犬と子猫

良治堂 馬琴

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第40章『要請』

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第40章『要請』

 今迄とは比べ物にならない程に穏やか且つ浮き立った気分で潜る基地の正門、歩哨の挙手敬礼に軽く返せば、聞き慣れた声が飛んで来る。
「おー、真吾、おはようさん」
「何だよ、タカコじゃねぇか。お前こんな所で何やってんだ?」
「あー、朝帰り。先に敦賀行かせて私もそろそろ入ろうと思ってたところ」
「おー、感心感心、ちゃんと言いつけ守ってるんだな、敦賀も」
 普段なら揶揄い半分小言半分の何がしかを言うところではあるが、今日はそんな無粋な事をする気にもならず、締まりの無い顔をしつつタカコと並んで歩き始めた。その様子はタカコにはどうにも奇妙に映ったのだろう、何とも言えない面持ちになりつつ暫しの時間高根の横顔を見上げていたが、ふと何かに気が付いたのか、いきなり、ぐい、と顔を高根の身体へと近付ける。
「……おい、何いきなり匂い嗅いでんだよ」
 ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐタカコ、お前は犬かと思いつつ見下ろせば、僅かに彼女の肩がふるふると震えているのに気が付いた。
「……この……この……」
「あ?」
 何やらぶつぶつと呟くタカコ、一体何なのだと高根が眉根を寄せれば、次の瞬間タカコの口からとんでもない言葉が飛び出した。
「……この……小児性愛者が!やったのか!やったんだな!あんな小さくて可愛い子を屑中年が手篭めにするとか!」
 場所は朝の海兵隊基地内、あちこちに出勤して来た海兵や営舎から本部棟や他の棟に歩く海兵の姿。そのど真ん中で突如としてタカコから放たれた大声とその内容に、意味を理解した全ての人間の行動が停止する。
「アレ!アレなのか!あんな処女でもおかしくない様な感じの子に『ぐへへ、おぢさんが色々と教えてあげるよ』とか言って色々教え込んだんだろ!取り敢えずお口で――」
 更に飛び出す暴言、堪らずにタカコの後頭部に掌を全力で叩き込んで黙らせた高根はそのまま彼女の襟首を掴んで走り出し、本部棟へと入り最上階迄階段を駆け上がり総司令執務室に駆け込んで扉を閉める。
「てっめ……いきなり何ほざいてんだこの馬鹿!」
「やったんだろ!」
「やってねぇ!」
 場所も立場も忘れて、否、場所も立場も考えろと高根が声を荒げてもタカコはそんな事はどうでもいいとばかりに詰問を続け、一向に閉じられる気配の無い口を閉じさせようと高根が更に声を荒げ、廊下では一体何が有ったのかと様子を窺う者迄いる状態だが、それでもタカコの詰問は止む事は無い。
「私がここに来てからの二年ちょいでお前が朝風呂遣って来た事なんか一度も無ぇぞ!しかもニヤニヤデレデレしちゃってどう考えてもやったに決まってんだろうが!口でさせたりとか自分でさせたりとかしたんじゃねぇだろうな、それともアレか、縛っ――」
「んな事はしてねぇよ!普通に大切に抱いただけだ文句有るか!」
「ほら見ろ!やっぱりやる事やってんじゃねぇかこの屑!あんな可愛い子猫を手篭めにするとか!」
「鎌掛けやがったなこの腐れ外道が!」
「悪ぃか!」
 四十一歳と三十三歳、准将と曹長、しかも男と女の罵り合いとはとても思えない内容、そこから先に降りたのはタカコの方で、ソファへとどかりと腰を下ろし柔らかな布面にのの字を書きながら今度はグチグチと零し出す。
「……はぁ……あんな小さくて可愛くて純粋無垢そうな子がこんな屑に穢されるとか……何て羨ましいんだ……」
「……俺はお前を一応は女だと認識してたんだがよ、どうやらそれは間違ってたらしいな……」
「小さくて若くて可愛いくておっぱい大きい子見たら誰だってそう思うだろ……男女関係無ぇだろ……」
「……俺はお前の判断基準が理解出来ねぇよ……」
「んで?この間の打ち合わせの時にタツさんとその話してたんじゃないか?どんな子なのよ、私にも教えろよ、寧ろ紹介しろ」
 何処迄本気なのか分からないタカコの言葉、黒川に密告しておいてまだ言うかと睨みつけつつタカコの向かいへと腰を下ろし、何をどう言ったものかと頭を乱暴に数度掻いた。
「色々事情が有ってうちに住まわせる事になってよ、最初は家政婦としてだったんだけどな。まぁ、それで一緒に暮らしてる内に……ほれ、なんつーの、分かるだろ」
「……惚れたか」
「……悪ぃかよ」
「……真面目な気持ちか」
「……当然だ。遊びで手を出せる様な女じゃねぇんだよあいつは」
「へぇ……タツさんと並んで中洲の双璧って言われてたらしいお前がねぇ……」
「……悪ぃかよ、俺が女に本気になっちゃ」
「いや?安心した。あんな純粋そうな子だったからさ、流石にちょっと心配になって」
「俺の自業自得だってのは認めるが……それならせめて二人きりの時に言ってくれ……」
 肩を落としつつ深く息を吐く高根、タカコはそんな彼を見て目を細め、穏やかに微笑んだ。高根はそんな彼女の様子を見てまた溜息を吐き、さて、あの騒動を見聞きした海兵達を発生源として蔓延するであろう噂について思いを馳せ、若干遠い目をして中空を見遣る。
「んで?んで?いつ籍入れるの?」
「戦況が戦況だから今直ぐはなぁ。子供出来てもなかなか傍にいてやれない事も増えて来るだろうし、今はまだな」
「入れる気は有るのね」
「おう」
 そんな事はタカコの様な外野に言われる迄も無く、既に決定事項として高根の中に存在する。情勢を考えればその時機をいつにするかという事だけが不確定であるだけの話で、その事は遠からず凛へと正式に伝え、出来れば彼女に受諾して欲しい、そう思っている。
「ああ、そういやよ、素案、どんな感じだ?」
「それがまだまだでなぁ。一度対馬区で実際に車両使っての訓練やって、その上で組み立てた方が良いかもな」
「そうか……お前には色々としんどい事ばっかり頼んでて悪いと思うがよ、頼むな」
 そう、その為にも先ずは自分の責務に真っ向から取り組むしか無い。大和の未来に影が落ちれば、それは自分の、そして凛の不幸へと直結する事態になる。博多、そして対馬区を最前線とする活骸との戦いに致命的な事態が起きれば、例え関東や東北や蝦夷へ逃れたとしても、終焉が訪れる時間がほんの少し遅れるだけだという事は、自分達九州の軍人が一番よく分かっていた。
「ああ、それは気にしなくて良いんだけど。あ、じゃあさ、今日の夜にでも子猫ちゃんに会わせてよ。私だけ行くのも子猫ちゃんに悪いから、私と敦賀と、タツさん今日も来るって行ってたから、タツさんの三人でお邪魔する感じで」
「いや、今日はちょっと……無理だわ、多分」
「何故」
「……ほぼ夜通しで盛りまくっちまって……一日寝たきりになってると思う、あいつ」
「うわぁ……さいてぇ……」
 タカコにしてみれば仕事も大事な事ではあるが、高根が特定の女生徒の未来を心に決めたという事に甚く興味を惹かれるのだろう、重要案件である筈の素案の方は実に軽い扱いで流し、もっと話を利かせろ、寧ろ会わせろとせがんで来る。こうなってしまった以上会わせる事はもう観念せざるを得ないのだが、今は凛の状況が少々宜しくない。その事を正直に話せば、流石にタカコもやや引き気味で白い目を向け、それを受けながらまた頭を掻いた。
 と、机上の電話が鳴り響いたのはそんな時、この電話を片付けてから着替えるかと高根は立ち上がり、取り上げた受話器を耳へと当てた。

『真吾か?俺だ。鳥栖で活骸が発生の報が太宰府に入った。現時点では規模は全く不明、距離的に一番近い太宰府から第一陣を出した、俺ももう現場に向かう。我々陸軍で出来るだけ生存者の救出や事態の収束に向けての努力はするが、恐らく無理だろう。海兵隊からも兵員を可能な限り出してもらいたい、頼むぞ』

 受話器の向こうから聞こえて来たのは盟友黒川の硬い声音、決意を新たにして早々にこれか、高根はそんな事を考えて舌打ちをしつつ、手短に遣り取りを終えて受話器を机上へと戻す。
「鳥栖で活骸が発生した、総数も犠牲者数も現時点では不明だ。距離的に近い陸軍の太宰府駐屯地から龍興の指揮で人員が出て向かってるそうだが、海兵隊も即時出撃だ……素案はどうやら実戦で掴んで組み立てる事になりそうだな……最悪な流れだが、頼むぜ」
「了解、総司令」
 その日大和は三度目の本土侵攻を許し、事態はまた一つ大きく動き出した。
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