エリート先輩はうかつな後輩に執着する

みつきみつか

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3 ある長期休暇の頃

一 記憶がなくなる

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 四月下旬。今日からゴールデンウィーク。
 午後一時。
 都内のマンション。
 ガスの開栓業者のおじさんのサインの求めにボールペンを走らせて見送った後、俺は廊下の掃除をしながら段ボールを開けていく。
 ダイニングキッチンで作業していた和臣さんが、廊下に顔を出した。

「多紀くん、キッチンの配線、やっとくね」
「あ、はあい。お願いします」

 また戻っていく。
 暖かい日だ。動いていると汗ばんでくるほど。いい天気で、風には初夏の香りさえ含んでいる。
 でも明日以降はしばらく雨らしい。せっかくのゴールデンウィークなのに悪天候なのは残念だけど、引っ越し当日は晴れてよかったな。
 コーヒーの芳しい香りが漂ってきて、俺は顔をあげた。
 和臣さんがふたたび廊下に顔を出した。

「多紀くん、ちょっと休憩しない? コーヒー淹れてるよ」
「あっ、ありがとうございます。すみません。和臣さんのほうが疲れてるのに」
「ううん。俺は平気」

 でも、昨日帰国したばかりだ。
 和臣さんは海外赴任を終えて、昨夜帰国。今日は引っ越し。
 関西支社への配属希望を取り下げることができて、本社勤務になった。
 俺は東京オフィス勤務で、マンスリーマンションを引き払って、一緒に暮らすことにしたというわけ。
 マンションは築三十年以上と少し古いんだけど、セキュリティはしっかりしてるし、室内はきれいにリフォームしてあるし、1LDKでわりと広い物件だ。
 お互いの会社も数駅と近い。歩いてでも行ける。和臣さんに管理会社の知り合いがいて、いい物件を紹介してくれたのだ。
 家賃も相場より安い。大家さんに商売っ気がないらしい。
 廊下で背後から捕まえられて、包み込むように抱きしめられる。

「多紀くん」

 和臣さんは俺の後頭部をすんすん嗅いでる。襟足をちゅうちゅう吸ってくる。
 俺はくすぐったくて笑いながら身を捩る。

「作業してましたし、汗臭いですよ」
「いいにおい。多紀くんのにおい、大好きだよ」
「はいはい」
「好き……すごく好き。今日から一緒に暮らせるんだ……夢じゃないよね?」
「夢じゃないですよ」
「ずっと一緒にいてね。ずっとだよ」

 和臣さんは俺といて幸せそうにしてる。
 たぶん、本当に幸せを感じているんだと思う。わかる。伝わってくる。
 誰だって、心から大好きな人と一緒に暮らせたら幸せだよ。夢じゃないかと確かめたくなると思うよ。
 だからこそ後ろめたくて、胸が痛くなる。
 だって言えてない。
 何も訊けてない。
 なのに、和臣さんとの関係がどんどん深くなっていってる。
 他人の居場所を奪っているみたいだ。
 ここは俺の立ち位置ではないんじゃないかって、自分の中で疑問を言葉にできているのに、口に出すことができない。
 和臣さんが俺に優しい目を向けるたびに、甘い言葉を囁くたびに、つい受け取ってしまう。
 和臣さんの幸せそうな顔を見ているとなんだかんだ安心してしまうし、抱きしめられると俺もなんだか幸せで、この人の特別な存在であることを手放せない。
 和臣さんにも、片野さんにも申し訳ないと、心の底から思っているのに。間違いだったら、二人が傷つくってわかってるのに。
 ……俺って、ずるいやつだったんだな。
 情けない。
 真面目なことしか取柄がないのにさ。

「ホットでいい? 冷凍庫、氷できてないと思う」
「あ、大丈夫です」

 捕まえられながらリビングダイニングキッチンに入る。対面キッチンの向かい側にカウンターテーブルを置いてあって、和臣さんは俺を放してコーヒーを用意してくれてる。
 部屋を眺める。十四畳のリビングダイニングキッチン。
 まだ片づいてはないけれど、俺はもともと荷物は少ないし、和臣さんは海外赴任するときに大きいものは処分したので、新しく買ったものと、衣類と持ち帰った小さいもの。
 リビングの隣に四畳半の洋室がある。寝室にすべく、俺が持っていた分厚いマットレスを置いてある。

「俺の冬服、洋室の収納の上に入れてもいいですか?」
「いいよー」

 俺は洋室のスライドドアを開く。
 三段になっている収納を開けて、冬物の衣料品を入れたボストンバッグを、上段に押し上げた。
 と、そのときだ。
 手元が狂って、バッグが滑り落ちてきたのは。
 頭の上に落っこちてきて、しかも足を滑らせて――ひっくり返った。
 一瞬、視界が暗くなる。
 ――何が起きたんだろ。意識がなくなったような感覚。
 目を開けると見知らぬ天井がぼやけてる。

「多紀くん!? 大丈夫!?」

 誰かの声が聞こえて、視界のピントが合ってくる。
 心配そうな顔に覗き込まれる。
 あれ?
 誰だっけ?

「……?」

 俺、何してるんだろ。

「多紀くん、頭打ったよね? すごい音がしたよ。大丈夫?」
「……平気です」

 傍に膝をついて、助け起こしてくれる。
 近くにはボストンバッグ。開けたままの収納。
 あ、そっか。荷物を入れるか出すかしようとして、落ちてきたんだ。
 で、受け止めようとして、滑ってそのまま後ろにひっくり返って、床で頭を打ったのかな。
 後頭部が痛い。頭皮に触れるとたんこぶの気配。
 やっぱり、頭を打ってる。けっこう強く打ったな。

「頭痛は? 吐き気はしない?」
「え、あ、はい」
「ぼんやりしてる? ふらつく? ごめん、俺が上げたらよかったね」
「いえ……」

 なんだろ。
 っていうか、ここどこ?
 ぜんぜん知らない部屋。
 知らない場所。知らないものばっかり。
 知っているのは――。

「多紀くん?」
「あの、すみません。ここ、どこですか? カズ先輩……ですか?」

 目の前にいる、俺の名前を呼んでいる、カズ先輩っぽい人だけ。
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