65 / 100
第165章『父親』
しおりを挟む
第165章『父親』
『拙い』
それがタカコの脳裏を支配した言葉。昼間に彼に会った時は私的な言葉は何も交わしていない、敦賀とタカコの関係も海兵隊の上官と部下、そして監視者と監視対象、そうとしか思っていない筈だ。それが夜の自宅で寝巻き姿で庭にいるともなれば不審どころの騒ぎではない、折角上手く進んでいる話が御破算になりかねない。帰宅すると分かっていれば何が何でも辞去したのに、そうでなくとも警戒を怠るべきではなかった、内心そう吐き捨てて歯噛みすれば、中将は外套と制服のジャケットを脱ぎ腕に掛けつつ、
「幸恵さん、こっちに」
と、母屋の中にいるであろう妻の幸恵に向かい声を掛けた。
「はいはい、あら、お帰りですか、洗い物してて気付きませんでした、ごめんなさいね」
「ああ、それは構わないが……こちらのお嬢さんは?」
「ええ、貴之が帰って来てて、直ぐに博多に戻らないといけないそうで明日の朝にはもう出るそうですけど。それでね、お嫁さん連れて来たんですよ、同じ海兵隊で働いてらっしゃるんですって、お名前は清水多佳子さん」
「いや、昼間に統幕で会ってる、名前も顔も知ってるんだが……そうか、あいつの嫁さんか」
勝手に話を進めるな、自分と敦賀はそんな関係ではないと小さくふるふると頭を振れば、人の話を聞かない妻が突っ走っているという状況が飲み込めたのか、
「幸恵さん、燗はしなくて良いから酒と湯飲みを二つ持って来てくれ。この間中迎少将に頂いたのが有っただろう、瓶ごとで構わないから」
そう言って手にしていた外套と制服を幸恵と手渡し、縁側へと静かに腰を下ろす。そしてタカコへと手招きをしつつ
「多佳子さん、だったね?ここに座りなさい」
とそう言って自分の横の床板を軽く叩き、タカコはそれに逆らう事も出来ず、内心だらだらと冷や汗を掻きつつも無言のまま中将の隣へと腰掛けた。
庭の方を見る形で並んで座るが双方無言のまま、少しして幸恵が一升瓶と湯呑みを持って来て、
「義理の親子の語らいね、ごゆっくり」
とまた素晴らしく見当違いの事を言って去って行く。無言のままの中将が瓶の中身を湯呑みへと注ぎタカコへと渡して来て、タカコはそれを礼と共に受け取り揺れる水面に視線を落とした。
拙い、話をどう誤魔化したものか、これ以上の疑念を抱かれない様にしなければ、そう思案しているタカコに向かい、湯呑みに口を付けた中将が静かに口を開く。
「そう緊張しなくても良い。幸恵が、家内が突っ走っているんだろう。君は息子とは結婚の話が出る様な間柄ではない、違うか?」
「あ、はい……そうです、今日は御子息が実家に顔を出すと言うので、話の流れで同行する事になっただけでして」
「あの歳迄独り身で仕事も仕事だから、家内も酷く心配していてね。家内も娘も人の話を聞かない性質だから、疲れただろう、すまなかったね」
家族の事はよく分かっているのだろう、誤解はされていないようだと気取られない様に安堵しつつ湯呑みに口を付ければ、中将が続けて口にした言葉に思わず息が詰まった。
「ただ、息子は君に惚れている様だが。演習場での息子の君に対しての接し方を見ていると、上官と部下とも監視者と監視対象とも違う様な、そんな空気を感じたが、その点はどうかな?」
気管に酒が入り思わず咳き込めば中将は何も言わず背中を撫で、タカコが落ち着くのを待ってから涙目の彼女へと向かい静かに言葉を続ける。
「あれは人に対して必要以上に馴れ合う性格じゃない、女性関係にしても特定の相手を作ったという話は高根大佐からも聞いた事が無い。それが昼間君に対しては随分と優しいと言うか穏やかな様子で触れ合っていたし、どういう関係かはともかくとして、君に惚れているのは間違い無いと思うが?」
完全に見抜かれている、余計な疑念を生まない為に心を砕いていたというのにあの馬鹿野郎が、そう思いつつ湯呑みを握り締めれば中将はタカコのその様子に目を細めて小さく笑う。
「上官と部下でも監視者と監視対象でも、男女が密に関わればそんな間柄になる事も有るだろう。公私混同をしてしまう様では問題だが、そうでなければ別に気にする事は無い。それはそうと、あれは大人しく従順な女性に対して固執する様な性格ではないと思っていたんだが、君も統幕で見せていた様な振る舞いの女性ではないんじゃないのかな?どちらかと言えば、銃を手にしていた時の方が素の君に近いと思うんだが、その点はどうだろう?」
問い掛けと言うには少々断定の色の強い言葉、流石次期統幕長と目される人物だ、息子という近しい存在を通してとは言えここ迄しっかりと見通すとは、完敗だと溜息を吐いてタカコは湯呑みの中身を一気に煽る。
「……御見逸れしました、御慧眼、恐れ入ります」
そう言いつつ上半身だけ中将の方へと向き直れば、鋭さを湛えつつも穏やかな笑みを向けられた。
「やはりな……多佳子さん、私はあれとは良い関係を築いては来られなかった、それでもあれは私の息子だ、幸せになって欲しいと思っている。多佳子さん、息子を、貴之を……どうか宜しくお願いします」
こちらへと正対する様に向けられた大きな体躯、その頭が深々と下げられ、タカコは思わず動きを失った。年齢、社会的地位、その全てが自分よりも遥かに上の男がこうして頭を下げている、タカコもその意味や重さが分からない様な世間知らずではない。けれどそれに対して直ぐに首肯出来る程何の柵も無いわけでもなく、どう答えれば、どう動けば良いのかと考え込めば、突然背後から聞こえて来た声がその場の空気を掻き乱した。
「……何やってんだ」
「……つる、が」
振り返れば、浴衣に袖を通し濡れた髪を拭く、不機嫌そうな敦賀がそこにいた。
『拙い』
それがタカコの脳裏を支配した言葉。昼間に彼に会った時は私的な言葉は何も交わしていない、敦賀とタカコの関係も海兵隊の上官と部下、そして監視者と監視対象、そうとしか思っていない筈だ。それが夜の自宅で寝巻き姿で庭にいるともなれば不審どころの騒ぎではない、折角上手く進んでいる話が御破算になりかねない。帰宅すると分かっていれば何が何でも辞去したのに、そうでなくとも警戒を怠るべきではなかった、内心そう吐き捨てて歯噛みすれば、中将は外套と制服のジャケットを脱ぎ腕に掛けつつ、
「幸恵さん、こっちに」
と、母屋の中にいるであろう妻の幸恵に向かい声を掛けた。
「はいはい、あら、お帰りですか、洗い物してて気付きませんでした、ごめんなさいね」
「ああ、それは構わないが……こちらのお嬢さんは?」
「ええ、貴之が帰って来てて、直ぐに博多に戻らないといけないそうで明日の朝にはもう出るそうですけど。それでね、お嫁さん連れて来たんですよ、同じ海兵隊で働いてらっしゃるんですって、お名前は清水多佳子さん」
「いや、昼間に統幕で会ってる、名前も顔も知ってるんだが……そうか、あいつの嫁さんか」
勝手に話を進めるな、自分と敦賀はそんな関係ではないと小さくふるふると頭を振れば、人の話を聞かない妻が突っ走っているという状況が飲み込めたのか、
「幸恵さん、燗はしなくて良いから酒と湯飲みを二つ持って来てくれ。この間中迎少将に頂いたのが有っただろう、瓶ごとで構わないから」
そう言って手にしていた外套と制服を幸恵と手渡し、縁側へと静かに腰を下ろす。そしてタカコへと手招きをしつつ
「多佳子さん、だったね?ここに座りなさい」
とそう言って自分の横の床板を軽く叩き、タカコはそれに逆らう事も出来ず、内心だらだらと冷や汗を掻きつつも無言のまま中将の隣へと腰掛けた。
庭の方を見る形で並んで座るが双方無言のまま、少しして幸恵が一升瓶と湯呑みを持って来て、
「義理の親子の語らいね、ごゆっくり」
とまた素晴らしく見当違いの事を言って去って行く。無言のままの中将が瓶の中身を湯呑みへと注ぎタカコへと渡して来て、タカコはそれを礼と共に受け取り揺れる水面に視線を落とした。
拙い、話をどう誤魔化したものか、これ以上の疑念を抱かれない様にしなければ、そう思案しているタカコに向かい、湯呑みに口を付けた中将が静かに口を開く。
「そう緊張しなくても良い。幸恵が、家内が突っ走っているんだろう。君は息子とは結婚の話が出る様な間柄ではない、違うか?」
「あ、はい……そうです、今日は御子息が実家に顔を出すと言うので、話の流れで同行する事になっただけでして」
「あの歳迄独り身で仕事も仕事だから、家内も酷く心配していてね。家内も娘も人の話を聞かない性質だから、疲れただろう、すまなかったね」
家族の事はよく分かっているのだろう、誤解はされていないようだと気取られない様に安堵しつつ湯呑みに口を付ければ、中将が続けて口にした言葉に思わず息が詰まった。
「ただ、息子は君に惚れている様だが。演習場での息子の君に対しての接し方を見ていると、上官と部下とも監視者と監視対象とも違う様な、そんな空気を感じたが、その点はどうかな?」
気管に酒が入り思わず咳き込めば中将は何も言わず背中を撫で、タカコが落ち着くのを待ってから涙目の彼女へと向かい静かに言葉を続ける。
「あれは人に対して必要以上に馴れ合う性格じゃない、女性関係にしても特定の相手を作ったという話は高根大佐からも聞いた事が無い。それが昼間君に対しては随分と優しいと言うか穏やかな様子で触れ合っていたし、どういう関係かはともかくとして、君に惚れているのは間違い無いと思うが?」
完全に見抜かれている、余計な疑念を生まない為に心を砕いていたというのにあの馬鹿野郎が、そう思いつつ湯呑みを握り締めれば中将はタカコのその様子に目を細めて小さく笑う。
「上官と部下でも監視者と監視対象でも、男女が密に関わればそんな間柄になる事も有るだろう。公私混同をしてしまう様では問題だが、そうでなければ別に気にする事は無い。それはそうと、あれは大人しく従順な女性に対して固執する様な性格ではないと思っていたんだが、君も統幕で見せていた様な振る舞いの女性ではないんじゃないのかな?どちらかと言えば、銃を手にしていた時の方が素の君に近いと思うんだが、その点はどうだろう?」
問い掛けと言うには少々断定の色の強い言葉、流石次期統幕長と目される人物だ、息子という近しい存在を通してとは言えここ迄しっかりと見通すとは、完敗だと溜息を吐いてタカコは湯呑みの中身を一気に煽る。
「……御見逸れしました、御慧眼、恐れ入ります」
そう言いつつ上半身だけ中将の方へと向き直れば、鋭さを湛えつつも穏やかな笑みを向けられた。
「やはりな……多佳子さん、私はあれとは良い関係を築いては来られなかった、それでもあれは私の息子だ、幸せになって欲しいと思っている。多佳子さん、息子を、貴之を……どうか宜しくお願いします」
こちらへと正対する様に向けられた大きな体躯、その頭が深々と下げられ、タカコは思わず動きを失った。年齢、社会的地位、その全てが自分よりも遥かに上の男がこうして頭を下げている、タカコもその意味や重さが分からない様な世間知らずではない。けれどそれに対して直ぐに首肯出来る程何の柵も無いわけでもなく、どう答えれば、どう動けば良いのかと考え込めば、突然背後から聞こえて来た声がその場の空気を掻き乱した。
「……何やってんだ」
「……つる、が」
振り返れば、浴衣に袖を通し濡れた髪を拭く、不機嫌そうな敦賀がそこにいた。
0
あなたにおすすめの小説
『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』
放浪人
恋愛
「母はいりません」と拒絶された悪役令嬢が、最強の“ママ”になるまでの物語。
「君のような可愛げのない女は、王妃にふさわしくない」
身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。
冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。
これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。
50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく
かわさきはっく
ファンタジー
就職氷河期を生き抜き、数々の職を転々とした末に無職となった50代の俺。
ある日、病で倒れ、気づけば異世界のエルフの賢者に転生していた!?
俺が転生したのは、高位エルフの秘術の失敗によって魂が取り込まれた賢者の肉体。
第二の人生をやり直そうと思ったのも束の間、俺の周囲は大騒ぎだ。
「導き手の復活か!?」「賢者を語る偽物か!?」
信仰派と保守派が入り乱れ、エルフの社会はざわつき始める。
賢者の力を示すため、次々と課される困難な試練。
様々な事件に巻き込まれながらも、俺は異世界で無双する!
異世界ざわつき転生譚、ここに開幕!
※話数は多いですが、一話ごとのボリュームは少なめです。
※「小説家になろう」「カクヨム」「Caita」にも掲載しています。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
【短編】記憶を失っていても
あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
7年以上前の記憶のない平民出身のラチェルは、6年前に娘のハリエットを生んでからグリオス国のアンギュロスの森付近の修道院で働きながら暮らしていた。
そんなある日ハリエットは見たことのない白銀色の大樹を見つけたと、母ラチェルに話すのだが……。
これは記憶の全てを失ったラチェル──シェシュティナが全てを取り戻すまでのお話。
※氷雨そら先生、キムラましゅろう先生のシークレットベビー企画開催作品です( ´艸`)
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
霊力ゼロの陰陽師見習い
三科異邦
ファンタジー
「霊力も使えない。術式も出せない。
……西園寺玄弥、お前は本当に陰陽師か?」
その言葉は、もう何度聞いたか分からない。
霊術学院の訓練場で、俺はただ立ち尽くしていた。
周囲では炎が舞い、水がうねり、風が刃のように走る。
同年代の陰陽師たちが、当たり前のように霊を操っている。
――俺だけが、何もできない。
反論したい気持ちはある。
でも、できない事実は変わらない。
そんな俺が、
世界最強クラスの妖怪と契約することになるなんて――
この時は、まだ知る由もなかった。
これは――
妖怪の王を倒すべく、九尾の葛葉や他の仲間達と力を合わせて成長していく陰陽師見習いの物語。
【完結】メルティは諦めない~立派なレディになったなら
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
レドゼンツ伯爵家の次女メルティは、水面に映る未来を見る(予言)事ができた。ある日、父親が事故に遭う事を知りそれを止めた事によって、聖女となり第二王子と婚約する事になるが、なぜか姉であるクラリサがそれらを手にする事に――。51話で完結です。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる