犬と子猫

良治堂 馬琴

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第39章『艶』

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第39章『艶』

「……やっちまった……」
 明け方と言っても差し支えの無い静まり返った時間帯、高根宅の寝室で裸のまま身体を起こし頭を抱える男一人、家の主である高根真吾。隣には身動ぎもせずに深い眠りに落ちている凛、高根はそんな彼女の頭を優しく撫でながら煙草を咥えて火を点け、天井を仰いで静かに煙を吐き出した。
 妊娠等させて責任を取らされる等冗談ではない、そんな意識から発せられた危機管理は実に徹底していて、初体験からこちら避妊具を装着せずに女を抱いた事は無かった。惚れた女を初めて抱いた、初めて隔てる物の無い交わりをした、四十一にもなって遅過ぎる『初体験』、誰に知られたわけでもないのに気恥ずかしくて堪らないし、凛に対しては抜かずの三発とその後の数発、そしてそれ等に伴うあれやこれやは流石に無理をさせ過ぎたと罪悪感を感じずにはいられない。
 それにしても、と、静かな寝息を立てる凛の寝顔を見て事に及ぶ前に彼女が言っていた事を思い出す。前の夫に不感症だ抱き人形だと散々罵られ、自分自身も性交を一度も気持ち良いと思った事が無い、だから高根を満足させる事は出来ないだろうがそれでも抱いて欲しい、涙を浮かべてそう言う彼女に何度も口付けを落とし宥めながら行為に及んだ。そこで眼前に曝されたのは乱れ喘ぐ凛の艶態。自分でも想像もしていなかったのか困惑しつつも快感に翻弄される彼女は、惚れた欲目を差し引いても商売女等及びもしない程の濃い色香を放ち、与えれば与える程にそれは強さを増し、貪欲に快感を求めて来た。
 それにすっかり中てられたのか避妊具が無い事も忘れて求め、突き破る程の勢いで穿ち吐き出し続け、あの自分はさながら盛りのついた猿の様だったなと自嘲の笑みを浮かべつつ、もう一度凛の頭をそっと撫でる。
「……あーんな色気と反応見せ付けておいて何が『満足させてあげられない』だ、ばぁか。確かに満足はしてねぇよ?でもよ、もっと欲しくなったしああいうお前をもっと見たくなった、そういう意味での『満足してない』だからな?不感症とか有り得ねぇわ。元亭主が下手糞過ぎただけだよ……そんな屑男が与えなかった分も含めて、これから先ずっと、俺がお前に全部与えてやるから……全部、全部だ」
 だからもうその三年間の事は忘れてしまえ、覚えておく必要なんか欠片も無い、耳元に唇を寄せてそう囁くと、寝台脇の棚の上に置いていた灰皿で煙草を消し、身体を横たえて凛の小さな身体を両腕で抱き締めた。途端に忍び寄って来る眠気、心地良い疲れに浸りつつそれに身を任せれば、直ぐに眠りへと落ちて行った。
 それから二時間、いつもの時間に目覚まし時計が耳障りな音を立て始める、出来ればこのまま凛を抱き締めて彼女が目を覚ますのを待ち、昨夜の色香にまた溺れたいと思うものの、仕事の状況も立場もそれを許しはせず、今晩に持ち越しだなと独り言ちつつ高根はゆっくりと起き上がる。
 見下ろす凛はまだ深い眠りへと落ちたまま、あれだけの行為と負担を強いたのだ、目を覚まさないのも当然だし今日は碌に起き上がれないだろう。一日ゆっくり寝ていれば良いと頬へと口付けを落とし、着替える前に湯を浴びるかと立ち上がり部屋を出た。
 そうしてさっぱりとして寝室へと着替えに戻った時も眠ったままの凛、その穏やかな寝顔に高根は目を細め、着替えた後は今度は唇へと口付けて階下へと降りる。凛が作ってくれていた鯖の味噌煮と味噌汁で食事を済ませ、
『無理させてごめんな?疲れてるだろうから、今日は何もしなくて良い、ゆっくり寝てろ。鯖、美味かったよ。愛してる』
 と、そう書き置きを残して家を出た。
 散弾銃の訓練は順調に進んでいる、それと平行してトラックに乗って防壁の向こうへと出て走行している荷台からの狙撃もそろそろ始まるだろう、それに参加させる兵員の選抜も大体済んでいるとタカコから報告を受けている。随分早いなとも思ったが、こういうのは生まれ持った才能が物を言う、才能の無い奴が幾ら訓練を積んでも、才能を持っていて何もしていない者に劣るというのはよく有る話だと言い切ったタカコ。成る程見事な割り切り振り、冷徹ささえ感じさせるが実際そんなものなのだろうなと高根自身もそう思う。
 努力が必ず報われる、清廉で実直な者が勝つ、正しい事が正しい事として通る、そんな世界ではない事はよく分かっている。それでも自分達の未来を掴み取る為に、命を次とそれ以降の世代へと繋いで行く為に自分達は戦うのだ。それが如何に理不尽で不条理で残酷であったとしても、愛する、大切な者達の為に、自分達海兵隊はその最前線に立つ防人、人類の守護者。
 そして、今迄はそれだけだったが今はそこに高根真吾個人として愛する存在が加わった。優しくて暖かくて、そして昨夜の様な艶を持った凛、彼女を護る為なら何でも出来る、してみせる、彼女の存在が自分をより強く奮い立たせてくれる。
 家族等、愛する伴侶等自分には必要無いと思っていた、自分を弱くするかも知れないと忌避すらしていた。けれどそれはどうやら間違っていた様子で、そんな存在が有るからこそより強くなれる、自分もまたそんな人間の一人だったのだと高根は小さく笑い、高く澄んだ秋の空を見上げて基地へと向かって歩き出した。
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