海を泳ぐ豚

UZI SMG

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第3章

海を泳ぐ豚

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 まだ微かに雨の匂いがする。見つからない答えを探していたら、町はいつの間にか夕暮れと共に赤く染まっていた。
 アダン達は舟の修理場であったであろう木造の小屋の廃墟に身を寄せ、途方にくれていた。
 この廃墟は、アダン達がときどきたむろっていた場所で、ほこりやカビ臭くはあったものの、寝泊まりできる毛布などがあった。

 これから一体どうすればいいのだろうか?
 そう考えていると時が止まったような感覚に陥り、ただ無言で何もない地面を見ることしかできなかった。
 そういえば昨日は、じゃがいもだらけのキッシュだった。「うちの自慢は、ジャガイモたっぷりで、ベーコンは使わない」と母がいつも言っていたもので、肉が大好きな育ちざかりの子供には不評のキッシュだった。ほうれん草と、ナツメグの匂いが懐かしい。
「そういえば、母さんの料理おいしかったな」
「そうだね……」
「あと、この前行った公園でカリーナが、噴水の中で泳ぎ出そうとした時は、さすがにびっくりしたよ」
「うん……」
「あとさ、この前キッチンを掃除してたら鼠が何匹も出てきて、母さんがさ……」
「うん……」

 アダンは、現実を受け入れられず、何度も思い出を確かめるようにカリーナに話しかける。
 カリーナは空返事をして、ぼーっと遠くを見ている。
 そんな意味のない問いかけを何度も繰り返していると、何をする気も起きなくなってきて、また涙が出た。
 何気なく、ナイフで刺された患部を見ると、不思議なことに、そこまで傷は深くないようだった。むしろかすった程度の傷が多かった。

 あんなに刺されたのに、血が止まっている。人間とは不思議なものだ。
 母から託された封筒を開けると、大金と小さなメモ用紙が入っていた。
そのメモを見ると、走り書きで、“私の事は忘れて。絶対に会いに来ないで。エドエードを頼って“と書かれていた。

「エドワードって誰だよ?」
 疲れで眠そうな妹とそのメモを見ながら、アダンはどうする事もできずに窓に映る赤い空を見てつぶやいた。
「お兄ちゃんお腹すいたよ」
 カリーナが眠そうに兄に訴える。
 その表情は、必死に辛さを隠そうとしているのが分かるような苦しい表情だった。
 考えても仕方ない。まずは腹ごしらえをしなければ。
「よしイースト・キングに行こう」
「……そうだね。おいしいクロワッサンが食べたいな」
 陸揚げされていた舟にたまった水たまりで、できる限り血を流して仕度をした。
 水たまりで洗った服からは、雨と泥の匂いがした。
 町で気軽に寄れる店といえばアダン達にとって “イースト・キング”という町角のパン屋だった。
たぶん、イースト菌からかけたのだろうが、ここは時々だが、たまに母さんと通っていた場所だ。 の由来を知らない。とにかく古くからやっている町の小さなパン屋だ。

 ドアを開けると、ほのかに閉店間際のパンの生地が落ちついたような匂いがする。  
 70ぐらいの背の曲がった店主が、愛想も無く閉店の準備をしていた。
「なんか落ち着いた匂いがするね」
 カリーナはそう言いながら、目の前のパンを物色する。クロワッサンやレーズンパンなど、焼きたてではないが、魅力的な商品が並ぶ。

 昔は、母に欲しいパンをよくねだったものだ。
 それらを今の所持金なら、なんでもお腹一杯食べる事ができる。
 一瞬、売っているものを全て買ってやろうかと思ったが、虚しくなり、クロワッサンと食パンだけを買う。
 物は手に入るのに、心が満たされない気がした。
「これからどう生きていいけばいいのだろうか?」
 逃げ場のない不安感と虚無感に襲われ、買ったばかりのクロワッサンを見つめながら独り言を吐いた。

          *

 そして一週間が過ぎた、この小さな町で、殺人事件のニュースは一瞬で広まった。

 記事によると、
“母親が酔った父親を刺殺して逮捕。この家族は4人家族で、近所でも鳴りやまない騒音や、日常的に盗みなどを働くような評判が立つほどの悪い家族だった。”と書いてあった。
でたらめにも限度がある。こんな記事を書いて、いったい誰が得するんだ?
 パン屋に置いてあった新聞でこの記事を知ってからというもの、アダン達は、周りから常に見られている気がして、一気に住む世界が変わったようだった。
 パン屋の老人は、この記事が出た後、ちらちらと探るようにこちらの顔色を伺っていたが、最近はそんな事など気にしてないように、接してくれていた。
 というより目も悪く、耳があまり聞こえておらず、しゃべるのも得意ではないようだ。今のアダン達にはそれが幸いだった。

 いつものようにパン屋から出ると、アダン達が出るのを待っていたように男が二人立っていた。
服装は黒色のジャケットに、作業服のようなズボンで同じ年ぐらいの男だ。
 一人は金髪の短髪、もう一人は小さいピアスが何個か空いて耳に空いている。

――直観的に嫌な予感がした。
 アダンとカリーナは、彼らを見ないようにしながら、横をすれ違おうとした。
 すれ違う間際、ピアスの男がアダンの肩を掴んできた。
「何だよ?」

 アダンは男を睨みつける。
「ロンメル!こいつら殺人犯の息子だぜ!」
 ポケットに手を突っ込んだまま、金髪の男が、アダンを掴むピアスの男の肩を叩きながら騒ぎ立てた。
「まじかよ、俺たちが警察に代わって殺してやろうぜ」
 わざとらしく驚いた表情を浮かべたロンメルと呼ばれる男が、アダンを掴む手に力を入れてきた。
「なんだお前ら?」
 アダンもその男につっかかる。
 カリーナはその様子を見ながらパンの袋をぎゅっと抱く。
「知ってるぜ、警察も相手にしない凶悪な兄弟がこの町にいるって」
 そういい、アダンは肩を握られた男に、もう片方の手で胸倉を思いっきり掴まれた。
「おい、なんだって言うんだ」
 アダンも男を掴み返す。


「あっ?」
「ああっ?」
 互いに胸倉をつかみあった状態になる。喧嘩は慣れていないがやるしかない。
 横から金髪の男が、何も言わずにアダンの鼻を殴る。
 鼻筋を打たれたアダンは、視界が悪いままやみくもに殴り返す。
 取っ組み合いとなり、金髪の男がアダンの横腹に蹴りを入れる。
 ガードをしていなかった腹部に命中した蹴りは、アダンの内臓を容赦無く痛めつけた。
 気が飛びそうになり、気がつけば羽交い絞めにされ、タコ殴りにされた。
 ぐったりしたところで、今度は妹がその男達に取り囲まれる。
 知らない男に囲まれ、妹は恐怖で泣き叫んでいた。
「うるさい」
 そうピアスの男が声を上げ、カリーナの頬を思いっきり殴った。
 カリーナはその場にうずくまり膝を抱え黙り込んだ。
「おい、さっさと持ってるもの出せ」
 金髪の男が倒れているアダンを踏みつけながら、言った。
そしてピアスの男がポケットに入っていた封筒をアダンから奪い盗った。
 すぐさま中身を確認しはじめる。
「おお、結構入ってんじゃねえか」
「さすが殺人犯」
 二人が封筒の中身を確かめ合う高らかな声が聞こえる。
「返してください、お母さんのお金なんです。」
 そう最後にカリーナの声が聞こえた。
 アダンは立ち上がろうとしたが、後頭部に衝撃を受け、世界が消えた。

          *

(一体、俺はどこにいるんだろうか?)
 何も見えないし、何も聞こえない、真っ白な世界に一人でいるような気がした。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん」
 昔からずっと聞き慣れていた声がどこかで聞こえる。
「一人にしないで、お願いだから」
 意識が朦朧とする。
(俺は……死んだのか?)
 そう思いながら目を開けると、ぼんやりと女の子の顔が見えてえきた。
 涙が伝う顔には血がついており、ひどく震えている。
(誰だろう、この女の子は?母さんは……?父さんんは……?)
 耳なりがやんできて記憶が少しずつ戻ってくる。
 辺りは暗くなり、すっかり夜になっていた。
「カリー……ナ?」
 激しい頭痛がする中、なんとか声が出た。
 感覚が戻ってくる。
 相当怖かったのだろう。小さな体が震えながらアダンを強く抱きしめていた。
「お兄ちゃん……生きていてくれてありがとう」
「……」
 その言葉を聞き、長い間気絶していた事に気がついた。
「ごめんね」
 そういいながらカリーナの額をなぞる。
「痛」
 カリーナがアダンの手を掴み、なぞるのを止めさせる。


「大丈夫??」
「お兄ちゃんこそ大丈夫?」
「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」
 大丈夫というカリーナをよく見ると、顔に血がついていた。
「それよりカリーナ、血が出てるよ」
 アダンはカリーナの頬をまた見つめて、呟く。
「初めて殴られちゃった。悪いことしちゃったかな?」
 そういいカリーナは笑う。
 引きつった表情に、無理をしているような明らかな作り笑いだった。
「ごめん」
 アダンはそういいカリーナを強く抱きしめ返した。
「お金少しでも置いてくれば良かったね。馬鹿でごめんね……」
「謝らないで……お願い……だから……」
 カリーナは、そういいながら、目にためていた涙を我慢できなくなり、どっと流した。
 カリーナの頬に雨と涙と血が流れていく。そしてその小さな体は、寒さと恐怖でまだ震えていた。
 声を上げて泣きたいのだろうが、兄を心配させまいと、必死に我慢しているのが分かる。
(俺に力があれば…….)
 奴らは殺人犯の子供なら何をしても許されると言っていた。
 だが、警察に行けば母さんに迷惑がかかってしまう。
「……」
 考えれば考える程、答えを見つける事ができず、心が折れそうになった。
(間違った生き方しちゃダメだからね!!)
 最後に聞いた母の言葉を思い出す。
「じゃあどう生きればいいんだよ?」
 アダンは小さく呟いた。

          *

 雨霧が町中のあちこちに立ち込める。どこを進んでも、漂う水滴が行く手を邪魔する朝、まだ少し暗い町に、声が響く。
 気がつけばあの事件から3日が過ぎていた。
 少し臭う衣類に、痩せこけた雰囲気のみすぼらしくなったアダン達は、この小さな港町で有名になっていた。
――もちろん、望まない形で

「ここで働かせてください。皿洗いでもなんでもしますから」
 アダンはレストランの前で、必死に頭を下げていた。
 とにかく働かないといけない。
 そう思って店員募集の紙が貼ってあったレストランに訪問したが、話をするなりすぐに追い出されてしまった。店の前、雨の中に立たされる。
「そう言われてもね、殺人犯の子どもを雇うだけの余裕はうちにはないんだよ」
 店主と思われる小太りの男がそう言いながら、アダンを見下したような目つきで見る。
「お母さんはそんな人じゃないです。僕を守るために……信じてください」
 悔しさでアダンは、目に涙をためた。
「迷惑だよ、そういうの。噂じゃ刑務所で死んだそうじゃないか」
 そういい店主は声を荒げ、臭い者を追い払うジェスチャーをする。
「ほんとなんです……お母さんは僕を…….」
 アダンは頭を下げ、涙を流しながら訴えた。
 母が自分を助けるために、身代わりになったと言っても無駄だと分かっていたが、誰かに聞いて欲しかった。
「営業妨害だ」
 そういい店主は、アダンに蹴りを入れる。
 腹部に容赦無い蹴りが入り、アダンはその場でうずくまる。
 子供を大人が本気で蹴ると骨の髄まで響く。もう恐怖には慣れたが、やはり体は言う事を聞かずに、その場にうずくまったまま起き上がれなかった。
 その様子をしばらく店主は眺めた後、にんまり悪趣味な笑みを浮かべた。
「まあ、金があるなら飯ぐらい出してやるよ」
 店主がアダンに近寄り、うずくまる体にもう一度蹴りを入れる。
 アダンは身を庇うように地面にうつ伏せにされた。
 店主はポケットやジャケットの裏などに手当たり次第手を入れた。
 アダンは抵抗しなかった。またかと思い、抵抗する気さえ起きなかった。
 うつ伏せにされたまま、悔しさで涙がこぼれる。母さんがこんな姿見たらどう思うんだろう?そんな事を考えると、自分ではどうしようもないぐらい涙が出た。そんな涙を、雨だけが優しく包んでくれているような気がした。

「なんだよ、何もねえじゃねかよ」
 現金など目当てのものが何も見つからずに落胆した店主は、アダンを解放し、何事も無かったかのように店へ戻っていった。
 アダンは立ち上がる気力さえも無くし、ぐったりしてその場に伏せたまま動けなかった。
 雨が地面で弾ける音が目の前で聞こえる。口の中で、温かい血の味と、泥の冷たい味が混じった。
 雨や地面の冷たい匂いが、こんなに心地いいなんて考えた事がなかった。地面に伏せる自分は、いったい何をしているのだろうか?それすら分からない。
 死ぬときは、こうやって死んでいくのかな?最後に母さんに会いたいな……カリーナはどうしようか?一緒に死んでくれるかな?
 生きる希望が少しずつ無くなっていく気がした。
「お兄ちゃん……」
 その様子を遠くから見ていたフードを被ったカリーナが近寄ってきた。
 あの日以来、カリーナはフードをかぶり一目を避けている。
 アダンは妹の顔を見ることができなかった。ただ無言で地面に伏せ、このまま死にたかった。
「お兄ちゃんは悪くないよ、悪いのはお父さんだから」
 カリーナがアダンの背中をさすりながら悲しそうにつぶやく。
 アダンは自分のやったことを心から後悔していた。

 あの時、ちゃんと父親と話せていたら?落ち着いてその場から逃げる事ができていたら?自分が父親を押さえつけることができたなら?
 なんで自分はこんなに力がないのだろうか?なんで自分だけこんな目に合わなければならないだろうか?なんて自分は無力なのだろうか?
 いろんな選択肢と考えが、頭の中を何周もぐるぐると巡る。
「お兄ちゃん情けないよね……何度も地面に這いつくばってさ」
 後悔と悔しさで、声にならないような言葉を吐き、地面を叩いていると、涙が止まらなくなっていた。
「そんな事ないよ……泣かないで……」
 カリーナは、兄が泣いている姿を見ているのが辛かった。3日前の暴行事件から、兄の顔はずっと引きつっていた。
 一緒に過ごしてきた中で、いつも優しく頼りになる兄だった。
 たぶん、自分を守れなかった事を悔やんでいるのかと思うと、尚更胸が痛む。
 カリーナは少し黙って考え込みその場で兄の背中を何度も撫でた。
 雨が止まない。まるでアダンの流した涙が上から降ってきているようだ。
 カリーナはしばらく黙り込んだ後、海を見て閃いたように兄の背中を叩いた。
「今日ね!海で豚が泳いでいたんだよ。」
 カリーナは自分が考えられる限り一番明るい声で兄に声をかけた。
 アダンはカリーナの方を見た。
「……」
 無理ばかりして、今にも壊れそうな妹は、必死に笑顔を作っていた。
 何か答えてあげないと、本当に壊れてしまう気がした。
「……そんな訳ないだろ、まったくカリーナは馬鹿だな」
「ほんとだよ、めちゃくちゃ足をバタバタさせてたよ!」
 馬鹿だと思いながらアダンはその様子を想像してみる――
 溺れかけながら、“ぶーぶー”と鳴き、広い海を必死に泳ぐ姿、まるで今の自分と重なって滑稽だった。
「豚食べたいな」
 アダンはそう呟くと、気が付けば自然と少し笑顔が戻っていた。
 その顔を見たカリーナも安心したように微笑んだ。
「おかげで少し元気出たよ」
 アダンは立ち上がり、近くの海を見た。
 この雨のせいで、薄暗い海が広がっている。上から降る水が下の水と混じり合う海――
 もちろんどこにも泳いでいる豚など見えない。
「まあ、いるはずないか」
「ほんとだよ」
 カリーナは、兄が一瞬笑顔になったのを見て、声のトーンが明るくなった。
「海を泳ぐ豚を捕まえられたら人気者になれるかな?」
「捕まえられたらね、人気者になったらいっぱいパンを食べよう!」
 そういいながらアダンは、最後に買ったパンを妹に見せた。ポケットに入れていたパンは、雨で柔らかくなっていて、とても食べられるような見た目をしていなかった。

 最近は、たこのパンを小さくしながら食べている。どこにでもある味の無いパンだ。
「またパンなの? たまには魚がいいよ」
「パンは体にいいんだよ、特にミミの部分が」
「もうミミはいいからお魚がいいよ、それか豚さんがいいな」
 カリーナはフードをとって、その場で回転して、少し陽気に踊ってみた。
 その踊りをアダンは微笑んで見つめた。
(また、母さんと笑いあえたらな)
 そんな事を考えながらカリーナを見ていると、まるで周りにいろんな人達が踊っているようだ。
 昔は父さんも優しかった。
 それに、今まで一度だって酒は飲んでも暴力は振るわなかった。港から帰って来ると、毎回必ず魚や、ガラクタのような外国の骨董品などのお土産を持って帰ってきてくれていた。
 そのお土産を母と妹と見て、文句をつけたりして過ごすのが楽しみだった。

 父はよく口癖で、
「今日も無事に帰って来れて本当に良かった」と言っていた。
 よくよく考えれば、この一か月で何もかもが変わった気がする。
 母さんを大切にし、子供を心配してお土産まで買ってくれてきてくれていた優しい父さんが、急に暴力をふるうようになったのはなぜ?
 考えても無駄な事だとは思っていたが、答えを求めてしまう。
「お父さんって、いつからあんな風になったんだっけ?」
「分からない。昔は、優しかったよね」
「そういえばお父さんって漁師だったの?」
「……だったはずだけど」
 いや、本当に漁師だったのか?
 魚こそ持って帰ってはいたが、魚の話など一度も聞いた事が無かった。
 幼い頃に一緒に魚釣りに行った時も、漁師の癖に、釣り糸と針を結ぶのが下手だった。
 小さい針に、糸を通すのが苦手だとしても、結び方も合ってるかどうかも分からない、ちぐはすな結び方だった。父は時間をかけて確実に結ぶものだと言っていたが、明らかに慣れていなかった。
「……お父さんのことあんまり知らなかったのかもね」
「そうだね」
「まあ、死んでしまったから分からないか」
「そうだね……」
 答えが出ないと分かると、考える事をやめて、行く当てもなく歩きだした。

           *

 長い雨がやみ、日光が差し込んでくる。
「いい匂いがする」
 そう言って、カリーナは路地裏に入っていく。アダンもそれに続く。
 路地裏には青色のごみ箱が何個かあり、そのゴミ箱の蓋を開けて中を覗き込むと、
 おそらく客に出されたであろう、少し身が残っていた白身魚が入っていた。淡泊な色と匂いから推測すると、味つけは白ワインだけのアクアパッツアといったところだろう。
“漁師のアクアパッツアっていうのは、海水だけだ”と、昔親父が言っていた事を思い出す。
 近くに飲食店があるのだろうか?アダンはそう思った。
「あっ!猫さんだ!」
 ゴミ箱の周りに野良猫が群がってきて、ごちそうを前に低い声で威嚇し合っている。ゴミ箱の覇権を争っているのだろうか?
(こう見ると、人間も猫も同じような事をしているんだな)
 そんな事を考えていると、カリーナが猫に近寄っていき、軽く会釈をした。
 猫達は覇権争いをやめて、ピタッと一斉に静止して、カリーナを凝視した。
 カリーナは静止する猫達にゆっくり近寄っていく。猫達の止まった時間の中を自由に動く事ができるようなカリーナ。この光景を見ていると猫が追い詰められたネズミになったようだった。

「わあああああ!」
 カリーナは、ぎりぎりまで近づいたところで急に大声を出した。
 猫達は驚き、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 カリーナは笑いながら猫達からゴミ箱の利権を掌握した。その笑い方は映画やどこかの物語に出てくるような悪役の司令官そのものだった。
「あんまりそういうのは良くないと思うぞ」
 アダンはその様子を見ながら、ぼそっとつぶやいた。
「お兄ちゃんにはあげないから」
 ゴミ箱から切り身を拾いあげながら、あどけなくカリーナは笑った。
 アダンは両手を広げて、呆れたジェスチャーを返す。
 最近はこんな生活ばかりで、まるでゴミで生計を立てるスカベンジャーだ。いや、“なんでもおいしく食べる事ができる豚”と言った方が適切かもしれない。お腹は毎日のように壊していたが、それでも生きる事ができていた。
 昔は、ゴミを触る事すら嫌っていたカリーナなのに、人間、食べるものがなければなんでもありだ。いろんなゴミを漁り、使えそうな服や本を見つけては、宝物のようにしていた。
 路上の生活は、確実にアダン達を強くしていた。
 最初は警察に追われているのではないかと思い、夜も眠れなかったが、警察すらアダン達のことを目の上の瘤にしか思っていないのだろう。目が合っても声すらかけてこない。彼らにとっては、ストリートチルドレンを保護するなんていう厄介な仕事は抱えたくないのだろう。

「あまりおいしく無いね」手にとった切り身を半分口につけたところで、カリーナが素直な感想を述べる。
「まあ、いつ捨てられたのか分からないしね」
「お兄ちゃんも食べる?」
 食べかけの……いや正確には、食べかすの、切り身をつまみながら、カリーナが問いかけてきた。
「ありがとう」
 女性というのは、こういう時に頼りになるものだなとアダンは思った。

「お前ら何してんだ?」
 ドスが効いた声が響き、二人はハッとした。
 路地の入口に、中年と思われる男がこちらを向いて立っており、二人を見ていた。
 カリーナはその声に驚き、とっさに魚をごみ箱へ戻して、深くフードを被った。
 その声の主と思われる男が近づいてきて、二人の前で止まる。
「見た感じ、野良猫ではないと思うが」ドスの効いた声が再び響く。
「すみません。迷惑をかけたなら謝ります。お腹が空いていたんです」
 また蹴られると思い、アダンは謝りながら身構えた。
 こういう時に逃げる事ができない性格はほんとに辛い。

「こんな時代に物乞いなんているのか?」
 男はまるでゴミを見るような目でアダン達を見た後、首をかしげながら言った。
 この扱いにはもう慣れた、生きるために必死なのだから何を思われようと関係ないが、ゴミのように見られているのは多少不快ではあった。
「すみません、どこにも雇ってくれるところがなくて」
「名前は?」
「アダンといいます」
 男は少し考えたように二人を見た。
「例の殺人犯の?」
 殺人犯という言葉は聞きなれたが、アダンとカリーナは少し悲しい顔をして俯いた。
「はい」
 その男は、表情が無いまま、左手でズボンのポケットからタバコを取り出し、慣れた手つきで口に咥えた。
 そして右手で反対のポケットから銀色のジッポライターを取り出し、火打ち石を何回か回して、火をつけた。優しい雨の中に、ほのかに火の温かさが見えた。
 小さな火なのに、今のアダン達には、なぜかそれが神秘的に見えた。

「今日は火が付くんだな……」
 ぼそっと男はつぶやき、銀色のライターをポケットに戻した。
 何を考えているのか、よく分からない男だ。アダン達は、じっとその男の次の行動を注視するしかなかった。
「行く当てあるのか?」
 ぶっきらぼうに男が問う。
「いえ」
 アダンの擦れた声を聞いて、男はけだるげにタバコをふかして、アダン達に再び向き直った。
「やることないならうちに来な。ちょうど人出が必要だったんだ」
 ぶっきらぼうにその男は言った。タバコの煙の匂いがした。
 思いもよらない反応だった。
「え?」
「お前の父親とは少し知り合いでな、もしお前が嫌というなら、そこでゴミでも漁ってろ」
 アダンとカリーナは顔を見合わせた。
「もしかして、あなたの名前はエドワードですか?」
 カリーナが恐る恐る尋ねる。
「いや、あんな口が臭いやつしじゃない……しけもくだな」

 そう言って男はタバコを投げ捨てた。













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