大和―YAMATO― 第二部

良治堂 馬琴

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第105章『予兆』

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第105章『予兆』

 深夜の海兵隊基地内、その一角に設置された給水槽の上に人影が一つ。その影は槽の蓋を静かに開け、ポケットから取り出した小瓶の蓋を外して槽の上に翳し暗い槽内の水面へと視線を落とした。
 懸念していた通りに試射は成功に終わってしまった、このままでは三日後の出撃で実戦での試験が為される事となり、それも成功に終わればその先には制式配備が待っている事となる。あの女が元々その役目も含めてこの地へと派遣された事は聞いているが、それを達成されてしまっては困る人間も多いのだ、出来れば生かしたまま連れて来いとは言われているものの、このままではそれも難しいだろう、その点については諦めてもらうしか無い。
 それでも、あの男にとっては彼女が生きていても死んでいてもどちらでも構わないのかも知れないとも思う、
『出来るだけ生かして連れて来い……まぁ、死んだとしたら所詮その程度だったという事だ、失敗作に過ぎんな。それなら壊れて消え去った方が清々しい』
 そう言っていたあの男の冷たく狂気に満ちた笑み、あんな化け物と敵対する様な事にならなくて良かったと心の底から思ったものだ。
 病原性と感染力を高めたこの標本、その発病迄の潜伏期間は二日間、このままこれを飲料水に投下すれば出撃の朝にはこの海兵隊基地内の大多数が発病する事になる、出撃どころではない地獄絵図が繰り広げられる事になるだろう。
 出来ればこの騒ぎの前迄にあの女が放っているだろう斥候の正体を掴み排除しておきたかったが仕方が無い、一緒に死んでくれれば同じ事だと自分を納得させ、瓶の中身を一息に槽内の水へと投下する。
 夜が明ければ二日後の出撃の為に海兵隊のほぼ全員が基地内に留まる事になる、その間食事も水もこの給水槽の水で汚染されたものを口にする事になる、それは体内に入り込み身体を静かに蝕み、出撃の朝になれば一気に外へと向けて牙を剥く。
 別に大和人にも海兵隊にも何の恨みも憎しみも無い、有るのは役目と、それを遂行しようとする静かで確固たる意志だけ。深く静かに潜入していた数年を思えば若干の心の揺れを感じないでもないが、それでも今迄の人生を打ち捨てて彼等に事の次第を告げて与する程の事にはなりはしない、唯静かに、彼等が死んで行く様を眺めるだけだ。
 その為には自分が生き延びない事には話にならない、投下も終わったし取り敢えずは三日後の地獄を生き延びる事に意識を集中しようかと一度目を閉じて深呼吸をし、蓋を閉めて給水槽を降り、瓶は適当にその辺りに放り営舎へと向かって歩き出す。
 監視対象だと言われていたあの女と出会ってからもう直ぐ二年になる、特殊部隊の指揮官と言うからにはさぞかしい厳つい化け物の様な女を想像していたのに、出会ったのは一見何処にでもいそうな有り触れた外見の只の女で、最初は情報が間違っていたのではと思ったものだった。
 それが間違いだと気付いたのは出会いから二ヶ月程経ってからの道場内、上級曹長の敦賀が彼女へと向けて投げ付けた木刀を三宅の木刀で弾き飛ばし、あの一連の流れる様な動きに、彼女が背負っている看板が伊達ではない事を思い知った。
 それからというもの具に彼女を観察し続け、成る程敵性としてはこれ程厄介な相手もそうはいないと思った事は何度も有った。彼女のあの警戒心を抱かせない外見は大きな武器になる、そして、それに魅入られたか敦賀と陸軍准将の黒川が彼女と懇ろになったと知った時には、益々事態がややこしくなったと頭を抱えてしまった。
 それでももうそれも三日後の朝には終わるだろう、敦賀も無傷どころか生き延びられるとは思わないし、黒川が向こう数日間こちらへと出向いて来るという話も聞いていない。このまま生物的危害が発生すれば、あの女も敦賀も含めて海兵隊基地内にいる人間の大多数は死に、黒川はそれを止める事も出来ずに柵の外でそれを眺める事になる。
 そうなった先にこの大和がどうなるのか、その事については欠片の興味も無い。恐らくは撤収の命令が下され混乱に紛れてこの地を後にする事になるのだろうが、その後の事については感知するところではない。
 帰りたいと思う様な家も家族も無ければそんな物に対しての執着も無いが、それでも斥候という役割は少々疲れた。この役目から解放されたらその先は暫く休みでも貰って気ままに過ごそうか、と、そんな事をぼんやりと考える。
 万が一あの女が生き延びてしまったら潜入生活は延長になる、自分の休みの為にもあっさりと死んで欲しいものだと夜空を見上げ、薄く笑いながら煙草を咥えて火を点けた。
 彼女の事は別に嫌悪も憎悪もしてはいない、出会う状況が違えば良き友人にも恋人にもなれたかも知れない、それでもこんな形で出会ってしまった以上は役目を打ち捨てでも、そんな気持ちには全くならず、単に命令によっては抹消すべき対象、それだけだ。
 だから、得体の知れない存在に友情どころか愛情すら抱き、挙句に男女の仲になってしまった敦賀と黒川については理解出来ないのというのが正直なところ。尤も、それも夜が開けて二日後の朝には終わるのだから考えてもしょうがないかと思い直し、地に放った煙草の火を足で踏み消して営舎への歩みを再開する。

 願わくば、事が想定通りに進む様に、その想いを夫々が胸に抱き自分の役目へと向き合う中、運命の朝はやって来た。
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