犬と子猫

良治堂 馬琴

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第27章『薬袋』

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第27章『薬袋』

「総司令、お早う御座います。今日はもう平気ですか」
「ああ、何とかな。平熱よりは高めだが節々の痛みも引いたし、これ以上休むわけにもいかん。昨日は助かったよ」
「仕事ですから。とにかく良かった」
 いつもの様に徒歩で基地に向かい本部棟の正面玄関へと差し掛かれば、出勤して来た小此木と顔を合わせる。車で二十分程のところに居を構えている小此木は出退勤の際は公用車の送迎を受けており、それから降りて直ぐに頭を下げた彼に軽く手を上げて答え、二人は並んで本部棟の中へと入った。
「昨日はどうだった」
「特に問題は無かったな。対馬区での散弾銃の試射に関しても、タカコの意見次第にはなるがそろそろ決められそうだ」
「そうか」
「しかし、あれだけ調子悪そうだったのに一日休んだだけで体調戻すとか、凄いなお前。俺なら絶対三日は寝込むぞ」
「日頃の節制と鍛錬の賜物だな」
「これで結婚して嫁さんに面倒見てもらえる様になれば風邪知らずだな」
「…………」
「何だ、どうした」
「いや……何でも。お前のそれはもう聞き飽きたって事だよ」
「親友且つ上官を心配してやってんだろ」
「へーへー」
 小此木の言葉に一瞬動きを失う高根、それでも直ぐにいつもの態度を取り繕い、二人は夫々の執務室へと入る。
「司令、お早う御座います。もうお身体は大丈夫なんですか」
「ああ、もう大丈夫だ。迷惑をかけたな」
「いえ、とんでもない。とにかく良かったです」
 執務室へと入り壁に掛けてあった制服へと手を伸ばせば、直ぐに部屋付きの士官が淹れたての茶を盆に乗せて姿を現す。掛けられる言葉はやはり体調を慮るもので、それにも高根はいつもの笑顔と言葉を返し、着替えを終えると直ぐに椅子へと身体を沈めた。
 一日たっぷりと休んでしまった分、皺寄せは今日以降にやって来る。一日だけの欠勤で済んだのだから普段の仕事量よりも多少増える程度で済むものの、それでも元々の仕事量が多いのだから多少憂鬱にもなる。
 しかし、今日ばかりは早く帰りたいとは思えなかった。時間の許す限り凛の寝顔を見ていたい、そう思い再び横になり、手を繋いだまま彼女のあどけない寝顔を見詰めていた。そして、もう出ないと間に合わないという時間になってから起き出し、碌に挨拶も交わさないまま出て来た所為で、気持ちの整理はつかないまま。時間が来れば帰宅するしかないのは分かってはいるが、真っ直ぐに彼女の目を見て普段通りに振る舞えるのかすら疑問だ。
「あ、今日は昼飯食堂で作ってもらって持って来てくれ。主菜は良い、飯と味噌汁だけで構わん。流石に胃がまだきついんでな」
「分かりました、病み上がりでは流石に料理する気も起きませんでしたか」
「そんなところだ」
 昼食時は自分が何処かに姿を消すのではなく、人払いをする様になっていた。料理をする様になったものの見た目が酷いから人には見られたくないのだと言えば、部屋付きとしてはそれ以上追及する気も興味も無いのか突っ込まれる事も話が広まる事も無く、今のところは誰にも何も勘付かれていない。
 人払いをしていても無遠慮に突っ込んで来る筆頭が敦賀で、実際数度入って来られた事は有るが、中身迄は見られていない。鈍くて頭の弱い彼ならば中身をその目で見でもしない限りは高根が作った弁当なのだと思っているだろうから、そう問題は無いだろう。
「出て来たのか、調子はどうなんだ」
「おお、おはようさん。うん、一日ゆっくりさせてもらったし、もう大丈夫だ、悪かったな」
「これからもっと忙しくなるんだ、しっかりしろよ」
「ああ、分かってる」
 叩きもせずに扉を開けて入って来たのは今まさに頭に思い浮かべていた人物、無遠慮さは相変わらずかと高根が小さく笑えば、敦賀の入室から殆ど間を空けずに扉が叩かれ、返事をする前にそこが開かれて今度はタカコが入って来る。
「お、元気そうじゃん、良かった良かった。しっかし、馬鹿でも風邪はひくんだねぇ」
「うるせぇよ。つーかな、お前にだけは馬鹿とか言われたくねぇぞ」
「ああ、それには俺も同意だな」
「は?二人共ひどくない?タカコさんの何処が馬鹿なのよ」
「全部」
「全部だな」
「うっせぇ!!」
 タカコの入室で俄然賑やかになった室内、何やらじゃれ合いを始めた敦賀とタカコを見ながら、高根は机上に積まれている書類へと手を付ける。帰宅迄に時間は有る、どうせ溜まった仕事を片付けなければ帰れないのだ、帰宅は普段よりも遅い時間になるだろう。それ迄に何とか気持ちを落ち着けて、普段通りに振る舞えば良い。
 親子程歳の離れた相手、幾ら愛しいと思ったところで、想いを告げて良い相手ではない。歳の事だけではない、今迄自分が歩んで来た道は汚れ過ぎている。自分が誰かの立場なら、例えば敦賀がこんな風に悩んでいると知ったのなら、
『大事なのは過去じゃないだろう、これからどう生きるかじゃないのか』
 と、そんな風に叱り飛ばし発破をかけ、想いを告げて幸せになれと、そう言っていたのだろうとは思う。しかし、我が事となってみれば、そして凛の穢れの無さを目の当たりにすれば、とてもそんな気は起きず、想いを告げないまま身を引き、彼女を黙って見送り手放す事が最善なのだろうと、そう思えた。
 そんな風にあれこれと思い悩み、それでも表面上は普段通りに振る舞いつつ復帰初日を過ごし、やがてやって来た帰宅時間。時計を見ればやはり普段よりもだいぶ遅い時間で、これ以上は凛も心配するだろう、引き延ばせないなと判断し立ち上がり、私服へと着替えて基地を出た。
 帰る道すがら、頭に浮かぶのは凛の事ばかり。今迄よりも彼女を身近に感じたい、この先もずっと一緒にいたい、彼女となら、家族を作りたい、家族になりたい――、その想いは時間が経てば経つ程に確固としたものになっている。しかし、出来ない、してはいけない、手を離さなければならない、そう自らに何度も何度も繰り返し言い聞かせ、自宅へと帰り着く。
「……こんな時間に出掛けてるのか?」
 普段なら明かりが灯っている玄関は真っ暗で、妙だ、そう思った高根は急いで鍵を取り出して扉を開けて中へと入る。室内はやはり真っ暗で玄関や廊下だけではなく居間にも台所にも明かりは無い。何とも嫌な感覚が全身を侵食しそうになった時、客間から感じた人の気配に靴を脱ぐのと同時に走り出し、居間の襖へと手を掛けていた。
「凛!?」
 明かりを点けたそこにいたのは、掛け布団から顔を出し横になっている凛の姿、何とも具合の悪そうな表情、火照った顔に高根は逆に青くなり彼女の脇へと膝を突く。
「凛?熱有るのか?大丈夫か?」
「……高根さん、ごめんなさい……ご飯、用意出来てなくて」
「いいよいいよそんなもんは!」
 額へと手を当ててみればひどく熱く、それに更に青くなり
「病院には行ったのか?」
 と、そう尋ねれば、辛そうな面持ちのまま凛は小さく頷き、枕元を指し示した。
「はい……昼間に。お薬も頂きました」
 枕元には確かに水の入ったコップと粉薬が二種類置かれており、二つ開封済みの空の袋が有り、服用したのだという事を窺わせる。
「俺のがうつったんだな、悪かったな……今何か食う物用意するから、お前は寝てな?」
「ごめんなさい……何も出来なくて」
「謝るな、具合が悪い時は寝て治すのが仕事だろ」
 頻りに申し訳無いと告げる凛、その彼女の頬を一撫でして微笑みかけ、何か胃に入れる物をと高根は立ち上がり台所へと向かう。台所の鍋の中には昨日凛が作ったおじやが残っており、それを温め直し茶碗によそうと客間へと取って返した。
「ほら……薬飲むのにも何か食べないと、起きられるか?」
「はい……すみません」
「こら、こういう時は『有り難う』だろ?」
 出会った日に交わした約束、それを口にして嗜めれば、凛は困った様に少しだけ笑い、その後は大人しく高根に世話を焼かれていた。
「御馳走様でした」
「よし、ちゃんと食ったな。後はほら、また薬飲んで、熱測って。解熱剤は……あ、粉薬なのね」
「陸軍病院に行きましたから……解熱剤出しますって言われ時に、飲み薬でお願いしますって言いました」
「そうか、その手が有ったか。俺もそう言っときゃ良かったな」
 高根の言葉に凛が、ふふ、と笑い、高根もそれに笑顔を返す。そして薬を飲ませようと枕元に置かれた盆に手を伸ばした時、と或る事に気が付いた。
「あれ?袋は?」
 自分の鞄の中に入れている薬袋、個包装を纏めて入れる薬袋がそこには無く、有るのは剥き身の個包装ばかり。何故、と思いそれをそのまま凛へと問い掛ければ、凛は少々口籠った後、何ともばつが悪そうに口を開いた。

「帰って来る時に水溜りに落としちゃって……汚れたので捨てて来ました。中身は大丈夫でしたよ」
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