犬と子猫

良治堂 馬琴

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第38章『通う想い』

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第38章『通う想い』

「高根さん、お帰りなさい。今日もお疲れ様でした」
 扉を開けて玄関の中へと入れば、凛がいつもの笑顔を浮かべてぱたぱたと駆け寄って来て、労わりの言葉を掛けながら上着と弁当の包みを受け取る。
「ご飯出来てますよ、今日は魚屋さんに鯖をお勧めされたので味噌煮にしてみました」
「お、好物好物」
「そうなんですか?良かったです」
 三十cm程下から向けられる柔らかで暖かい笑顔、それに胸が締め付けられる感覚を覚えつつ言葉を返し、台所へと向かう凛の後をついて廊下を歩く。未だに頭に残るのは昼間の出来事、タカコから明示された『取り残された自軍兵士や非戦闘員を見捨てる』という可能性、それに基づいた戦法。その話を聞かされた時に真っ先に脳裏に浮かんだのは凛の顔、自分と彼女の間に分厚い活骸の壁が出来ている情景が瞬時に浮かび、心臓が嫌な鼓動を打ち冷や汗が浮かんだ事を思い出す。
 海兵隊基地襲撃以降、本土に活骸が出現した事は今のところは無い。それでもそれはたった今起きるかも知れないという事は自分達が身を以って知っている、汚染が齎されたとしても大丈夫な様にと立場を利用して凛に抗体の投与をしようかと思いもしたが、活骸に襲われたとしたらそんなものには何の意味も無いというのも、よく分かっている。
 あの化け物と戦う力も術も何も持たない凛、いつ何処に活骸が出現するか分からない今、もし自分が護ってやれないところでその禍に彼女が巻き込まれたら、そう考えればまた心臓が痛くなる、この小さくて優しい安らぎを喪う等、今の自分にはもう到底考えられない、考えたくもない。
「豚バラ肉も安かったので塊で買ったんですよ、角煮にしようかと思って仕込んであるんです。明日のお夕飯はそれにしますね」
 高根のそんな想い等は何も知らない凛は今日の出来事等を話しつつ台所に入り、味噌汁と鯖の鍋を温め始める。ほんの二月程前に出会った小さな子猫、その存在がこうも大きくなるとは高根自身考えてもみなかった。全身全霊を懸けて護ってやりたいと思える存在、そんな存在に出会えたらと考えた事は何度も有る。けれど本当に出会えるとは思ってもみなかった、凛と出会ったあの日も、彼女がそんな存在になるとは思いもしなかった。
 夕餉の支度を整える小さな背中、言葉も無く静かに歩み寄り両腕を伸ばし、何の前触れも無く静かに、けれど強く抱き締めた。突然の事に強張る身体、離したくないと更に深く抱き込めば凛の手がガス台に伸び鍋を温めていた火を消す。
「あの……あの、高根……さん?」
 柔らかな黒髪に口付けを一つ落とせば身体は更に固くなり、突然の状況に困惑しきった声音が高根を呼ぶ。その声に腕の力を緩めて自分の方を向かせてみれば、向けられたのは真っ赤な顔と上目遣いの潤んだ眼差し。痛くなる心臓、身体の奥底から湧き上がる男の欲、それに抗う事もせずに凛の頬に手を這わせ、ゆっくりと、ゆっくりと口付けた。
 何か言おうとしたのか薄く開かれた唇に舌を這わせそのまま奥を静かに侵して行く。抵抗は無いが応えるわけでもなく、慣れていないのかどう反応したら良いか分からないのか、されるがままのその様子をいい事に更に深くを侵す。頬に這わせていた掌を後頭部に回し、もう片方の腕は抱き締めていた身体を更に深く抱き込み、時折鼻から抜ける高い声と段々と熱を帯びる身体、その全てに煽られながら執拗に求め、やがて離れた唇を今度は首筋に這わせれば、身体は大きく震え唇からは高い喘ぎの声がはっきりと漏れた。
「……悪い、ごめんな?」
 それに弾かれる様にして身体を離し、謝罪の言葉を口にしながら頭を撫でる。彼女は商売女ではない、自分の欲望のままに手を出し抱いて良い女なんかではない、そう自分に言い聞かせた高根が食事にしようと踵を返せば、それを止めたのは彼の服の裾を掴んだ小さな手と、消え入りそうな声。
「……高根さんは……あの、私と、そういう事、するの……嫌ですか?」
 いきなり何を、そう思いながら高根が振り返れば、真っ赤な顔でぽろぽろと涙を零しつつも真っ直ぐな視線を向けて来る凛の姿、泣かせてしまう程に嫌な思いをさせたかとぎょっとした高根が慌てて謝罪すれば、唇を噛み締めてふるふると頭を振る。
「ごめんな?いきなりあんな事して、嫌だったよな?」
「嫌じゃ、ない……です」
「いやいやいや、無理しなくて良いから、な?俺が悪かった、本当にごめんな?」
「嫌じゃないって……言ってるじゃないですか!」
 初めて聞く凛の大声、それに高根が動きと言葉を止めれば、泣きながら堰を切った様に凛が話し出す。
「私、高根さんにそういう事して欲しいなって、ずっと思ってました!そりゃ最初からじゃないですけど!二ヶ月一緒に暮らして、頭撫でてくれたりとか笑いかけてくれたりとか、凄く嬉しかったです!でも、その内それだけじゃ嫌だなって、抱き締めて欲しいとか、抱いて欲しいとか、そういう風に、思う様、になって……私が、そう思っちゃ、いけないですか!?」
 急激に昂ぶり過ぎたのか途中からは途切れ途切れになる言葉、最後はもう顔を両手で覆って泣き出してしまい、
「私の……そういう気持ち、迷惑、ですか?私、高根さんが、好き、です……!」
 悲痛さすら感じさせる声音でそう言うと、後はもう嗚咽を漏らすだけ。
 こんなに熱い告白等、された事は無い。控えめな性格の凛、その彼女がこんなにも生々しい想いを口にする等余程の覚悟をしての事だろう。高根はそんな事を考えながら、胸に熱いものが込み上げるのを感じつつ再度腕を伸ばし小さな身体を抱き締める。
「……ごめんな?お前みたいなずっと年下の女にそんな事言わせちまって……男失格だな、俺」
「や、だ……、聞きたくないです……!」
 言わんとするところを勘違いしたのか腕の中で暴れる凛、高根は深く抱き締めてそれを封じつつ小さく笑い、身体を屈めて彼女の頬へ口付けた。
「……好きだよ、お前が。好きじゃ収まらねぇかな、愛してる」
「……う、そ……無理しなくて、良いです」
「嘘じゃねぇよ、俺も、お前の事抱きてぇって、ずっと思ってた。お前が許してくれるなら今直ぐにでも抱きたい、欲しいよ」
 そう言って顔を覗き込めば驚きに見開かれた双眸、涙で濡れた頬をぺろりと舐めて
「お前を愛してる、凛。抱いて良いか?」
 優しく微笑んでそう言えば、再び顔を歪めて泣き出した凛が腕を伸ばし、高根の背中へとそれを回して抱きついて来る。
「……はいっ……!」
「よっし、それじゃあ早速。鯖は……明日の朝飯で良いや。おじさんはねちっこいぞぉ、覚悟しとけよ?手加減は、多分出来ねぇから」
 抱く想いが同じでそれが通じ合ったのなら、自制し思い止まる理由は何も無い。出来るだけ負担を掛けない様にしてやりたいが今夜ばかりはそれも難しそうだ、そんな事を考えつつ凛を両腕で抱き上げ、高根は寝室に向かって歩き出した。
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