犬と子猫

良治堂 馬琴

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第41章『銃後の守り』

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第41章『銃後の守り』

 目が覚めたのは随分と陽も高くなってから、だるい身体を何とか動かし起き上がってみれば、いつもとは違う景色が凛の視界へと飛び込んで来る。壁一面を埋め尽くす本、飾り気の無い机と椅子、高根の部屋だ。
 昨夜初めて高根に抱かれ初めてこの部屋で彼と夜を共にした、段々とはっきりとして来た頭の中にそこに至る迄の過程と濃い情交の光景がありありと蘇って来て、思わず赤面しながら再度寝台へ身を投げて頭から掛け布団を被る。突然高根に抱き締められ感情が昂ぶっていたとは言え、胸に秘めていた想いを自分から彼に告げてしまうとは、しかもその後は色々と有り過ぎてよく覚えていないがとんでもなく乱れていた気がする。あんな自分は知らないと足をばたばたとさせ悶え、一頻り暴れ力尽きた後に思い出すのは高根の優しさと熱さだった。
 男というものがあんなにも優しく且つ激しく触れてくれるものだとは知らなかった。つい昨日迄は元夫しか知らなかった何の知識も技術も無い自分、今迄に多くの女と関わって来たであろう高根にしてみればきっと満足には程遠い交わりだっただろうが、それでも何度も何度も求めてくれた事が堪らなく嬉しい。
「うわ、もうお昼……高根さん、朝ご飯、どうしたのかな……お弁当も作れなかったし」
 朝の支度と送り出しは出来なかったが他は今からでも充分に間に合う、昼迄寝てしまったのだから早々に取り掛かろう、そんな事を考えて身体を起こせば、不意に内股を液体が伝い落ちる感覚に凛は動きを止めた。
「あ……そう言えば避妊具、付けてなかった……」
 思い出す限り高根が避妊具を装着していた記憶が無い、もしやと思い掛け布団を捲くって見れば、身体も敷布団の敷布も注がれ溢れた高根の精でじっとりと濡れ汚れていて、敷布と身体は洗うとして敷布団は干せば何とかなるだろうか、そんな事を考えつつ敷布団から剥がした敷布を身体に巻き付けて立ち上がり、寝台の脇へと放られた服を拾い上げ部屋を出て風呂場へと向かう。
 普通の女であれば中に吐き出されれば妊娠を期待したり心配するものなのだろうが、三年間夫婦生活を送っても子供を宿せなかった自分には恐らく関係の無い話、自分が心配すべきなのは敷布団を打ち直しに出さずに済むか、その程度の事。きっと高根もそう思っているのだろう、家族を持つつもりは無いと言っていた彼が避妊もせずに女を抱く筈が無い、孕ませてしまう危険が無いから付けなかったのだろう。その事に一抹の虚しさ寂しさを覚えないわけではないが、結婚というものは三年間の経験で懲りた。高根が元夫と同じだとは欠片も思わないが、高根が自分を傍に置いてくれるのなら、彼の傍にいて良いのなら、結婚という二文字でお互いを縛らずともそれで良い、将来はどうかは分からないが、現状としてはそれが凛の正直なところだった。
 湯を浴びてさっぱりとしてから台所へと行けば、流しには高根が朝食を摂ったのか洗い物が一人分、食卓の上には紙が一枚置かれており、そこに記された内容を読んで思わず赤面してしまう。
「……こういう事言ったり書いたりする人だったんだ、高根さん……」
 昨夜も何度も何度も耳元で囁かれ、今目の前に有る紙にも記された『愛してる』の言葉、そんな事を言われたのは二十三年生きて来て初めてで、赤くなる以外にどう反応すれば良いのかも分からずに暫くの間立ち尽くしていた。
 どの位の間そうしていたのか、玄関の文受けに何かが投函される音が聞こえて来て、ああそうだ、こんな事をしている場合ではない、家の事をやってしまわなければと凛は動き出す。洗濯は湯を浴びる前に始めている、今日の夕食の食材が少々心許無いから買い物に行かなければ、先ずは食器を洗ってからと考えながら動き出し、食器を洗った後は財布を持って外へと出た。
 ゆっくりとしていろと紙には書かれていたが、身体は少々だるいが動けない程ではない、同じ条件の高根はいつも通りに出勤して行き職務に勤しんでいるのだから自分も同じ様にしなければ、そう思いながら通い慣れた商店街への道を歩いていた時、背後から凄まじい速度で走って来て追い抜いて行った車列が凛の歩みをその場へと縫い付けた。
「え、今の……何で?」
 今迄に市街地でも時折見掛ける事の有った暗くくすんだ緑色のトラック、昔の事ではあるが海兵隊基地の一般開放でその運転席にも乗せてもらった事も有る。普段街中を走っているのは似た様な色合いの陸軍の車両だが、車体の色合いと、何よりも乗っている人間が着ている戦闘服の模様が違う、それに、陸軍にしろ海兵隊にしろ、幌を取り払った荷台に人間が大勢乗っているところ等、見た事が無い。そして何よりも凛の心をざわつかせたのは、荷台へと乗った兵士達の背中から立ち上る、鬼気迫る闘気と殺気。
 自分はあの空気を知っている、あれは、対馬区へと出撃する直前の祖父や兄が纏っていたのと同じものだ。
 それに気付いた瞬間、思わず駆け出して車列の後を追っていた。到底追い付く事等出来ずに直ぐに立ち止まり肩で大きく息をしながら遠ざかって行く車列を見詰め、昨年この街を襲ったという惨劇がまた何処かに齎された事を凛は感じ取っていた。活骸と戦う事に特化した海兵隊、先頃の基地襲撃に因って負った痛手により対馬区への出撃は当面放棄せざるを得なくなったと聞いている。しかしそれでも戦う力を完全に失ったわけではなく、本土に活骸が出現すればそれを掃討する為に出撃して行くのは当然の事なのだ。
 海兵隊総司令、頂点に立つとは言っても戦いを退くわけではない、最前線に出て兵士の戦闘に立つのが最先任上級曹長だとしても総司令もまた戦地に赴き兵士達を鼓舞するのだと、祖父が何度も言っていた言葉が脳裏に響き渡る。
 高根もきっと出撃した筈だ、職務へとあれ程にのめり込んでいる男が基地に留まっているわけが無い。
 こんな時に自分に出来る事は何も無い、有るとすれば無事と武運を祈りながら彼が帰って来る家を守る、それだけだ。
「……どうか……どうか、御無事で……!」
 そう呟きながらきつく拳を握り締め、凛はゆっくりと商店街への歩みを再開した。
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