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第1章:偽りの聖女と婚約破棄
しおりを挟む夕暮れの赤い陽光が、王城の広々とした石畳の回廊を鮮やかに染め上げている。真紅の絨毯が敷かれた床を、ひとりの少女――公爵令嬢アストリッド・フォン・ラルディアが静かに歩いていた。
彼女は十七歳。光を受けるたび金色に煌めく長い髪を後ろでゆるやかに結い、その上品な佇まいと美貌から、周囲の誰もが「優雅さと気高さを兼ね備えた公爵令嬢」と評してきた存在だ。しかし、彼女にはもう一つの顔がある。
――“王国に仕える聖女”。
アストリッドは幼い頃から奇跡を起こせる力を示し、神殿により公式に「聖女」として任命された。以来、貴族でありながら王国のため、人々のために、祈りと癒しの奇跡を与え続けてきた。
その献身的な姿勢は国中から敬意を集めており、国王陛下も彼女を誇りに思い、第一王子ライナーとの婚約を認めた。王家と公爵家の結びつき――それは周囲からも「円満かつ理想的な婚約」と称賛されてきたのだ。
しかし、今日、王城に彼女が呼び出されたのは、おそらく“めでたい行事”のためではない。アストリッドの胸には、言葉にならない不安が渦巻いていた。
「……今日の“重大な発表”って、何なのかしら」
口には出さず、心の中で静かに問いかける。ほんの数日前、神殿の高司祭から、急に「王家主催の集会に出席せよ」と通知があった。
その呼び出し方が妙に物々しく、周囲も「単なる式典ではないらしい」と噂している。
ライナー殿下――彼女の婚約者である第一王子も、浮かない顔をしていたように思う。まるで何かを隠そうとしているかのように、どこかぎこちない態度だった。
アストリッドは、胸に薄い不安を抱きながらも、王城の奥にある“大広間”へと続く扉の前へ辿り着く。そこには近衛兵が二人厳めしい表情で立っていたが、彼女の姿を認めると肩にかけた槍を動かして扉を開き、通行を許す。
――きぃ、と金具が鳴る音。
扉の向こうからは、ざわざわとした人々の声が聞こえてきた。すでに多くの貴族や重鎮が集まっているのだろう。アストリッドは浅く息をつき、背筋を伸ばしてからゆっくりと大広間へ足を踏み入れた。
高い天井には豪奢なシャンデリアが煌めき、壁面には歴代の王の肖像画が飾られている。深紅の絨毯が奥の玉座へまっすぐ敷かれ、その両脇には神殿の関係者、そして王家の者が立ち並ぶ。
中央には国王陛下が玉座に腰かけ、隣にはアストリッドの父であるラルディア公爵、そのさらに隣に第一王子ライナーが控えていた。だが、ライナーは彼女と目が合うと気まずそうに視線を逸らす。
――どうして、こんなにも冷たい目つきなのだろう。
アストリッドは内心のざわめきを抑えつつ、一礼してから国王へと視線を向ける。
「陛下。お呼び立ていただき、ありがとうございます。公爵令嬢アストリッド・フォン・ラルディアにございます」
そう挨拶すると、国王は深く息をついて頷いた。その表情はどこか苦渋に満ちているように見える。
「……うむ。来てくれたか、アストリッド。お前には、今日ここで正式に伝えたいことがある。皆の前で、そして神殿の高司祭の前で……」
国王の言葉を受け、神殿を束ねる高司祭――白く長い髪と髭をたたえ、金の杖を持った老人が一歩前へ進む。その横には、まだ幼さの残る茶髪の少女が小さく身を縮めていた。
「わたしは神殿を代表する高司祭として、本日、神の意志を皆さまに伝えに参りました。――実は、先日神殿に“神託”が下ったのです」
高司祭の声は朗々と響き、大広間の中にいた貴族たちを静かにさせる。「神託」という言葉は、この国では絶対的な意味を持つ。どんなに権力を持つ貴族や王族であっても、神の意志を無視することはできない。
アストリッドの鼓動が、高鳴る。――まさか、神託などという大ごとに、自分はどう関わるのか。彼女は唾を飲み込み、表情を崩さないよう努めた。
「神は仰せられた。――“いままで聖女とされていた者は、真なる聖女に非ず。新たな聖女は別に存在する”……と」
一瞬、大広間に微かなざわめきが生じる。アストリッドは胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
――“いままで聖女とされていた者は、偽り”……。
それは、明らかに自分のことではないのか。彼女が長年この国の聖女として祭り上げられてきたからこそ、そう言われることに強い違和感と苦痛を伴う。
高司祭の隣に立っている少女――茶髪の少女が、王族や貴族たちからの視線を浴び、少し緊張した様子で頭を下げる。その目には、しかしほんのわずかに喜びが宿っているようにも見えた。
「お、お初にお目にかかります。わたしはミレーユ・フォルトナと申します。……先日、神殿に仕えていたとき、神の声を聞きまして……」
ミレーユと名乗る少女は、確かに何か特別な力を持っているのかもしれない。アストリッドにはそれを否定するだけの材料もないが、だからといって、自分が「偽り」であると言われては到底納得できない。
高司祭は厳かな声で続ける。
「ミレーユ・フォルトナこそ、真なる聖女として神が選ばれし存在。これまで“聖女”とされてきたアストリッド・フォン・ラルディア殿は、その力の余波を受けて一時的に奇跡を起こせていただけに過ぎない……と神託は示しているのです」
「そ、そんな、馬鹿な……」
思わず口をついて出た言葉が、アストリッドの本音だった。自分が持つ癒しの力や奇跡は、生まれつきのものであり、実際この国の疫病を沈静化したり、困窮した農村を救ったりしてきた実績がある。
それを、一方的に「偽り」と断じられるなど、到底納得できない。
しかし、王家や神殿の重鎮たちは、どこか冷めた目でアストリッドを見つめる。彼女がこれまで成してきた奇跡は、本当は“ミレーユ”なる少女の力のおこぼれだった――まるで、そう決めつけているかのようだ。
ライナー――第一王子であり、アストリッドの婚約者でもある青年が歩み寄る。端正な顔立ちに金の髪。その瞳には複雑な色が揺れているが、彼が発する言葉は冷徹なものだった。
「アストリッド……。実は、俺も最近、お前の聖女としての力に陰りを感じていた。今までのような奇跡を見せないどころか、体調を崩すことも増えていたじゃないか」
「そ、それは……私も確かに、少し疲れが溜まっていただけで……」
「だが、事実として今の神託はお前が“偽り”だと言っている。もしお前が本物ならば、神託でそんなことが告げられるわけがない」
ライナーは眉をひそめながら言葉を続ける。その背後には国王とラルディア公爵、そして多くの貴族たちが黙して聞いている。
「……アストリッド。国は“真なる聖女”であるミレーユをこれから重用し、国を導く聖女として迎え入れる意向だ。それに伴って――お前との婚約は、残念だが解消せざるを得ない」
「な……」
頭の中が真っ白になる。自分を聖女と信じてくれたライナー、幼少の頃から支え合ってきたはずの婚約者が、平然とそう言い放つなど、想像もしていなかった。
ライナーは視線を逸らし、ややうつむいたまま言葉を絞り出す。
「お前が偽りかどうか、俺だってすぐには受け入れられない。けれど、神殿の高司祭が言う以上、逆らうことはできないんだ……。俺は王子として、国を守らなければならない。これ以上、偽りの聖女とされる存在と婚約を続けるわけにはいかない」
続いて、国王が重苦しい声音で告げる。
「……アストリッド、お前のこれまでの功績は認めている。だが、神の意志に背くことはできない。ゆえに、お前には聖女の地位を剝奪し、さらに王家との縁を断たねばならない……」
「待ってください、陛下……!」
アストリッドは声を震わせる。だが、玉座にいる王の目は厳しく、取り付く島がない。公爵としての威厳を漂わせていた父ラルディア公爵も、ただ沈痛な面持ちで黙り込むばかりだった。
そこで、まるで追い打ちをかけるように、高司祭が言い放つ。
「さらに、アストリッド・フォン・ラルディア殿には、王都からの追放を命ずる。……お前の存在は、民に混乱を与える。偽りの聖女がいつまでも王都に居座っては、国の秩序が保てん」
「――ッ!」
追放。
それは、貴族社会において最も重い処罰の一つだ。アストリッドほどの高貴な身分の者が、理由なく追放されるなど、普通ならばあり得ない。
しかし、神殿が“神託”を盾に動いている以上、王家も逆らえない。まして、アストリッドの父公爵も家を守るためには黙して従う以外に選択肢がない。
一気に広間がざわめき、隣同士でひそひそと囁き合う声が聞こえる。
「偽りの聖女、ですって……?」
「でも、これまであんなにも奇跡を起こしていたじゃないか」
「それも所詮は真の聖女の力のおこぼれ、ということかもしれんな……」
アストリッドは膝が震えるのを感じた。立っているのがやっとだ。だが、ここで泣き崩れては、彼らの思う壺だろう。――自分は公爵令嬢であり、誇り高き女性なのだ。
なけなしの気力を振り絞り、アストリッドは深く息を吸う。そして、ライナーと国王、さらには高司祭に向かって静かに告げた。
「……わかりました。私の力が“偽り”だというのならば、これからはどうぞ“真なる聖女”であるミレーユ様にお任せくださいませ。私は王都を去ります。……ですが、あなた方がもし間違っているときが来ても、私はもう二度とこの国に力を貸しません」
ライナーがわずかに苦しげな表情を浮かべる。だが、彼はそれ以上何も言わなかった。国王もただ眉間に深いしわを寄せるだけで、反論も咎めもしない。
最後に、高司祭が金の杖を床に突き立てるようにトンと鳴らす。
「それでいい。――汝は本日をもって聖女の資格を失う。王都を離れ、我らの前から姿を消すのだ。これは神の意志である」
その宣言を聞き、アストリッドは一礼して踵を返す。目に浮かびそうになる悔し涙を必死に堪えながら、まっすぐに扉へと向かって歩いた。
誰も、彼女を呼び止めない。大勢の視線だけが背中に突き刺さる。
そして彼女が扉を開けて広間を出る瞬間、背後からあの平民少女――ミレーユの声が聞こえた。
「アストリッド様、本当に……ごめんなさい。ですが、これが神の――」
「……いいえ、あなたが何者であろうと、私には関係ありません。あなたに本当に“聖女”の資格があるのなら、好きにするがいいわ」
短くそう言い残し、アストリッドはドレスの裾を翻して大広間を後にした。重い扉が閉まるとともに、かちり、と静寂が彼女を包む。
――王国を支えてきたはずの立場から一転、“偽りの聖女”として婚約破棄され、追放の身となった。
この理不尽さに、怒りと悲しみが込み上げる。それでも、涙を見せたくなかった。ここで泣いてしまえば、自分がまるで弱い存在であるかのように思われてしまうから。
アストリッドは回廊を早足で進む。すると、曲がり角の先に待っていたのは、ひとりのメイド――クラリッサだった。彼女はラルディア公爵家に仕えており、幼い頃からアストリッドの世話をしてくれている。
「お、お嬢様……今の大広間の噂を耳にしました。まさか、まさか本当のことでは……」
「ええ、本当よ。私が“偽りの聖女”だそうで。おかげで婚約は破棄、そして追放が決まったわ」
クラリッサは顔を青ざめ、愕然とした表情になる。
「そんな……お嬢様がいったい何をしたというのですか!? これまで王国に多大なる貢献をされたのに……!」
「理由は神殿の“神託”。誰もそれに逆らえないの。――いいのよ、もう。私は王都を出るわ」
「そ、そんな……。お嬢様、ご実家の公爵様は……?」
その問いに、アストリッドは寂しそうに微笑む。
「父は王家や神殿に歯向かうつもりなんてないわ。公爵家を守るためには、私ひとりを切り捨てる方が得策でしょうもの。……当然のことよ」
「そ、そんな……! 公爵家は、お嬢様のことを大切に――」
「大切にはしてくれたでしょう。でも、いつまでも“聖女”である私を誇りに思っていたのも事実だもの。私が偽りと言われたからには、もう守る理由はないわ」
クラリッサは言葉を失い、涙ぐみそうな目でアストリッドを見上げる。その姿に、アストリッドは一縷の安堵を覚えた。少なくとも、ここにいるメイドは自分を心から慕い、信じてくれているのだと。
「……クラリッサ、あなたは公爵家に残りなさい。下手に私について来ても、父に罰せられるかもしれないし、私も行き先すら決まっていないの」
「いえ、わたしはお嬢様にお仕えするためにいるのです! どこへ追放されようと、ついて行きます!」
迷いのない言葉。アストリッドは驚いたが、同時に心が熱くなるのを感じた。もう誰も信じられないと思いかけていたのに、ここにクラリッサだけはいる。
「そう……それじゃあ、一緒に来てくれるのね。ありがとう、クラリッサ。あなたの好意に甘えさせてもらうわ」
互いに微笑み合う。その笑顔は悲しみに満ちていたが、それでも優しい温もりを含んでいた。
◇◇◇
王城を出てから少し歩き、公爵家の迎えの馬車を探したが、どうやら父からの迎えはないらしい。アストリッドとクラリッサは、街道沿いで自分たちで馬車を手配するしかなかった。
日も暮れ始める王都の大通りは、商人や旅人たちが忙しそうに行き来している。どこか楽しげに笑う人々の声が耳に入るたび、アストリッドの胸は鈍く痛んだ。まるで自分だけが世界から取り残されていく気分だ。
「お嬢様、とりあえず今夜は公爵邸に戻られた方が……。お荷物も整理されませんと……」
「そうね。ここで夜を明かすわけにはいかないし、一度は戻らないと。父からも『いずれ追放だが、正式な決定までは猶予がある』と言われているし……」
本当は今すぐにでも旅立ちたい気持ちがある。しかし、身の回りの物やお金を用意しなければ、追放後の暮らしに支障をきたすだろう。追放先で生き抜くには、それなりの準備が必要だ。
王城から馬車を手配し、公爵邸に戻るまでの道のり。アストリッドは車窓から外の景色を見ながら、呆然と考え込む。
――なぜ、こんなことになったのか。
自分が“聖女”として認められたのは幼少期だ。神殿の司祭が、彼女の癒しの力を「本物の奇跡だ」と絶賛し、正式に聖女として戴冠式を執り行った。それからずっと、国王陛下やライナー王子に仕え、人々のために尽くしてきた。
あるときは疫病に苦しむ町を回り、あるときは天候不順で荒れた畑を癒し、作物が豊かに実るように祈りを捧げた。民衆の感謝や笑顔を見るたび、アストリッドは心から「この力が役に立っているのなら、私は幸せだ」と感じていたのに。
――それが、今日、一瞬で“偽り”だと否定される。
神殿の“神託”とやらがどれほどの根拠を持つのか分からないが、少なくとも現実として、王家も貴族社会もそれに乗っかり、自分を切り捨てた。
そして何より、ライナー王子。彼はかつてアストリッドを強く求め、「必ず幸せにする」と誓ったはずなのに。今では国を守るための決断だと言わんばかりに彼女を裏切った。
「……バカみたい。私、どれほどライナー殿下を信じていたんだろう」
ぽつりと呟いてみる。すると、クラリッサがぎょっとして彼女を見つめた。
「お嬢様……」
「ごめんね、独り言よ。――まあ、いいの。婚約破棄されてしまったからには、もう殿下を慕う理由もないわ。いっそ潔いじゃない」
とはいえ、内心の痛みは計り知れない。だが、アストリッドは涙を見せない。大粒の怒りや悲しみは今、静かに胸の奥で燃え盛っている。そう、簡単に浮き上がってくるような淡い感情ではないのだ。
やがて馬車は公爵邸の門前に到着した。薄闇に包まれ始めた庭園を抜け、玄関に近づくと、メイドや執事が一応は出迎えてくれる。だが、そのどこかよそよそしい態度に、アストリッドは苦笑を禁じ得ない。
――“追放が噂されている公爵令嬢”をここで歓迎する者など、そう多くないのだろう。彼女を擁護して国王や神殿を敵に回すわけにはいかないから。
屋敷の奥、父であるラルディア公爵の書斎に通される。室内には高価な木製家具や歴代当主の肖像画が飾られ、公爵が腰を下ろす大きな執務机が据えられている。
公爵は机の向こうで頭を抱えるようにしながら、アストリッドを見やった。
「……お前、王城でのことは本当なのだな?」
「ええ、私が偽りの聖女だそうです。神殿の高司祭からも、正式に追放を命じられました」
「はぁ……。なんということだ。お前の力が本物であると私も疑ってはいない。だが、神殿が“神の意志”を持ち出してくる以上、我々はどうしようもない。王家と神殿を同時に敵に回すなど、公爵家としては自殺行為に等しい」
アストリッドはちらりと父の顔色をうかがう。心底、情けないと思った。もちろん、現実問題としては仕方のないことなのだろう。それでも、娘を守る気概などまるで感じられない。
「……理解しています。だから私も、この家には長く留まりません。荷物だけまとめて、早々に王都を出ます。それが、一番穏便なのでしょう?」
公爵は絞り出すように声を出す。
「すまない……アストリッド。お前は公爵家の誇りだったのに……」
「だった、ということは、もう誇りではないのですね」
「……っ」
公爵は言葉につまる。アストリッドは一層寂しさを感じたが、同時に妙な解放感も覚えた。――もういい。自分はこの家からも、王家からも捨てられたのだ。
「では、失礼します。明日には出発いたします。お父様の邪魔をしないうちに、消えて差し上げますので」
「……アストリッド……」
公爵の呼びかけにも、彼女は振り返らない。背を向けて部屋を出ていく。
廊下で待機していたクラリッサは、アストリッドの強張った表情を見て黙ってついてくる。
◇◇◇
夜、アストリッドの部屋。
豪華な寝台の横には、貴重な調度品や宝石箱が並ぶ。しかし、この部屋も明日には出て行かなければならない。
クラリッサが手際よく大きなトランクを広げ、アストリッドの服や必要な物を詰め込んでいく。
「お嬢様、全部は持っていけませんね……。あまりに多いと目立ちますし、王都から出るときに怪しまれます。貴族の威光も、今はむしろ厄介なだけですから」
「そうね……。最低限の服と、身分証代わりの物、それから少しの宝石。お金になるものがあれば、どうにか生活はできるでしょう」
追放された身としては、もう当分は華やかなドレスを着る機会もないかもしれない。むしろ、地方へ逃れてひっそり暮らすなら、目立つ服装など邪魔でしかない。
自分が長年慣れ親しんだこの贅沢な部屋を見渡しながら、アストリッドは静かに口を開く。
「クラリッサ、あなたはそれでも私について来るの? もしかしたら、行く先々で危険な目に遭うかもしれないわ」
「もちろんです。お嬢様をおいて、公爵家に残っても仕方がありません。わたしはお嬢様に仕えることが生きがいなんですから」
その力強い言葉に、アストリッドは思わず目を伏せて微笑んだ。心が少し救われる気がする。
荷造りがひと段落すると、窓の外はすでに闇が深くなっている。月明かりが中庭の噴水を照らし、夜露が草木を潤している。かつては、この景色を見て安らぎを得ていたというのに、今はまるで別世界の光景のようだ。
――私がこの家を出たら、ここはもう二度と帰る場所ではなくなる。
ベッドの縁に腰掛け、アストリッドはそっと瞳を閉じる。頭に浮かぶのは、今日の出来事の数々――あっという間に“偽りの聖女”と蔑まれ、婚約者から裏切られ、追放を言い渡された。
それまで築いてきたものが、一瞬にして崩れ去った。あまりにも理不尽だが、あまりにも現実的。
だが、もし……本当に自分が偽りではないのだとしたら。もし、“真なる聖女”を名乗るミレーユが偽りだったとしたら――そのとき、この国はどうなるのだろう。
「……知ったことじゃないわね」
アストリッドは小さく呟く。もう、この国を救う必要など感じられない。自分を信じてもくれない者たちが、どんな苦難に陥ろうと、自業自得ではないか――とさえ思う。
確かにこれまでは、人々の笑顔のために力を尽くしてきた。だが、その“人々”の代表が彼女を切り捨てたのだ。王家や神殿が見放したのだ。その事実を思えば、もう二度と同じように国を思いやる気にはなれない。
やがて意識が薄れ始める。疲れ切った体と心は、眠りを求めているようだ。深い溜息をつき、アストリッドは寝台に身を横たえた。
――明日、すべてを捨てて王都を出る。
行き先は決まっていない。でも、とにかくここではないどこかへ。
◇◇◇
翌朝、まだ夜が明けきらないうちから、公爵邸の裏口でアストリッドとクラリッサはこっそりと屋敷を出ようとしていた。正門を使えば余計な目を引くし、わざわざ見送ってくれる者などいないからだ。
最低限の荷物を積んだ小型の馬車を、クラリッサが手配してくれている。御者も彼女の知り合いで、口の堅い人物らしい。
ひんやりとした朝の空気が肌を刺す。屋敷の裏庭を抜け、こじんまりとした門から外へ出ると、そこには古い馬車が待っていた。御者の男性は無精髭を生やし、ちょっとぶっきらぼうに見えるが、クラリッサに軽く会釈している。
アストリッドは最後に公爵邸の背の高い塀を見上げる。
――もう二度と戻ることはない。
そう悟りながら、馬車の扉を開き、クラリッサと共に乗り込んだ。御者が軽く鞭を入れ、車輪が動き出す。
王都の街並みも、まだ朝もやの中だ。行商人が荷車を押して歩き始める一方で、衛兵たちが街路を巡回する姿も見える。しかし、アストリッドを止めようとする者はいない。
――公爵令嬢が王都を離れるなど、本来なら大騒ぎだ。けれど、今回の場合は“偽りの聖女”の追放というのが半ば公然の秘密になっているのか、誰も声をかけてこない。
馬車はやがて王都の門へと辿り着く。門番が書類を確かめるでもなく、ちらりと馬車の中を見やるが、それだけだ。かつてならば丁重な挨拶を受けたかもしれないが、今はそっけない態度だった。
こうして、アストリッドはあっさりと王都を出る。もう見慣れた城の尖塔や石畳の道は、どんどん遠ざかっていく。
馬車が揺れる中、アストリッドはじっと窓の外を見つめる。
――さようなら、私の家。私の国。
けれど、不思議と涙は出なかった。ただ、胸の奥では冷たい炎のようなものが燃え続けている。裏切られた痛みと喪失感。そのすべてが、やがて憎悪や復讐心へと変わっていくような予感がある。
「お嬢様……」
クラリッサが心配そうに声をかける。アストリッドはかすかに微笑んだ。
「大丈夫よ。私たちは私たちの道を進むだけ。……王都を出た以上、もう“公爵令嬢”でいる必要もない。これからはただの流れ者だわ」
「そんな……。お嬢様はお嬢様です。偽りだなんて、わたしは絶対に信じません!」
「ありがとう。でも、その言葉があるだけで十分。……さて、これからは自分で生き抜くしかないわね」
王都から離れ、広大な平野を抜ける道はまだ長い。どこかの町で一度降り、宿を探し、それから先のことを考えなければならない。
もし、どこかで再び“奇跡”が起こせるならば、この力を使って生計を立てることもできるかもしれない。あるいは、まったく別の身分を装って細々と暮らす道もある。
その一方で、漠然とした疑念がある。――自分の力は、本当に失われたのだろうか。それとも、まだ健在なのか。
神殿の言葉が真実であれば、自分の力はやがて消えてしまうのかもしれない。それは恐ろしいが、同時に確かめたい気持ちもあった。
だが、いずれにせよ――王都が彼女を必要としないのなら、彼女もこの国を救う義理はない。
いつか、もしこの国が真なる聖女とやらに裏切られ、破滅の危機に陥ったとしても、アストリッドはもう手を貸さない。
――“偽りの聖女”と呼ばれ、すべてを奪われた今となっては、王家も神殿も自分にとっては他人も同然なのだから。
揺れる馬車の振動を感じながら、アストリッドは瞳を閉じる。夢や希望に満ちていたこれまでの人生は、もう終わった。
これから始まるのは、理不尽に追い出された彼女が、自らの意思で歩む道――“復讐”というほど明確ではないが、いつか思い知らせてやりたいという黒い感情を抱いて。
――偽りの聖女などと呼ばわって切り捨てたことを、後悔させる日が来るかもしれない。
まだ朝もやが残る王都の街道を進む馬車。その中で、アストリッドは奥歯を噛みしめ、何かを押し殺すように細く息を吐いた。
まばゆい朝日が地平線から昇り始める頃、彼女の“聖女”としての人生は、完全に終焉を迎える。
――だが、同時に“偽りの聖女”としての新たな人生が、静かに幕を開けるのだった。
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