犬と子猫

良治堂 馬琴

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第28章『林檎』

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第28章『林檎』

 常夜灯の下、その朧な明かりを見詰めていた高根の耳に寝苦しそうな凛の寝息が聞こえて来る。頭の下で組んでいた腕を解いて声のした方へ身体ごと向き直れば、そこには髪を汗で顔や額に張り付かせた凛の姿が在った。起き上がって額へと手を当ててみれば、寝入る前に測ったよりも上がっていて、夕方に飲んだという解熱剤の効果が切れてしまっている事が窺えた。枕代わりの氷嚢を触ってみればすっかり溶け切ってしまっており、交換するかと起き上がり、凛の肩をそっと揺らす。
「……凛、頭上げて。氷嚢交換するから、ほら」
 反応は鈍く、高根の言葉に目を開ける事は無く言葉も小さく唸るだけ。高根はその様子を見て
「……ごめんな、ちょっとだけ我慢して」
 そう言い、片手を凛の首の下へと差し込んで頭を浮かせ、氷嚢を外しそれを手に立ち上がった。
 客間を出て台所に入り、氷嚢の中の水を二割程残して捨て、代わりに冷凍庫から出した氷を袋の中へと入れて行く。きっちりと封をしてもう戻ろうと客間の方へと向き直れば、そこで一つ、溜息を吐いた。
 夕食を食べさせた後に測った時には熱は八度八分、解熱剤を飲んだ方が良いと言いはしたものの、夕方に飲んだばかりだからと言われてしまい、その時は葛根湯を飲んだだけ。その後に入浴と夕食を済ませた高根が何度か様子を確かめたものの、咳は多少は収まった気はするものの熱が下がる様子は無かった。その辛そうな様子にいてもたってもいられず、客間の前の廊下を何往復もした挙句に襖をすぱんと開け、中で横になっていた凛に
「凛、今日は俺もここで寝るから。お前の様子心配だし、ここにいたら直ぐに動けるだろ。嫌かも知れんが、具合良くなる迄は我慢してくれ」
 と、一息にそう告げて中へと入り、押し入れから布団を出して凛の布団の横に敷き、そこへと入り込んだ。
「本当にごめん、嫌だと思うけど――」
「……嫌じゃ……ないですよ……?」
「……本当に?」
「はい……高根さんに看病してもらうなんて、逆に申し訳無い位です」
「……嫌じゃないならそんな事考えなくて良いから……早く、元気になれ」
「……はい」
 そう言って辛そうながらも微笑んでくれた凛、きっと、自分の事を完全に信頼しきっての事だろう。そうやって頼られる事は嫌ではない、寧ろ嬉しいと思っている。しかしそれでも、同じ部屋で布団は別とは言えど枕を並べてというのは、やはりやり過ぎだったかもしれない、高根はそんな事を考えつつまた一つ溜息を吐いた。
 高熱に魘されている相手をどうこうする気は更々無いが、それでも、抱き締めたい気持ちが強くなる。そうしたところで彼女の体調が良くなるわけではない事は分かってはいるものの、抱き締めて背中を撫でてやりたい、一晩中ずっとそうしていてやりたい、否、自分自身がそうしていたい。
「良くねぇなぁ……こりゃ……」
 手にした氷嚢を見下ろし、ぽつりと呟いた。距離をとった方が良い、そう思ったばかりなのに、状況が状況とは言え逆に近付いてしまっている。傍にいると言ったのだからどうにか乗り切るしか無いが、一睡も出来ずに朝を迎えそうだなと自嘲じみた笑いを唇の端に浮かべ、もう一度自分に言い聞かせ覚悟を決めて客間へと入るった。
「……高根、さん?」
「起きたのか、どうだ?」
「首と肩が痛くて……後、喉も」
 咳き込みながらそう告げる凛、いつもの可愛らしい声がすっかれ掠れてしまっていて、高根はそれに僅かに顔を歪め布団の上に膝を突く。
「熱、上がってるみたいだな。これ氷換えて来たから、また枕代わりにしとけ。後、解熱剤飲んだ方が良いな、今水と何か胃に入れる物持って来るから」
「……はい」
 凛の返事に微笑みで返し、熱を持った頬を一撫でして立ち上がり台所へと戻る。冷蔵庫を開ければ林檎が一つ、そのまま食べるのは辛いだろうから摩り下ろすかと考えつつ他には何かと探してみれば、おじやに使ったのか摩り下ろした生姜が密封容器に入れられているのを見つけ、それも取り出した。
 包丁なぞ使うのは一体何年振りなのか、指を切り落としそうな拙い動きで四つに割り皮を剥き芯を取り去り、おろし器を出して茶碗の中に摩り下ろす。一個分丸々摩り下ろした後はそこにおろし生姜を咥え、匙で掻き混ぜ小指を突っ込んで味をみた。
「これなら何とか……よし」
 林檎の甘みの中に生姜の風味が効いていて、これなら無理せず食べられるだろうし喉にも良いだろう、そう思いながら水を入れたコップと共に凛のもとへと持って行けば、
「有り難う御座います……高根さんの手料理、初めてですね、嬉しいです」
 身体を起こしていた凛がそう言って笑い、器を受け取りゆっくりと食べ始める。
「どうだ?」
「はい……美味しいです、喉に優しいですね」
「無理して全部食わなくて良いぜ?薬で胃が荒れない程度で良いからな?」
「無理してませんよ?本当に美味しいです」
「そっか……有り難うな」
 少しずつ口に運びながらのそんな会話、食べ終えた後は葛根湯と解熱剤を飲ませ布団に寝かせ、食器を枕元に置いた高根もそのまま横になる。
「辛かったら直ぐに言えよ?俺が寝てても起こして構わないから」
「はい……有り難う御座います……あの、高根さん、一つお願いしても良いですか?」
「ん?何だ?」
 自分から言い出したのに何故か口籠る凛、その様子に小さく笑いつつ
「何だよ、言ってみな?」
 そう促してみれば、
「……あの、手、握ってもらっても……良いですか?」
 と、消え入りそうに小さな声が高根の耳朶を擽った。
「手?」
「はい……あの、何だか、心細くて」
「そっか……良いよ、ほら」
 自分から言い出したのに一向に動こうとしない凛、高根はその様子にまち小さく笑い、腕を伸ばし布団の中から凛の小さな手を探り当て、指を絡めながら取り出して見せる。
「これで良いか?」
「……はい……あの、有り難う御座います……」
「良いから、もう早く寝な。な?」
「はい……お休みなさい」
「ああ、お休み」
 短い遣り取りの後、そっと目を閉じる凛、暫くすると多少荒くはあるものの、規則的な寝息が聞こえて来た。
 こうして触れ合いを求め、無防備な姿を曝してくれているのは、偏に全幅の信頼が有ってこそなのだという事は高根にもよく分かる。だからこそ自分は彼女のその気持ちを裏切ってはいけない、自分の気持ちを押し付ける様な事は、決してしてはならないのだ、と、自らに言い聞かせながら、いつ迄も凛の寝顔を見詰めていた。
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