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第2章:出会いと覚醒――真なる力を知る時
しおりを挟む夜明け前に王都を発ち、ひとまず目指したのは西方へ延びる街道だった。
アストリッドとクラリッサの乗る小さな馬車は、ひんやりとした朝の空気の中、がたがたと車輪をきしませながら進む。公爵家の徽章(きしょう)などついていない、どこにでもある平凡な馬車。それでも王都を離れる間は、できるだけ人目を避けたいというアストリッドの意向に合った。
眠気と疲労が混ざり合い、クラリッサは小さくあくびをする。だが、アストリッドの瞳は冴えていた。
「……もう少し行った先に、小さな町があるはず。今日はそこに泊まるわ」
「はい、お嬢様。そこで落ち着いて、今後のことを考えましょう」
「ええ……そうね」
穏やかなクラリッサの声に、アストリッドは曖昧に頷く。だが、頭の中は王都での出来事でまだいっぱいだ。
“偽りの聖女”と断じられ、婚約破棄、そして追放――それらは現実離れした悪夢のように思えて、しかしどれだけ瞬きを繰り返しても夢ではなく、冷たい現実のまま彼女の体を締めつける。
同時に、どうしようもなく湧いてくる怒りと虚しさ。国を救うために尽力してきたはずなのに、一方的に裏切られ、捨てられたのだ。
――二度と、あの王国に戻ることはない。戻りたくもない。
馬車はやがて王都の外れの関所を過ぎ、一面に広がる農地のあぜ道を抜けて舗装の甘い道を進む。辺りには時折、小さな森が点在し、その合間に細い川が流れている。空は晴れ渡っているが、彼女の心はまるで灰色に曇ったままだった。
◇◇◇
昼頃になり、馬車はとある小さな宿場町へと辿り着いた。人々が行き交うメインストリートは石畳ではなく固められた土の道で、ところどころに露店や食堂が並んでいる。王都の喧騒に比べれば、ずっとのどかだ。
もっとも、アストリッドはすっかり貴族らしい身なりを捨て去ってはいないが、身分を隠すためにドレスではなく地味なワンピースを着込み、頭に薄いストールを巻いている。
「お嬢様、何か食べ物を買ってきましょうか? 先ほどの馬車の御者さん、ここで手配を終えるとのことでしたし……」
「そうね。私も少し歩いてみたいわ。馬車を降りて、宿を探しましょう」
二人は御者に礼を言って馬車を降りる。御者も事情は察しているのか、余計な詮索をせず、素直に荷物を降ろしてくれた。
かくして、アストリッドたちはしばらく徒歩での移動を余儀なくされた。もっと先の町へ行くなら、また新たな馬車か馬を手配する必要がある。
まずはこの町で今夜の宿を探そう。そう決め、荷物を抱えたクラリッサとともにメインストリートを歩き始める。
小さな宿屋の軒先で、女将らしき人に声をかけた。
「お部屋を探しているのですけれど、今晩、泊めていただけませんか?」
アストリッドは貴族らしい丁寧な口調を、できるだけ抑えめにして尋ねる。だが、どこか育ちのよさが滲むのか、女将は若干恐縮したような表情になる。
「ええ、構いませんよ。ちょうど二階の奥が空いています。ただ、あまり広くはないですけれど……」
「問題ありません」
宿屋はそこまで大きくはないが、寝床と食事が確保できればいい。女将に案内された部屋でクラリッサが簡単に荷解きを始める間、アストリッドはひとり、宿の窓から外を見下ろした。
――王都を離れて、こうして旅人のように宿を取るのは、生まれて初めてかもしれない。いつもなら王家や公爵家の所有する別荘や迎賓館が使われたし、それが当然だった。
だが今は、それらすべてに頼れない。むしろ頼りたくもない。
「お嬢様、少し休まれては? 昨晩からほとんど眠っていないでしょう」
クラリッサが心配そうに声をかける。アストリッドは窓辺に背をもたれ、淡く笑みを浮かべた。
「ありがとう。……でも、まだ大丈夫。ここで眠ってしまったら、かえって体がおかしくなるかもしれないから」
「でしたら、お昼を買いに行きましょう。わたしが食事を持ってきますよ」
「そうね。あなたひとりじゃ荷物も大変でしょうし、私も行くわ。ついでに町の様子を見たいし」
貴族令嬢がわざわざ買い出しに行くなど、かつての公爵家では考えられないことだ。しかし今のアストリッドには、そんな慣習を気にしている余裕はない。むしろ自分の手で行動することで、気を紛らわせようとしている節もあった。
◇◇◇
昼の町は活気があった。地元の商人らが干し肉や野菜、果物などを並べ、旅人相手にさかんに声をかけている。幸いアストリッドは金銭にはそこまで困っていない――追放前夜、クラリッサと二人で小さな宝石や貴金属をいくつか現金化したからだ。
そのため、目立たないような地味な装いであっても、買い物には苦労しない。通りがかりの屋台でスープやパン、果実酒などを購入し、宿へ戻る途中、ふと耳をひそめる。
「ねえ、知ってる? 王都で“聖女”が偽物だったって噂だよ」
「マジかよ。ずっと王国を支えてきたあの聖女様が?」
「でも新しい本物の聖女が現れたんだろ? それで追放されたって話だ」
「へえ、信じられねえけど、神殿がそう言うなら仕方ねえわな……」
通りを歩く人々の会話に、アストリッドは足を止めかける。まだ噂がここまで広まっているとは――いや、むしろ当然かもしれない。王都のニュースは、すぐに周辺地域に広がるものだ。
クラリッサが慌ててアストリッドの腕をとる。
「お嬢様……行きましょう。聞かない方がいいです」
「……ええ、そうね」
突き上げる悔しさをこらえ、アストリッドは「もう私には関係ないわ」と自分に言い聞かせるように踵を返した。
◇◇◇
宿に戻り、買ってきたパンとスープを食べながら、アストリッドはぼんやりと明日の予定を考えていた。
「この町で一泊したら、もう少し先へ進みましょう。国境の方へ向かいたいのよ」
「国境……となると、北西か南西ですね。王国の北には険しい山脈が広がっていますし、西側に行けば帝国領に近くなります」
「そう。帝国……。私、王都でちょっとだけ話を聞いたことがあるの。最近、帝国は国力を増しているとかで、貿易も盛んだって。仕事も見つかりやすいんじゃないかしら」
“聖女”という特殊な肩書きはもう捨てた。今後は普通の人間として、自分で糧を得ながら生きていく必要があるだろう。
だけど、ちょっとだけ思うのだ――もし、自分の力がまだ残っているのなら、それを有効に使う道はないだろうか、と。
もちろん、奇跡や癒しの力が健在だと証明しても、王国にはもう戻らない。助けてもやるものか、と固く誓っている。
だが、仮に帝国ならば、“追放されたアストリッド”を利用して王国に一泡吹かせようと考えるかもしれない。そこに乗るかどうかは彼女次第だが、可能性の幅が広がるなら、悪い話でもないだろう。
アストリッドは飲みかけのスープを置き、クラリッサに視線を向ける。
「ねえ、私……本当に力が失われたのか、まだ分からないの。試したいとも思わないんだけど、確かめないとこの先のことが決められないわ」
「お嬢様……。わたしはお嬢様の力が偽りだなんて、微塵も思っていません。でも、その証明をどうなさるんです?」
「……そうね。明日、町を出て少し行った先に森があるでしょう? あまり人目のない場所で、簡単な祈りを試してみるとか……」
実を言えば、アストリッドは追放前から体調を崩しがちだった。その原因が疲労によるものなのか、それとも神殿が言うように“力が衰えている”からなのか。答えは分からない。
――もし、力がまったく湧き上がってこなければ、本当に“偽り”だったということになるのだろうか。
アストリッドはゆっくりと目を閉じる。頭の中で膨れ上がる不安と葛藤。クラリッサがそっと彼女の手を握る。
「大丈夫ですよ、お嬢様。どんな結果になったって、わたしはお嬢様を見捨てませんから」
「……ありがとう、クラリッサ。あなたがいてくれるだけで、どれだけ救われるか分からないわ」
◇◇◇
その夜、アストリッドは宿の小さなベッドで浅い眠りを繰り返した。王都を離れ、初めての宿泊。揺れる心のせいか、何度も夜明け前に目が覚める。
――夢の中で、ライナーや父の姿が浮かんでくるが、すぐにかき消えてしまう。まるで悪夢の残滓(ざんし)のように、胸を苦しめるだけだ。
翌朝、早い時間に二人は宿を出た。宿の女将に礼を言い、また荷物をまとめて町外れへ向かう。今度は馬を一頭だけ借りることにした。馬車を手配するよりは費用も安く、かつ小回りが利くからだ。
道中、森の入り口が見えてきた頃、アストリッドは馬を降りる。
「ここからは歩きましょう。少し奥へ入ったところで、休憩を兼ねて試してみたいわ」
クラリッサは馬を繋ぎながら、小声で尋ねる。
「大丈夫ですか? あまり深い森に入るのは危険ですし……」
「平気。さすがに魔物が出るほどの森じゃないでしょう? 近辺の冒険者ギルドの情報では安全だって言ってたし」
森の入り口は木漏れ日が穏やかに注ぎ、足元には小さな草花が咲いている。しんと静まる朝の空気が肌を包み込み、聞こえてくるのは鳥のさえずりと微かな風の音だけ。
二人は森の奥までずんずん進むわけではなく、そこからほんの数十メートルほどの開けた場所を探した。倒木が二三本重なっている一角を見つけ、そこに腰を下ろす。
アストリッドは深呼吸して立ち上がり、軽く手のひらを合わせる。――かつては、こうして祈りを捧げるだけで、手のひらに淡い光が宿り、人々の傷を癒やしていたものだ。
「……どうなるかしら」
自嘲まじりの呟き。自分の力が今も残っているのか、正直、怖い。もし何も起きなければ、神殿の言う通り“偽り”だったことになるから。
――だけど、決めなければ進めない。
アストリッドは静かに瞼を閉じ、意識を集中する。胸の奥、あるいは魂の芯に存在していたはずの“力”を探るように。
以前は、何かを癒やそうと思ったとき、胸の底からぽっと温かい光が湧き上がった。それが指先や手のひらに集まり、神聖な輝きとして外へ放出される。ほんのりとした優しい光だった。
――さあ、どうか。
数拍の沈黙。
すると、手のひらの中央に、ほんのかすかだが白い光が集まってくるような感覚がある。弱々しく、けれど確かに存在する“温もり”。
「……あ……!」
アストリッドは思わず息を呑む。消え入りそうな光だったが、それはすぐにふっと揺らめき、消えてしまった。
それでも、間違いなく何かがそこにあった。
「お、お嬢様、今の……!」
「……確かに、少しだけ。昔ほどじゃないけれど」
まるで壊れかけのランプが一瞬灯ったような頼りなさ。もしかしたら、自分の体が万全であれば、もっとはっきり光ったのかもしれない。あるいは、何か特別な条件が必要なのかもしれない。
――“偽り”というわけではない。力はまだ、微弱ながら存在している。
アストリッドは胸をなで下ろしたい思いと同時に、激しい憤りがこみ上げてくる。王国は、神殿は、自分の力を「偽り」だと言い切った。けれど、完全に失われてなどいないではないか。
「……これで決まったわ。私、やっぱり偽りじゃない。弱っているだけかもしれないけれど、私にはまだ“聖女”としての力がある」
小さな小さな確信。それは、彼女の今後の進路を大きく変え得る。――いつかこの力が完全に戻れば。王国を見返すチャンスが生まれるかもしれない。
でも、今はまだ何がどうなるか分からない。この一瞬の光が、すべての回復を保証するわけではないし、王国に再度挑む気概を固めるには早すぎるとも言える。
それでも、アストリッドの心には、再び“息づく炎”が灯ったような感覚があった。自分の価値が否定されても、まだ終わってはいない。いつか、絶対に……。
◇◇◇
森を出た後、二人は馬を引きながら再び街道を進んだ。目的地は明確ではないが、方角は西――帝国に近い地方都市を目指そうという話になった。
途中、野宿も覚悟していたが、幸いなことに道中にいくつか小規模の村や宿場が点在しており、そこを経由しながらゆっくりと旅を続けることができそうだ。
アストリッドは馬の背に軽く跨(またが)り、時折クラリッサを振り返る。
「クラリッサ、疲れたなら私が歩くわよ。荷物を持っていて大変でしょう」
「いえ、わたしは平気です。お嬢様こそ、無理なさらないでください」
そうは言っても、やはり慣れない旅は体力を消耗する。王都の整備された道とは違い、でこぼこが多く、日差しを遮る建物も少ない。
あっという間に汗が流れ、喉が渇く。アストリッドは途中で泉を見つけ、水をくんで顔を洗った。
「……王都を出て、まだ二日かそこらなのに、もうこんなに疲れるんだもの。情けないわね」
「お嬢様は、これまでの分、寝不足もありますし……。ゆっくり休める場所が欲しいですね」
「そうね……。でも焦らず行きましょう。私にはもう、帰る場所なんてないんだから」
くすりと苦笑めいた息を漏らし、二人は再び道を行く。
◇◇◇
その日の午後。日差しが頂点を過ぎ、午後の陽光が柔らかくなり始めたころ――街道沿いの森の中から、突然けたたましい悲鳴が聞こえてきた。
「た、助けてくれぇぇぇぇ!」
男の絶叫だ。アストリッドとクラリッサは顔を見合わせる。
「なに……? いったい何があったのかしら」
「お嬢様、危険そうです……でも放っておけないですよね」
悲鳴はすぐ近くの茂みの奥から響いている。まるで何かに襲われているような切迫した声だ。アストリッドは急いで馬を木につなぎ、クラリッサとともに声の方へ向かって駆け出した。
森の入り口、少し小道が延びた先で、男が二人――というより、片方はまだ若い少年のようにも見える――必死に何かと対峙していた。それは、牙をむく大きな獣。
「イノシシ……? いや、ずいぶん凶暴そうね。まるで魔物のようだわ」
牙の生え方や異様な赤い目からして、ただの動物ではないのかもしれない。男たちは木の棒や小さな手斧で抵抗しているが、すでに足元に血が滴り、どちらかがケガを負っているらしい。
「ぐっ……くそ、こんなところに出るなんて聞いてないぞ……!」
「息子が危ねぇ! 誰か、誰か助けてくれぇ!」
アストリッドは一瞬迷う。――ここで助けに入っても、うまくいくのか。自分の力が不安定なのは明らかだ。
しかし、このまま見捨てれば少年も含めた二人が死んでしまうかもしれない。
「クラリッサ、あなたは下がってて。私が行くわ」
「で、でも……お嬢様!」
「大丈夫。少しは戦闘訓練も受けたことがあるの。公爵令嬢であっても、礼儀作法だけを学んでいたわけじゃないんだから」
実際、アストリッドは基本的な護身術や剣技を習った経験がある。とはいえ、魔物らしきもの相手にどこまで通用するか分からないが、何もしないで終わるよりはマシだろう。
彼女は地面に落ちていた丈夫そうな枝を拾い、素早く駆け寄る。
「下がって!」
叫ぶと同時に獣の背後へまわり、思い切りその枝を振り下ろした。が、獣は凄まじい反応速度で振り返り、牙を剥き出しにして突進してくる。
「くっ……!」
アストリッドは寸前で横に跳びのき、危うく牙を避ける。周囲の木々や下草がざわざわと揺れ、獣の唸り声が響く。
「お嬢様っ!」
クラリッサが悲鳴を上げるが、アストリッドは大丈夫だと手で合図する。目の前にいる獣は、明らかに普通の野生動物より凶暴だ。赤い目が血走っていて、ただのイノシシより一回り大きい。
どうする。枝では埒(らち)が明かない。奇跡を使うにしても、治癒以外の力はほとんど学んでいない。だが――公爵家で学んだ短剣の扱いがあったはずだ。
アストリッドは落ちていた小石を獣の正面に投げつけ、その隙に負傷した男たちの近くへ移動する。
「大丈夫? 怪我は……」
「俺はなんとか……でも息子が血を流して……」
見ると、少年の脚から血がにじんでいる。深手ではなさそうだが、このまま襲われれば危うい。
アストリッドはさっと少年に近づき、肩を貸すように立たせる。
「立てる? ここから少し離れましょう」
「ごめんなさい……ぼく……痛くて……」
「無理しないで。できるだけゆっくり」
その間にも獣はアストリッドめがけて突進してこようと身構えている。このまま少年を逃がしても、自分が標的になるだけ。正直、かなり危険だ。
――でも、放ってはおけない。
アストリッドは覚悟を決め、少年の父親に後ろを任せる。
「あなたは彼を連れて下がって。私が時間を稼ぐわ」
「だ、だめだ! 女の子ひとりでこんな魔獣に……」
「いいから早く!」
情けない話だが、アストリッドは立ち向かうしかない。この場に戦える大人はほとんど負傷している。唯一、ほぼ無傷なのは自分とクラリッサだけ。
クラリッサは武闘の訓練など受けていないので、彼女を巻き込むのは危険すぎる。
「来る……っ!」
真っ赤な瞳をぎらつかせた獣が、地を掻くようにして突っ込んできた。先ほどよりも勢いがある。アストリッドは肩を落とし、タイミングを計る。
――一瞬の隙を見て横にステップし、持っていた枝で側面を叩く……はずが、獣の動きが予想より速く、アストリッドの腕をかすめていく。
「ぐっ……!」
鋭い痛みが走り、服の袖が裂ける。幸い致命傷ではないが、かすり傷とはいえ流血もある。
獣はさらに振り向き、今度は牙を正面に向けて突き刺そうと迫ってくる。
――このままでは危ない。回避も次で限界だ。
(せめて少しでいい……どうにか止められないものか)
脳裏をよぎるのは、自分の“奇跡”の力。治癒だけでなく、ごく稀に相手の動きを封じたり、光で目晦ましにしたりといった応用が利く場合があると、古い文献で読んだことがある。
だが、それは高度な制御と純粋な魔力が必要とされるとされ、王都でもほとんど実例がなかった。
――だけど、今は祈るしかない。
「っ……お願い……!」
アストリッドは両手を突き出し、必死にイメージする。白い光が閃いて獣の目を覆い、一瞬でも動きを鈍らせる――そんな都合のいい奇跡を。
同時に、胸の奥が熱くなるような感覚が奔(はし)った。かすかな光を宿した手のひらから、薄青い火花のような光が溢れだす。
「……あ……?」
自分でも見たことのない色。かつての“聖女”としての癒しの光は優しい金色や白色だったはずだ。
しかし今、アストリッドの掌から溢れるのは、淡い青白い輝き。それが獣の鼻先に触れた瞬間、バチンと小さな閃光を放ち、獣は悲鳴のような唸り声を上げて後ずさる。
――効いている……?
獣の動きがほんの少し止まる。その隙に、アストリッドは懸命に離れていたクラリッサに声をかける。
「クラリッサ、今のうちに二人を連れて逃げて! 後は私がどうにかする!」
「お、お嬢様、それは……!」
「早く!」
クラリッサは震えながらも、少年と父親の肩を支え、少しずつ安全な方へ移動を始める。アストリッドは獣から視線を外さず、再度両手をかざした。
「――どうか、沈まれ……」
心を落ち着かせ、もう一度あの光を呼び出そうとする。しかし、先ほどの青白い火花は一瞬きりで、次に同じ動作をやろうとしても、うまく出てこない。
焦りと恐怖が混ざり合う。獣は息を荒くしながらも、明らかに怒りの矛先をアストリッドに向けている。血走った瞳が、凶暴な殺意を宿していた。
「まずい……もう一度、あの光が出せないと……!」
だが、アストリッドは意を決して足を踏み出す。後ろに回避するだけでは、いずれ体力が尽きてしまう。先手を取るべきだ――そう判断した。
枝を握り直し、獣が突進してくるタイミングで自らも前へ踏み込み、枝の先を力任せに突き出す。
……しかし、獣はその程度の攻撃をものともせず、牙を突き立てようとする。正面衝突になれば、こちらが圧倒的に不利。
(せめて……もう一度!)
アストリッドは必死で力を絞る。――そもそも、こんな荒業ができるような訓練は受けていない。だが、何とかするしかないのだ。
その瞬間。
獣の身体が、まるで横合いから衝撃を受けたかのようにがくりと揺れる。次の瞬間、鋭い剣筋が光り、獣の首筋を斬り裂いた。
「ぐるぁぁぁぁっ!」
獣は苦悶の叫びを上げ、地面をのたうつ。予想外の出来事にアストリッドは動きを止め、息を呑んだ。
「な、なに……?」
視線を向けると、そこには一人の青年が立っていた。長身に漆黒の外套をまとい、その手には血を滴らせた長剣。精悍な横顔が、まるで彫像のように美しい。
……初めて見る顔だった。王国の貴族にはいないタイプの風貌。どことなく異国の空気を纏っているように思える。
青年は一瞬アストリッドの方へ目を向け、小さく息を吐く。
「危ないところだったな。ここらで魔獣が出るとは思わなかったが……大丈夫か?」
「え、ええ……。あなたは……」
獣は首筋から大量の血を噴き出し、痙攣(けいれん)するように横たわっていた。もう動かないだろう。獣――もはや魔獣と呼ぶべき存在だったのかもしれない――の絶命を確認し、青年は剣を一振りして血を払い落とす。
「俺はただの旅人だよ。この先の街道で休憩していたら悲鳴が聞こえたから、駆けつけたまでだ。……そっちはケガをしてるな。手当てはできるか?」
「え、あ……」
言われてみれば、アストリッドの左腕が浅く切れており、じわじわと血が滲んでいる。痛みで思わず顔をしかめた。が、獣に致命傷を負わされなかっただけ幸運だったともいえる。
クラリッサが慌てて駆け戻ってくる。先ほどまで気絶しそうだった父子も、何とか動ける状態になっている。
「お嬢様……! 大丈夫ですか、傷が……」
「大したことないわ……少し切れただけ。あなたこそ、あの二人を見てあげて。どの程度のケガか分からないもの」
青年はアストリッドの立ち振る舞いを見て、少しばかり興味を惹かれたような表情をする。普通の娘なら、こんな凶暴な魔獣を目の前に失神してもおかしくないのに、立っていられるどころか応戦すら試みていたのだから。
「さて……俺は旅人とは言ったが、多少の薬草や治療道具は持っている。もし必要なら使うか?」
「それはありがたいけど……」
アストリッドは迷った。自分には本来、“聖女”としての治癒魔法があるはずだ。だが、先ほどの奇跡のように、うまく発動する自信がない。第一、自分の傷を癒すことなど、よほど集中力が必要だ。
ここは大人しく薬草に頼るべきか――そう思った矢先、ふと手のひらから熱を感じた。
「……今なら、もしかして……」
小声で呟き、そっと腕に手を当て、瞼を閉じる。微かに脈動するような光が指先に広がり、ひりつくような痛みが少し和らぐのを感じた。まるでほんの数秒間、肌を覆うように薄いベールがかかったかのようだ。
開いた傷口が、完全ではないものの、血がすっと止まる。こんな風に軽く治癒できるのも、ずっと失われていない証拠だ。
「なっ……? 今のは、魔法か?」
青年は目を丸くし、クラリッサや父子までも驚いた表情でアストリッドを見つめる。わずかながらも治癒の力を行使したのだ。
――そうだ。アストリッドは偽りなどではない。この力は確かに自分の中にある。
ただし、以前のような大きな奇跡ではなく、ごく小さな治癒。それでも初めて目にした者からすれば、十分に神秘的だろう。
青年は少し考え込むように口元に手をやり、やがて静かに笑った。
「なるほど……どうやらただの旅人というわけじゃなさそうだな。失礼だが、俺はジークと名乗っておこう。君の名は?」
「……私はアスト……リン、よ。あまり大した者ではないわ」
本名を名乗るのは危険かもしれない――そう感じたアストリッドは、偽名を使うことにした。万が一、王国の追っ手があるとも限らないし、迂闊に自分の名を広めたくはない。
「アストリン……か。いい名前だ。少なくとも、それだけの治癒の力があるなら、そう簡単には死にそうもないな」
「……ありがとう、助けてくれて」
正直、助かったのはアストリッドの方だ。もしこの青年が来なければ、もっと大きなケガを負っていたかもしれない。下手をすれば命を落とす恐れすらあった。
一方、少年と父親の方も、脚の傷や浅い切り傷程度で済んでいるようだ。彼らは口々に「ありがとう」「あなたたちのおかげで助かった」と頭を下げる。
クラリッサが安堵の息をつきつつ、そっとアストリッドに寄り添う。
「お嬢様……よかった、本当に……」
「私も……危なかったわね。でも、これで分かったことがある。まだ私の力は完全に消えていない」
そう呟くアストリッドの瞳には、決意の色が滲んでいた。追放された身であっても、自分にはまだ何かができる。そう実感したのだ。
◇◇◇
その後、青年――ジークの勧めで、負傷した父子とアストリッドたちは近くの小屋に移動し、応急処置をすることになった。ジークいわく、狩人仲間が使っている休憩所のような場所だという。
こぢんまりとした丸太小屋には最低限の寝床や机があり、雨風をしのぐには十分だった。父子のケガも落ち着き、アストリッドとクラリッサは一息つく。
ジークは小屋の外へ出て、獣の死骸の始末をしていたようだが、やがて戻ってくる。その顔にはわずかながら緊張感があった。
「……あの魔獣は妙だな。普通のイノシシが、魔力を帯びてあそこまで暴走するなんて、そうそうない。誰かが意図的に呪術をかけたか、あるいは呪われた場所を徘徊していたのか……」
「呪われた……?」
アストリッドは思わず問い返す。
「そんなことがあるの?」
「珍しいが、ありえない話じゃない。近隣の魔物の棲む森から、こんな街道近くまで下りてくることもある。ただ、ここは王国領の外れだろう? これから先に行くなら、十分気をつけた方がいい」
王国領の外れ。もう少し行けば、隣国との国境近くになる。つまり、帝国との交流も増えてくる辺りだ。
“呪われた魔物”の存在など、王都にいた頃はあまり耳にしなかった。もしかすると、辺境や国境地帯には王都では想像もつかない脅威が潜んでいるのだろうか。
ジークは剣を鞘に収めながら、アストリッドを見る。
「ところで……アストリン。君のその力、やはりただ者じゃないよな。治癒魔法なんて、相当レアだ。普通は一朝一夕(いっちょういっせき)で身につくもんじゃない。むしろ、王族や大貴族の血筋が多いと聞くが……」
「ええ……そうね。でも、大した力じゃないわ。見ての通り、私ひとりではあの魔獣を倒せないし……」
うまくはぐらかすしかない。下手に正体が知られれば、追放された“偽りの聖女”という噂が広まりかねない。
ジークは詮索するでもなく、軽く肩を竦めた。
「それもそうだな。もし本物の聖女なら、もっと派手に光が降り注いだりするんだろう?」
「……さあ、どうかしら」
アストリッドは苦笑いを浮かべる。本物の聖女と自分を比較されるのは、皮肉以外の何ものでもないが、ジークには悪意がないようだ。
一方、クラリッサもひやひやしながら会話を聞いている。だが、ジークが深く掘り下げてくる様子はないので、ひとまずは安心した。
◇◇◇
そうして、魔獣の一件で小屋に滞在することになったアストリッドたちは、夜が近づくと父子とも別れを告げる。彼らは地元の村へ戻るらしく、深々と礼を述べて去っていった。
結果的に小屋には、アストリッド、クラリッサ、そしてジークの三人が泊まる形になる。ジークは自分は野宿にも慣れているからと言ったが、この小屋にスペースがあることと、アストリッドたちが危険に巻き込まれる可能性が高いという理由で残ってくれるようだ。
日が沈み、焚き火の暖かい炎が小屋の中を照らす。アストリッドはその火を見つめながらぼんやりと思考を巡らせる。
「……あんな魔獣がそこかしこにいるのかしら。私、王都にいた頃は知らなかったわ」
「辺境や国境付近では、魔物が出る話は珍しくない。だが、今日のはちと奇妙だったな」
ジークが答える。彼は焚き火に鍋をかけ、煮立ったスープに薬草を加えながら、時折外を気にするように視線をやる。
しばらくすると、鍋の中から香ばしい香りが漂い始めた。ジークは木のお椀にスープをよそい、アストリッドとクラリッサに渡す。
「腹が減っているだろう。こんなものでよければ食べてくれ」
「ありがとうございます。助かります……」
アストリッドは一口飲んでみる。地味な味だが、体が温まる。――何か妙に懐かしさを感じた。王宮や公爵家で食べていた複雑な味付けのご馳走とはまるで違う素朴な味。
けれど、今の自分にはこれがむしろしみる。旅の途中、こうして誰かと焚き火を囲むのは、初めての経験だ。
すると、ジークがぽつりと呟く。
「君たちは、どうしてこんな辺境を旅してるんだ? 見たところ、あまり旅慣れていないように見えるが……」
アストリッドはスープをすすりながら考える。どう答えるべきか。
「……少し事情があって、王都を出たの。しばらくはあちらに戻る気はないから、行けるところまで行こうと思っているわ」
それは真実だが、詳しく説明する気はない。ジークもそれ以上は深く聞かない。
しかし、焚き火の炎をじっと見つめながら、低い声で言う。
「そうか。……王都を出る事情なんて、それぞれあるだろう。俺も似たようなもんだ。……ま、今は帝国の方へ向かう予定だけどな」
「帝国……?」
アストリッドは反応せずにはいられない。自分も行こうとしていた先だ。
「あなたは帝国の出身なのかしら」
「いや、純粋な帝国人ってわけでもない。外套を見ての通り、傭兵みたいなことをやってるから、あっちこっちを流れているだけさ」
ジークはさらりとそう言うが、アストリッドはどこか引っかかるものを感じる。彼の佇まいには、ただの傭兵とは思えない品格がある。剣の扱いも相当の腕前だが、それだけではないオーラがあるように思えた。
だが、彼が話したがらないなら、こちらも詮索しない方がいいだろう。お互いさまなのだから。
◇◇◇
翌朝、まだ陽が昇る前。アストリッドとクラリッサは小屋を出ようとしていた。ずっとジークに頼るわけにもいかないし、予定通り西へ向かうつもりだ。
寝袋を片付けながら、ジークが声をかける。
「お前たち、一人で平気か? この辺りにはまだ魔物がいるかもしれん」
「……そうね。でも、あなたにずっとついてきてもらうわけにもいかないわ」
「そうだな。俺もそろそろ行かなくちゃならない。……けど、もし道中で困ったら、また会うかもしれないな。特に帝国の方へ行くなら、どこかで鉢合わせる可能性が高い」
ジークはそれ以上何も言わず、小屋の扉を開けて外へ出た。アストリッドとクラリッサは彼を見送るように少し遅れて小屋を後にする。
森の外れまで来たところで、ジークは「じゃあな」とだけ呟き、姿を消していった。クラリッサが少し寂しそうにする。
「あの方、どこか不思議な雰囲気の人でしたね……」
「ええ。……きっと普通の傭兵じゃないんでしょうね。あれだけ強いんだもの」
魔獣をいとも簡単に斬り伏せた剣の腕前。そして、どこか謎めいた態度。アストリッドはほんの少しだけ興味を持ったが、今は自分の旅を優先しなければならない。
クラリッサとともに再び馬を引きながら、西へ続く道を進む。今回の一件で、旅の危険さを身をもって味わったが、その分、自分の力が完全に消えていないことを確信できたのは収穫だった。
――そう、この力がもっと戻れば、あるいは以前よりも強まれば。いつか、王国を見返すことができるだろう。
真の聖女だと名乗ったミレーユ、そして彼女に与した王家や神殿の者たち。彼らが取り返しのつかないほど後悔し、頭を垂れる時を、アストリッドは心の底で願っていた。
そのためには、もっと知識や経験を積まなければならない。新しい地で、新しい道を見つける。――帝国へ行けば、その手がかりがあるかもしれない。
そう、静かに決意を固めながら、アストリッドは朝露に濡れる道を一歩一歩踏み締めていく。いつか、必ず取り返しのつかない“ざまぁ”を味あわせるために。
◇◇◇
旅を続けるうちに、少しずつ地形が変化していった。森や丘陵が増え、ところどころで小さな砦や関所を見かけるようになる。王国の中央部とは違い、辺境らしい荒涼とした風景も目立つ。
人里離れた地域を通るときは、魔獣の脅威も頭をよぎるが、今のところ大きな危険には遭遇していない。時折クラリッサが怯えたように周囲を見回すと、アストリッドは「大丈夫」と声をかける。
「このあたりにはジークみたいな狩人や傭兵も多いんでしょうね。街道に魔物が出たらすぐに狩られるはずだわ」
「そうだといいんですが……」
二人はこまめに小さな集落や宿場に立ち寄り、情報を集めながら少しずつ西進する。アストリッドは隠しているつもりでも、上品な言葉遣いや立ち居振る舞いからどこか高貴な出自を感じ取られてしまうらしく、宿の人や店の主人から「お嬢様」と呼ばれてしまうこともある。
それでも彼女は偽名の“アストリン”を通し、「ちょっとした事情があって」とだけ説明して深く追及されないようにする。幸い、辺境の人々はよそから来た旅人に対して大らかなのか、そこまで詮索してこなかった。
◇◇◇
ある日の夕暮れ。
あたりは赤く染まり、日の入りが近い。二人は小さな村に辿り着き、その村で今夜を過ごそうと考えていた。村の入り口に立つ木製の柵の門をくぐると、子どもたちの声が聞こえ、焚き火の煙が立ち上る家々が見える。
しかし、どこか空気が重い。村人たちの顔には疲れが滲み、どこか殺伐とした雰囲気すらあった。
「……どうしたのかしら。みんな辛そうな顔をしているわ」
「本当ですね。病気でも流行っているんでしょうか……?」
そう思った矢先、村の広場と思しき場所に人が集まっているのが見えた。何やら大きな馬車が一台止まっていて、その周囲にずらりと武装した男たちが立っている。
「おい、明日はもっと税を納めてもらうぞ。王国の命令でな」
「そんな……これ以上どうやって払えってんだよ……!」
「黙れ。払えなきゃ、お前らの畑や家畜を没収するまでだ」
どうやら徴税官らしき者たちが、村人を脅しているようだ。その姿は粗野で、まるでならず者の集団に見える。
アストリッドは唇を噛む。――ここは辺境だ。王国の役人がきちんと見回るよりも、悪辣な地元の権力者や自警団が大手を振っている可能性もある。
しかし、聞こえてきた言葉には“王国の命令”というフレーズが混じっていた。つまり、これは正式な徴税かもしれない。
「くっ……王都を追い出された私だけど、こういうのは見ていられないわね」
「お嬢様、どうされるんです? 下手に口を出すと、今度は私たちが敵視されるかも……」
クラリッサの警告も尤もだ。だが、アストリッドはどうにも放っておけない。彼女はかつて“聖女”として多くの民衆を救ってきたからこそ、虐げられる人々の姿に黙っていられないのだ。
もっとも――今の自分にどこまでのことができるだろうか。大した力は出せないし、ましてや王国の権力に楯突くのはリスクが大きい。
それでも……。
「少し、話を聞きましょう。状況によっては助けられるかもしれないし」
「わ、わかりました……」
二人は村人たちが集まる広場へ近づく。すると、案の定、武装した徴税官の一人がこちらに目を向けて、「何だ、お前たちは?」と威圧的な態度をとってきた。
村の古老と思われる年配の男性が「この二人は旅人だ。関係ないじゃろ」と取りなそうとするが、徴税官は鼻で笑う。
「ふん、いいや。関係ないとは言わせねえ。お前らもここを通るなら、通行税を払ってもらおうか。今は辺境警備のために増税中だ。旅人だろうが構わねえ」
周囲の村人がざわざわとする。こんな悪質なやり方がまかり通るのか――確かに辺境では、自称“徴税官”が非道を働くこともあると聞く。
アストリッドは冷えた目でその男を見つめる。
「通行税? ここはまだ王国の管轄かもしれないけれど、こんな村一つ通るだけで大金を取るなんて、正規の徴税ではあり得ないわ」
「ほう、口の利き方がわからん嬢ちゃんだな。だったら、王城へ直接文句を言いに行ったらどうだ? ……ま、その足が折れてなけりゃあの世まで歩けるならな」
男の卑劣な視線がアストリッドを舐め回す。明らかに相手を威嚇して、言い分を通そうという魂胆だ。
一方、村人たちは青ざめた顔で「やめておけ……」と言いたげに声を殺す。彼らはこの武装集団を恐れている。
「いいわ。通行税ね。いくらなの?」
アストリッドはあえて毅然とした態度で尋ねる。男はニヤリと笑い、アストリッドの身なりをじろじろ見る。
「そうだな……一人銀貨十枚ってとこか」
それは田舎の宿屋に十泊分はできる大金だ。町や村を通るたびにそんな金を毟り取られていては、すぐに破産するだろう。
まして、ここで踏み倒そうものなら、命の保証もない。村人がやられているのも、まさにそういう構図だ。
アストリッドは唇を結び、「なら、証拠となる領収書を書いてもらおうかしら」と返す。
「領収書……? はは、なんだそりゃあ。そんなもんいらねえだろ。俺たちは正式な命令でやってんだぞ」
「正式な命令なら、余計にそういう手続きが必要でしょう?」
男は途端に不機嫌な顔になり、刀の鞘を掴んで脅す。
「いいか、嬢ちゃん。俺たちはこの辺り一帯の徴税も警備も任されてんだよ。これ以上グダグダ言うなら、その小賢しい口を塞ぐぞ」
周囲の空気が一気に張り詰め、クラリッサが「お嬢様……!」と震える声を出す。
――どうする。
このまま払ってやり過ごすか? それとも一悶着起こしてでも正当性を主張するか?
……どちらにしろ、王国にかかわるならず者に手を出すのは危険だ。が、すでにアストリッドの怒りは抑えがたいところまで来ていた。
――今や自分は“偽りの聖女”として追放された存在。こんな連中を恐れて屈しても、得られるものなど何もない。
(だったら、私の力を見せてやるのも手かもしれないわね。たとえほんの少しの奇跡であっても。……いや、下手をすれば事が大きくなるかもしれない。でももう構わない)
アストリッドは静かに深呼吸する。王都を出てから芽生え始めた、黒い感情。そして少しずつ蘇る奇跡の力。それが今、入り混じって不思議な昂揚感を生んでいた。
男が刀を抜こうとする。周囲の取り巻きも構える。村人たちは怯え、後ずさる。クラリッサが縋(すが)りつくように「お嬢様、そんな……戦うんですか?」と囁く。
しかし、アストリッドは凛とした態度で男をまっすぐ見据えた。
「……あなたたちのようなならず者が、王国の名を語るなど笑止の極みね。……ええ、払わないわ。あなたたちは嘘つきよ。今すぐその馬車に乗って消えなさい」
男は怒りで頬を引き攣らせる。
「上等だ、嬢ちゃん。斬り伏せてやるから覚悟しろ!」
――そう言って、振り下ろされる刀。
アストリッドは瞬時に両手を掲げる。今なら、少しは治癒以外の力を引き出せるかもしれない――そう信じて、思い切り魔力を込める。
「(私の力が本当なら、せめてこの程度……!)」
すると、彼女の手のひらに再び青白い光が宿る。先日、魔獣を一瞬怯ませたあの光。
バチンッと火花が散り、男の刀は空中で弾かれるように逸れた。男は「なにぃ!?」と驚愕の声を上げ、よろめく。
周囲の取り巻きたちも目を丸くし、「魔法使いか……!」とざわつく。
だが、問題はここからだ。男は怯んだが、こちらもそんなに何度も光を放てるわけではない。いざとなれば、また武器を抜かれたり、複数人に囲まれれば分が悪い。
――そこで、アストリッドはすかさず凛とした声で言い放つ。
「これ以上、私に剣を向けるなら――次は命を保証しないわよ。さあ、どうするの?」
実際、そこまでの力は持っていないかもしれない。けれど、思い切り虚勢を張ることによって、相手に隙を与えないのだ。
これまでは貴族としての威圧感や聖女としての権威があったからこそ、こんな台詞(せりふ)を吐くことはなかった。だが、追放された今はもう何も失うものがない。
男たちの中には、アストリッドの一撃にビビっている者もいる。「下手に手を出すとまずいんじゃ」と顔を引きつらせ、互いに視線を交わす。
「くそっ……! おい、もういい。こんな魔法使い相手に傷モノにされるのは割に合わん」
リーダー格らしき男は苛立ちまぎれに吐き捨て、馬車の方へ引き返す。
「覚えてろよ! その力がどこで通用するか分からねえが……俺たちには王国の後ろ盾があるんだ。どこへ逃げてもただじゃおかねえぞ!」
捨て台詞を残し、徴税官の一団は馬車に乗り込んで村から出て行く。
……村人たちはポカンと口を開けて、遠ざかる馬車を見送っていた。やがて古老の男性が、震える声でアストリッドに近寄る。
「た、助かった……。あんな連中が最近はずっと居座っていて、我々を苦しめていたんです。まさか追い払ってくれる人がいるなんて……本当にありがとう」
「いいえ。こちらも、危ないところだったのは確かです。今後も奴らが戻ってくる恐れはあるでしょう。……私にはどうすることもできません」
アストリッドは低い声で答える。事実、今回の件はあくまでその場しのぎに過ぎない。連中が本当に王国の命令を受けているなら、王国との繋がりをたどって仕返しを企む可能性もある。
しかし、村の人々は口々に感謝を述べ、アストリッドを迎え入れた。せめて今夜は泊まっていってほしい、少しでも礼をしたい、と。
クラリッサは安堵した表情で、「すごいです、お嬢様。やっぱりお嬢様の力は本物です」と囁く。アストリッドは「まだ微弱だけどね」と苦笑いを返す。
――それでも、こうして少しでも“自分にしかできないこと”があると感じられれば、心は救われる。
◇◇◇
村人たちが用意してくれた夕食は、素朴な煮込み料理と焼き立てのパン、そして地元で作られた果実酒だった。囲炉裏を囲み、子どもたちが興味深そうにアストリッドを見つめる。
「お姉ちゃん、すごい魔法使えるの? ぼくたちにもちょっと見せて!」
とせがまれるが、アストリッドは照れ隠しに曖昧に微笑み、「今はもう使えないの。ごめんね」と誤魔化す。
実際、光を何度も出せるわけではない。彼女の奇跡の力はまだ不安定だ。だが、それでも今日、徴税官を追い返せたのは大きな収穫だ。
――自分の意志で力を振るい、弱い人々を守れた。王国に仕えていた頃は、それが当たり前だったが、今はまったく違う環境で、“聖女”とは名乗らずにそうしている。
遠く王都を離れ、誰も自分を“偽りの聖女”と罵らない場所で、新しい人生を歩み始めているのだと思うと、胸が少し温かくなる。
それと同時に、“いずれこの国が困窮に陥ったとき、自分を追い出したことを悔やむだろう”という暗い願望が、頭の片隅に灯り続ける。
――完全復讐。それはまだ遠い未来かもしれないが、確実に心の中で燃え盛る。
夜が更け、村の人々が休んだ後、アストリッドは外に出てひとり星空を見上げた。空気が澄んでいるのか、夜空には無数の星が瞬いている。
「偽りの聖女、ね。ふん……どちらが偽りか、いずれ分からせてあげるわ」
呟きながら、そっと腕を抱く。まだ痛みの残る傷跡は、今日の出来事を確かに物語っている。
――自分はもう、あの王国には帰らない。たとえ力が完全に戻ったとしても、救いの手など差し伸べない。
いつか、奴らが自分に土下座して泣いて頼むような事態に陥っても、絶対に“ざまぁ”を突きつけるだけ。
その思いが、凍える夜風にも消されることなく、アストリッドの胸の奥で炎を上げていた。
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