隠に来たのなら、着ている濃紺の変わった着物は寝間着なのだろう。人形になれば草履も必要になる――

 そう考えて着物を買ったのだが、丈も合っていたし、やはり帯には慣れていないようで、今のなばりの流行りではないが、結びやすい細帯を選んで良かったと胸を撫で下ろす。

「こんなにも素敵な品を、本当にありがとう……」

「目立って面倒だから買ったまでだ」

 そう。単純にこれ以上の面倒事を起こしたくないから、必要な措置をとっただけ。
 だから、手近で目についたその柄を指差した。――だけのはずなのに、微かに揺れる桜文が、ツキンと頭の奥を突き刺す。

 春は……桜は嫌いだ……。五百年前、本当の名前をニニギに奪われた季節だったから――




 二人で人形をとることに決め、忙しくなる前にと訪ねた『すなっく和美』の中には、デデンと店内に黒毛の牛が鎮座していた。

「ンモーーーー!『いらっしゃーい。まあ、干支守仲間ねー。ゆっくりしてってー』」

 鳴き声のンモーは誰にでも聞こえるだろうが、いらっしゃい以降の言葉は、精霊を伴う者にしか理解できない。
 しかし、こんなにも愛想良く看板牛に出迎えられたなら、全て分からずとも、誰もがこの『すなっく』に通いつめたくなるだろう。

「そりゃ、有名店になる」

「牛って、すごく優しい瞳をしてるんだね。可愛い」

 穏やかな眼差しで『お上手ね。私、墨っていうの』と名乗った丑の精霊と互いに挨拶を交わしていると、店の奥からとびきり明るい声がした。

「ちょいと、まだ開店前だよ! 随分せっかちなお客さんだねぇ。今日だけは特別だよ?」

 和牛と言うより、華やかさと人懐こさのあるジャージー牛といった雰囲気の女が、しゃもじを握ったまま顔を出す。
 年齢はかさねても、愛嬌ある魅力的な容姿と懐の深さで、隠の地で店を繁盛させていたのが、現丑の守の和美だ。

「あんたが今の丑の守か?」

「ああ、なんかそうらしいけど、この商売が楽しくて、そっちはさっぱりなんだけどね」

「私たち、和美さんと墨さんにお会いするために来たんです」

「そうかい。なら、ちょっとだけ待ってておくれよ」

 落ち着くのを待っていると、仕込みを一段落させた和美が、四角い卓を拭きながら応じる。

「それで、どうしたんだい?」

「干支守の儀式を近い内にするから、そん時は顔を出して欲しいって話だ。連絡があった時は、協力してくれないか?」

 今度は大皿に盛ったお番菜を次々と並べる和美を見て、由良は「私も運びます」と手伝いを申し出た。
 看板にはスナックとあるが、家庭料理を味わいながら一杯できる店で、由良は益々興味を惹かれる。

「ありがとう、お嬢さん。協力するのは勿論構わないよ。随分と暇な役目を与えられたのに、ただお給金をもらうのは悪いと思っていたからね」

「えっ!? 干支守って、お給料がでるの?」

「おや? お嬢さんは子の干支守だよね? 最近こっちに来たのかい?」

「はい。実は昨日、隠に来たばかりで……」

「そうかい、そうかい。平成からここに来たなら、きっと驚いただろう?」

 開店準備を終え、やっと小上がりになった畳の上に腰を下ろした和美に、平成の次の令和から来たと伝えると、大きな瞳をパチクリとさせて驚き、それからはおおいに話が弾んだ。




「生きたままここに連れて来られるなんて、よっぽどワケアリなんだね」

「大丈夫ですよ。こうして親切にしてくれる五百枝や和美さんともお会いできましたし、なんとかやれそうです」

「そうかい、そうかい。由良ちゃんとはまだまだ話し足りないねぇ。そうだ。とらもりもたまに店に来るから、あたしからもこの話はしとくよ」

 二、三日中には寅の守に会うだろうから、明々後日にでもまたおいでと言った和美だったが、何かを思い出して表情を曇らせた。

「実はね、ここ最近、盗みが増えてるらしくて、ちょっとばかし物騒なんだよ」

「心配しなくて良い。由良は俺が何とでもする」

「アハハハッ。イケメンのボディーガード付かい。なら安心だ。さあ、これを持って行きな。由良ちゃんのパワーストーンも、大切にしっかり持っとくよ」

 あたしはかんざしで纏めるのに慣れたから、そう言って和美は由良に黒いヘアゴムを渡した。

「ありがとう、和美さん。寝ているうちに隠に来たから、何も持っていなくて……。髪を結べるのは助かります。私も大切に使いますね」

「じゃ、明々後日また来る」

 墨の頬をトントンと叩いて別れの挨拶をし、客が入り始めた『すなっく和美』をあとにした。

 夜の紅蛍に出て、何故ここが紅蛍と名付けられたのか由良は理解した。
 細長くて紅い漆塗りの灯籠に灯された明かりが、まるで蛍の短い命のように、儚げに、妖しげに、隠の繁華街の夜を照らしていたのだ。

「幻想的なんだけれど、この辺はまだちょっと緊張する」

 やはり大通りを外れれば蛍の光も届かず、そちらの方からは、立君が男を誘う声も聞こえてくる。

『由良には僕がついてるよ~。さっきは僕が墨と話してるうちに、五百枝がかっこつけてたみたいだけどさ~』

『小娘ごときに五百枝様の力を使うまでもない』

 生成は由良に厳しい。どうしてそんなに毛嫌いするのか、負けじと由良は生成に直球で聞いてみたのだが、鼻で笑われ答えは返ってこなかった。

「生成はそもそもそういう性格だ。それに、馴れ馴れしすぎる檜皮もどうかと思うが。兎に角、俺や檜皮から絶対離れるなよ。人じゃないモノも混ざったりするからな」

『危険なのは、あやかしとか妖怪って呼ばれるモノの中でも、質の悪いのが入ってしまった時だよ。でも、大抵は楽しむために隠に来ているから、悪さはしないんだ』

 五百枝と生成と話しをしながら、商店街の方まで戻って来た。紅蛍に反して、こちらは店が閉められ賑わいも去っている。


「お前がボサボサしてるから盗られたんだぞ!」

「いいえ。あなたが浮かれていたのが悪い。私のせいにするのはお門違いだ!」

 人通りの少ない大通りで、若い男二人がギャーギャーと言い争っていた。近づくにつれ、十代とおぼしき青年が、今にも取っ組み合いの喧嘩をおっ始めようとしていて、大変目立つ。

「祝いの金を失くすなんて、志津摩しづまの間抜けにもほどがある!」

「だから、盗まれたって言ってんだろ! 織部おりべだって、最近盗みが多いって聞いてただろ?」

 避けて通り過ぎるぞと五百枝に目配され、素通りしようとしたが、和美から盗っ人の話を聞いたばかりの由良は、二人が気になった――

「五百枝、あれって――」

 青年たちの足元で、互いに睨みを効かせる猿と犬が見える。

「……。猿と犬の精霊だな……」

 諦めた五百枝がウンザリしながらも、二人に声をかけた。
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