海を泳ぐ豚

UZI SMG

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第4章

はじまり

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第4章 はじまり

 路地に微かな日光が差し込んでくる。空が少し笑顔になってくれた気がした。
「まずお前ら、ゴミみたいな匂いがするぞ、外のシャワーを浴びてこい」
 そう男は言い、サーファー用に貸しているという屋外のシャワー場へ案内した。
 塩の香りとコンクリートの上に落ちた砂が、少し不快な足場となり広がっていた。その近くの建物の壁から、大きく丸い白色のシャワーが突き出ていて、それがいくつか見えた。
 二人は、人目につかないように夜、公園にある噴水などで一応は水浴びをするようにはしていたが、綺麗なシャワーは久しぶりで、テンションが上がった。
「そういえば、着替えないよね?」
 シャワーを前にして、カリーナはアダンを見る。
「まあ、俺たち汚いし、そのまま浴びようか」
「そうだね、服の匂い気になってたの」
 そういい、カリーナは蛇口を思いっきり捻る。勢いよく水が出る。
「お兄ちゃん、大丈夫かな?親切すぎない?」
 シャワーの音と共にカリーナは、アダンに問いかけた。
「確かに、何か変な気もするな」
 そういいながらアダンもシャワーの蛇口を捻る
 ほんの少しだけだが、日光で温められた心地よい温水が体を伝う。
(温かい、そして透明だ)
 蛇口をひねるだけで、綺麗な水が出てくる。そんな当たり前が、こんなにすごい事だったなんて、シャワーを浴びるだけでも、久しぶりに優しい気持ちになった。
 1ケ月前は、シャワーを毎日浴びていたのが日常だったなんて不思議なぐらいだ。
「そんなことより、服のまま入ったら風邪ひかない?」
 カリーナはがむしゃらに水を浴びながら大声で叫んだ。
「自然に乾くから大丈夫」
 アダンも負けずと、叫ぶ。
「自然乾燥~」
 そういいながらカリーナは、シャワーの中を飛び跳ねる。
 日光が温かく、シャワーの蒸気に反射し、まるでひまわりが咲いているようだ。
 アダンはそれを見ながら微笑む。
「馬鹿な妹だよな」
 鼻で笑いながら、心の底から、自分の妹がカリーナで良かったと思った。
 体を流れる水と共に、嫌な事が流れていくようだ。
 アダンはシャワーを止めた後、服を着たまま袖を少し絞った。汚れたような黒色の水が出た。
「結構汚いな、せっかくだから洗うか」
 アダンはシャワーを止めて、服を脱いだ。
 あの事件から今まで洗濯などしてこなかったが、こんなに汚くなっていたとは、思っていなかった。
「タオルはいらなかった?」
 透き通ったような声が後ろから聞こえた。
 振り向くと、すらっとしたプロポーションの綺麗な女性が、タオルを胸の前に持ち、立っていた。
 身長は165cmぐらいで、くりっとした大きくて茶色い目に、ブロンドの髪に白と灰色を基調としたドレスのような服が似合うすらっとしたスタイルの女性だ。
「野良猫さんはいつも自然乾燥?」
 その女性は、少し不安そうに聞いてきた。
「は、はい……野良ネコさん?」
 美人を目の前にしてアダンは自然に緊張してしまい、目を見開く。
 その様子を見て、ぷっとその女性が噴き出した。
 笑った顔もまた美しい。大人の女性という気がした。
「お父さんが、野良猫二匹がシャワーを浴びているっていうから来てみたら、あなた達が
野良猫さんだったのね」
 笑顔のままその女性は、タオルを目の前でぎゅっとした。吸い込まれるような仕草だ。アダンはそう思った。
「それよりさ、手に持っているタオル貸してくれない?」
 アダンは顔を赤らめながら言う。
「はいどうぞ」
「ありがとう」
 アダンはその女性からタオルを受け取った。タオルから微かにオレンジのようないい匂いがした。
「綺麗な人」
 カリーナもタオルを受け取りぼそっと呟く。
「あら、分かってるじゃない。あなたお名前なんていうの?」
 少し上から目線が引っかかったが、美人ならこんなものだろう。
「カリーナっていいます」
 そんなことも気にせずカリーナが答える。
「私はリコっていいます。よろしくね。カリーナと――」
 急に美人に見つめられる事になり、硬直するアダンは心臓がバクバクし出した。
 つい、自分をよく見せようとして、髪型を整えるため、さりげなく前髪をそっと掻き上げる。
「あ……アダンといいます」
 アダンは緊張してか少し声を荒げてしまう。乾いたタオルがいつも以上に水分を吸い取っているような気がした。
「お兄ちゃんどうしたの?」
 そう妹に言われ、少し変な汗が出たのが分かった。
「ち、ちげーよ」
 上擦った声を出してしまい、アダンは顔を赤くして妹を怒鳴る。
「何が違うの?」
 リコが優しく聞いてくる。
「いや……」
 動揺するアダンを見たリコが、カリーナと目を合わせ笑った。
 アダンは、この空気に耐えられず、再び蛇口を思いっきりひねった。
「お兄ちゃんタオルでふいたばっかりでしょ!」
「うっ」
 シャワーの音と、温かい蒸気の匂いが、笑い声と共に心地よく三人を包んだ。

 シャワーを終えて、ゴミ箱があった場所に戻ってくるとさっきの男が立っていた。
改めて見ると、中年の顔に、熊のような体格。あまり関わりたくない雰囲気の男だ。
「俺の名前はブライアンだ、他の奴らからはマスターと呼ばれているからマスターでいい。職業は見た通りバーテンダーだ」
 そう自己紹介するブライアンことマスターは、白シャツと黒のジャケット、黄色のネクタイ。身なりこそバーテンダーだが、どこからどう見ても人一人は殺していそうな風貌で、どちらかと言うと殺し屋のようだった。
「お前ら名前は?」
「アダン・トルオーネです。今年16になります。」
「カリーナ・トルオーネです。今年13になります。」
「リコ・トルオーネです。20歳になります。」
 遅れてその輪の中にリコも入ってくる。
「リコは20歳に見えないな」
 マスターはそう言いながら、タバコを咥え、銀色のジッポライターの火打ち石を何度も回す。
 だが火打ち石が削れるだけで、火が出ない。
「お父さん、娘がそんなに好きだからって、親馬鹿なのね、私だっていつまでも赤ちゃんじゃないわよ」
「いや、どう見ても30は超えてるだろ」
「馬鹿」
 そういいリコは、マスターに向かって濡れたタオルを思いっきり投げつける。
 勢いよく投げられたタオルは、マスターの額に“ばちっ”と音を立てて貼りつく。
 リコはそんな事もお構いなく、バーの扉を開けて中へ入って行った。
「それより、お前ら、腹減ってんだろ?」
 マスターはタオルを顔に張り付けたまま、親指を後ろに向けた。
 親指の先には、バーの立て看板があった。黒色の看板には、“ラ・ブラッディ・メアリー”と金の文字で表記されていた。
「血まみれのメアリーというカクテル名からとった名前だ。とてもセンスがいいだろ?」
 そういいマスターは、自慢気に年期が入ったバーの重いドアを開く。
「昔は血まみれのアダンだったね」
 妹が少し悪い顔をして、兄にぼそっという。
「悪趣味だな」
 アダンは苦笑いした。
 扉を開けるとオーセンティクな木目調の作りが広がる店内、微かにオーク樽の匂いがした。
カウンター席6席に、ソファ席が2つ。オーセンティックに作られた店内は、とても落ち着けそうだった。
「とりあえず、そこに座れ」
 マスターは相変わらずジッポライターの火打ち石をガリガリやりながらカウンター席を指さした。火は付く様子がない。
 アダン達は、指示されたカウンター席にとりあえず座った。
目の前に並ぶ酒は、種類は分からないが高そうなものばかりで、いわゆる大人の世界に入れたような気分になった。
 リコはどこに行ったのか、見当たらない。
 カリーナは周りを見渡しながら、この大人の雰囲気に酔いしれたようにボーっと口を開けている。
「少し待ってろ」
 そういいマスターは、カウンター越しでも見えるように、鍋と皿を動かし出した。
 そして、銀色のボールを掲げたかと思うとレモン汁とペッパーらしきものを最後に振った。
 微かに黒胡椒の香りがした。
「俺の昼飯だが、栄養を取るのにいいだろう」
 マスターは、そういいながら一皿をアダン達の目の前に出した。
 ホワイトアスパラガスと人参に、トマトとジャガイモ、鳥肉にオランデーズソースがかかった料理がそこにあった。アスパラガスはトーテムになっており、悪くない見栄えだった。
 調味料はペッパーの他に、微かにタイムのような香料と、最後にレモンの匂いがした。
「マスター。申し訳ないです。お金がありません」
 久しぶりの温かい料理を前に、アダンは落胆した。
「こういう時は、隣の奴を見習え」
 マスターは、少し首をかしげて、隣の席に目線を移した。
 隣ではカリーナがすでに、フォークでホワイトアスパラガスのトーテムを崩していた。
「……」
 アダンも食欲に負けて、フォークを取る。
「いただきます」
 カリーナとアダンは、ナイフを使わずに、フォークで一塊の鶏肉をすくい、料理を口にした。
 ブイヨンとレモンの調和がよく取れており、最後のトマトの酸味とレモンがいいアクセントになっている。
「うまい!」アダンはつい声を上あげてしまった。空腹も後押ししてか、素直な感想だった。
 隣を見るとカリーナは、皿を持ち上げ、がむしゃらに料理をむさぼっている。
「そういえば酒はやるのか?」
「いえ、僕は飲みません」
「そうか」
 何気ないやりとりをしながら、久しぶりに温かいものが口に入り、二人は目の前の料理を犬のように平らげた。
「バケットと水置いとくぞ」
 マスターがそういい、固そうなバケットと水を二人の前へ置く。
「ありがとうございます」
 二人はお礼を言いながらバケットをソースにからめる。
 相性が良く、出されたバケットもあっという間に完食した。そして一週間前に買ったパンも密かにこのソースに絡めて食べた。気がついたら、あっという間に皿が綺麗になっていた。

「おいしかったです」
 そういいカリーナは、水を一気に飲み干す。
 マスターが食べ終わった食器を下げて、慣れた手つきでそれを洗い出す。
「リゾットとかパスタの方が良かったか?」
「いえ、とてもおいしかったです!」
「そうか、足らなかったらリコに言ってくれ、まったく料理をしようとしない馬鹿娘だ」
 そうマスターが灰色の天井に向かって少し大きめの声で言った。
「今日はいっぱい寝れそうだね」
「そうだね、おなか一杯になったの久ぶりだね」
「帰りたくないよ~」
 そうやり取りしながら、カリーナは椅子に座ったまま足をバタバタさせる。
「今はどこに住んでるんだ?」
「港の近くの廃墟です」
「そうか」
 そういい、マスターは食器を拭き出した。
「お前らの部屋だが、屋根裏になるが文句は言うなよ」
 ――唐突だった。
「え?」
 二人は目を大きく見開き、顔を見合せた。
「帰りたくないんだろ?」
「いいんですか?」二人は驚き気味に聞き返す。
「もし嫌なら、外のゴミでも漁ってろ」
 マスターは、拭き終わった食器をカウンターに置くと手招きをした。

          *

 アダン達は、マスターに案内されて、カウンター裏の2階へ続く階段を上がった。
 2階に上がると、シャウエンブルーのような薄い青色の壁紙が広がっていた。天井は一階と比べかなり低かったが、部屋がいくつかあり、とても清潔感があり、綺麗だった。
マスターは先に進んでいき、一番奥にあった部屋の扉を開けた。
 扉を開けると、そこにはリコが世界地図と手に持った紙を見合わせながら立っていた。
 港が見渡せる窓に、大きめの机、机の上には航海図と思われる紙に、コンパスといくつかの定規、使い古した鉛筆と消しゴムのカスが散乱していた。
 机の裏と正対する窓から差し込む昼の光が机に反射して、今その一瞬を写真を撮れば、間違いなく、どこかの映画のワンシーンのようだった。
 リコはいったいここで何をしているんだろうか?
できるなら手伝いたいな、アダンはそう思いながらリコの真剣な顔を見つめた。
「リコ、屋根裏をアダンに渡すが問題ないか?」
「ノックぐらいしてよね、もちろんいいわよ」
 リコはマスターを睨みながら言った。
 マスターは、そんな事も気にする様子も無く、扉を閉めて、壁に立てかけてあった梯子を手にとった。
 梯子を天井に突き上げると、天井が持ちあがり、四角い形の穴が姿を見せた。
 その天井の穴に梯子をかけて、梯子が倒れないように重しを置いて支える。
 アダンは、マスターに促され、梯子を上る。屋根裏に着くと、6平米ぐらいの広さの部屋が姿を現した。
屋根裏の天井は、三角形で斜めに落ちており、その部屋の真正面にあった黄色く古びた窓からは湾全体の景色を眺める事ができた。
 汽笛のような音がして、ちょうどトロール船が出港していくのが窓から見えた。
古い窓から差し込んでくる陽ざしが、オレンジ色で温かく感じた。
かなりいいロケーションだ。ここから新しい生活が始まると考えると、わくわくしてきた。
(埃がひどいな……)
 ただ、少し埃臭かった。
 普段物置きとして使われているのだろう。木の棒やゴルフクラブ、よく分からない年代物の古いコルクのような明らかに使わないようなガラクタが置き去りになっている。
「秘密基地みたい」
 少し遅れて梯子を上ってきたカリーナが屋根裏部屋を見て笑う。
「気にいったか?」
 屋根裏の床に、顔だけ出したマスターが聞いてくる。
「最高です。ほんとにいいんですか?」
「部屋が不満ならリコに言ってくれ、あとそこにあるゴルフクラブとかのガラクタは捨てていいぞ」
 そういいマスターは、下の階へ降りて行った。
「布巾は一階にあるから取りに来い」
 マスターがアダン達の視界から消えたところで、下から声が聞こえた。
「お兄ちゃん、マスターっていい人だね」
「ああ、顔に似合わずにね」
 そういいながら、アダンは間の抜けたあくびをした。
 安心したのだろうか、どっと疲れが出たようだ。
「とりあえず寝てから、掃除でもしようか」
「そうだね、なんかいろいろありすぎて疲れたよ」
 そういいカリーナは港に面する窓を開けた。
 港の音と共に、潮風が入ってくる。微かに遠くに聞こえる波の音がして、とても心地がいい。
 二人はその空気を感じた後に、埃だらけの床に寝転ぶ。
(安心して眠れる。何日ぶりの事だろうか?)
 埃の中にも、どこか木の優しい香りがして、二人はいつの間にか深い眠りに落ちていた。




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